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No.048 大阪を育んだ「母なる川・淀川」を知る

〜柴島晒から柴島浄水場、水道記念館まで〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.054

 

柴島浄水場の設置と淀川改修工事により、柴島のまちは大きな変貌を遂げました。300年以上の歴史を持っていた晒業が衰退する一方で、土地は浄水場の敷地となり、また川床となりました。 大阪市民にとっての母なる川・淀川と柴島の深い関わりについて考えるまち歩きです。

 

阪急 「柴島」からスタートです。 (ここまで自宅から歩いてきました。 遠かった…)

「柴島」(しばしま)って読みそうだけど(くにじま)です。

昔、茎(くき)の渡しという渡し場があり、「茎島(くきじま)」から転じたという説、櫟(くぬぎ)が多く茂り、櫟を柴薪として伐採していたので「櫟島(くぬぎじま)」が転じたという説、柴島神社の創始による説などが「柴島」の地名由来として伝えられているそうです。

 

@ 法華寺

天平13(741)に聖武天皇が諸国に国分寺(金光明四天王護国之寺)、国分尼寺(法華滅罪之寺、略して法華寺)の建立を指示し、このあたりの地に摂津国分尼寺が設けられました。東門は毛馬、南門は北野、西門は西町(現・新大阪駅付近)にあったとされる程、寺域が広かったようです。

国分尼寺建立当初、尼僧10人が常住し、水田百畝を与えられ、後に、孝謙天皇の信仰厚く、田畑四千畝を賜ったと伝えられています。山号の天平勝宝山は、孝謙天皇時代の年号から取られています。

寺は一時廃絶しましたが、応永13(1406)に了庵慧明が再興し、禅宗となりました。法華寺は明治42(1909)に柴島水源地が設置される際に移転・縮小しました。

法華寺境内には、国分尼寺の塔心礎と言われる円形の礎石3基が保存されています。

 

 

 

 

紫陽花が綺麗です

国分尼寺の塔心礎と言われる円形の礎石3基が保存されています

A 柴島城址

三好長慶の実弟・十河一存(そごうかずまさ)が築城したと伝えられています。十河一存が阿波から堺に出てきたのが天文15(1546)と言われており、天文18(1549)の江口の戦い時には柴島城が出てきますので、その間に築かれたものと思われます。

三好長慶軍と争っていた三好政長軍が天文182月に柴島城に入ったものの、同年3月に長慶軍の猛攻によって柴島城は陥落しました。後に稲葉紀通が伊勢から中島藩主に移封された際、元和3(1617)に柴島城に居城したとの記録が残っていますが、紀通は寛永元年(1624)福知山藩に移封され柴島城を離れました。柴島城の廃城時期は不詳ですが、お城があったとされる場所に本丸、城道という字地名が残っていました。

狭い路地を探し回りました

 

 

B 柴島神社

貞永元年(1232)の大洪水時、村人たちは他所より約3m高い仲哀天皇を祀る森に避難しました。そこへ柴の束に乗った小祠が漂着し、その後村人たちが産土神として祀り始めたのが神社の起源とされています。

神社は現在より南東の地(字白妙)にありましたが、明治34(1901)に淀川改良工事のため現在地(字調布)に移転させられ、仲哀天皇社も摂社として境内に移転させられました。

 

 

柴島晒(さらし)ゆかりのの地

江戸時代、大坂(現・大阪)の周辺では綿花の栽培が盛んで、それを原料とした木綿業ははったつしていました。柴島一帯では、淀川の流れを利用して木綿を洗い、それを干して乾燥させ、陽にあてることで白く加工するという、晒(さらし)業が営まれていました。明治の末には、年間八百万反を生産し、大阪の主力産業のひとつでしたが、淀川の改修工事や柴島浄水場の建設などにより、この産業は衰えてしまいました。(碑文の要約)

 

C 柴島晒

柴島の綿布晒業の始まりは文禄3(1594)とされ、17世紀前半の『大坂市街・淀川堤図屏風』に柴島晒をつくる女の姿が描かれ、『澱川両岸名所一覧』や『浪花百景』にも柴島晒堤が描かれています。布木綿を淀川の流れでそそぎ、広大な堤の芝で真っ白な晒を並べることができる立地条件にも恵まれ、晒業は先祖代々柴島の地で受け継がれてきました。字地名には調布という名が残っていました。

柴島に水源地を建設することが決まった明治40(1907)に晒業者から出された水源地設置反対の陳情書によれば、300年以上の歴史と当時の従事者数百名が生計の道を失うことの損害が切実に訴えられています。大阪市内への清浄な上水道供給の裏には晒業者の悲劇がありました。

 

尼崎市の上水道もここから取水してるんだね

 

 

 

大阪市の上水道はここから取水しています

汲み上げた水は柴島浄水場で高度浄化処理され送水管の橋で市内中心部に送られているようです

淀川GC

淀川大堰 この施設をGoogleマップで探してみてください。 地図には出ませんが航空写真に切り替えると出てくるんです。 なんで?

