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No.047 ものいわじ世がために身を捧げた人々

〜中島にまつわる悲話の数々〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.005

 

ウォーキングを再開して足腰の痛みが引くまで5日間。次も3時間以内のコース選択…で、地元近辺の「東三国」スタートを選択しました。

 

長柄人柱となった巌氏(いわうじ)、百姓普請による大水道工事である中島大水道など、世のため人のために自らが犠牲となった人々にスポットを当てました。

崇禅寺に至るまで、涙流さずにはいられない、大阪の先人たちの偉業に触れるまち歩きです。

  

大阪メトロ 「東三国」からスタートです。

 

 

   

@ 蒲田神社

室町時代の創建で、御祭神は宇賀御魂大神と別雷大神です。蒲田神社は、かつては室の社と呼ばれていましたが、明治42(1909)に当時の地名である大阪府西成郡中島村大字蒲田の字名を取って蒲田神社に改名しました。

現存する境内の古木には蒲田千年楠を始め数株があり、かつて数十株の大樹が繁茂していた頃の名残をとどめています。 

毎年の初もうでに行く地元の神社です。正月とは違って静かな境内です。

白光社は稲と水の神様。切り株の上に巳さんを祀る小さな祠をのせています。

蒲田千年樟

 

 

 

A 大願寺

自ら進んで長柄の人柱となった巌氏(いわうじ)の功績は朝廷にまで伝えられ、推古天皇の勅命により、巌氏の冥福と長柄橋の守護を目的とする大願寺が建立されました。宝永6(1709)に、両替商の天王寺屋彌右衛門が再興しました。

B 長柄人柱 巌氏碑

長柄橋の架橋は、度重なる失敗を繰り返す非常な難工事でした。垂水の長者・巌氏(いわうじ)は、横継ぎを当てた袴を履いていながら、「袴に横継ぎを当てている者を人柱にすればよい」と進言し、橋がないことに苦しむ人々のため、自らが人柱になることを申し出ました。

巌氏は、人柱となる日、娘の照日らに別れを告げ、石櫃に入り、生きながら橋柱の下深く埋められました。巌氏が人柱となるや、橋は難なく架設され、大水が出ても流されることがなくなりました。推古天皇の治世613年のことです。

父の死後、悲しみのあまり、物言えなくなった巌氏の娘・照日は心まで閉ざしてしまい、ついに嫁ぎ先から里方に帰されることとなりました。長柄橋を渡って垂水まで来た際、一羽のキジが鳴き、夫が弓で射止めました。輿の中から見ていた照日は「ものいわじ 父は長柄の橋柱 鳴かずばキジも 射られざらまし」と詠じ、泣き入ったと伝えられています。その後、夫婦は仲良く暮らしました。

長柄人柱巌氏碑から地図上でほぼ真北の方角に垂水神社があります。垂水神社付近はかつて雉子畷と呼ばれ、現在も雉子鳴き道という通りに碑が残されています。 

 

次のポイントへ行くのに阪急京都線の低〜い線路下を腰を曲げてくぐります。

地元の人たちは、リンボーダンススタイルでくぐり抜けるそうです。(ウソです)

 

C 須賀神社跡

西淡路は、昭和33(1958)まで国次町という地名でしたが、これは刀工・来国次から取ったものです。

来一族が南北朝の戦乱を避けて京から淡路に移り住んだ際、一族の鎮守として創建されたのが須賀神社です。須賀神社は、明治43(1910)に中島