D 柴島浄水場

明治10(1877)、明治12(1879)、明治19(1886)と大流行したコレラによって、大阪府内は死者、患者が溢れました。また、明治23(1890)に新町焼けが起こりましたが、水道が普及しておらず消火に苦労しました。そのため市民から水道敷設が希望され、桜の宮に水源地を設置し、大阪城天守閣東側の貯水池から自然流下方式で水を供給することが明治24(1891)に決まり、その4年後に桜の宮水源地が完成しました。( 1日最大給水量:51,240)しかし、明治30(1897)の大阪市第1次市域拡張に起因する人口増加は水不足を招来し、大阪市は水源地拡張の必要性に迫られました。一時、江口を水源地とする自然流下方式給水案が計画されましたが、堤防決壊の危険性により撤回され、当時、高地がない都市部の水道供給方法として欧米でポンプ圧送方式による給水が採用されていたことから、明治40(1907)に代替地として柴島の地に水源地を建設することが決まりました。

晒業者による反対がありましたが、大阪市は明治41(1908)には敷地13万数千坪を買収し、水源地設置工事を開始しました。大正3(1914)に完成した柴島浄水場は1日最大給水量151,800㎥の設備を持ち、当時東洋最大規模の水源地が誕生しました。現在の柴島浄水場の1日最大給水量は1, 180, 000㎥で、庭窪浄水場(1日最大給水量:800, 000)、豊野浄水場(1日最大給水量:450, 000)と、3つの浄水場を合わせた1日最大給水量は243万㎥となり、大阪城天守閣をコップに見立てて67.5杯分の水を供給することが可能です。

 

E 上水道

明治10(1877)のコレラ流行後、大阪府は飲料水汲み上げ場所を指定するなど、川水飲用の危険性を訴えてきましたが、上水道は技術上、財政上の問題から敷設されるに至りませんでした。

横浜・函館・長崎に次いで、大阪で国内4番目の近代水道が完成したのは明治28(1895)のことです。上町台地の一部を除き大阪平野の地下水は塩分、鉄気が多く飲用には適さず、近代水道が通水するまでは、比較的綺麗な淀川の水を川や運河から取水して飲用していました。明治3(1870)頃には、「水屋」という水売り業者が存在していたとされ、明治20(1887)頃には、中津川岸に蒸気機械を備えた飲料水濾過所を設置し、近隣諸村や大阪市中にまで飲料水を販売する者が現れました。この頃、水屋は網島方面に多かったようです。しかし、桜の宮水源地から上水道が供給され始めると、業者は廃業に追い込まれました。その後も、明治35(1902)に長柄運河河畔に濾過所を設けて水を蒸留し、水屋に水を卸す業者が存在していたようですが、柴島浄水場完成以後の存在は詳らかではありません。

平成12(2000)に柴島・庭窪・豊野の3浄水場すべてでオゾン処理2回と粒状活性炭処理を行う高度浄水処理が導入されたことで、より安全で美味しい水が大阪市内全域に届けられています。

F 水道記念館

大正3(1914)から昭和61(1986)まで主力ポンプ場として使われた旧第一配水ポンプ場を活用し、通水100周年を記念した平成7(1995)に水道記念館がオープンしました。

館内では希少生物であるイタセンパラやアユモドキなど淀川水系の生き物を間近で見ることができ、また、大阪市水道の歴史を学ぶことができます。

赤レンガ、御影石を用いた建物は宗兵蔵(そうひょうぞう)の設計で、国の有形文化財として登録されています。

 

 

館内は小学生を基準にした教育展示となっています。

今日は「楽しく学んで水博士! あつまれ!!ウォーターフェスティバルin水道記念館」というイベントをやっていて、たくさんの親子連れが集まっていました。

展示施設は閑散としています

 

 

 

阪急「南方」がゴールです・・・この後、西中島南方〜新大阪〜自宅まで歩きました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:12,688歩 距離:9.3km 移動階数:16階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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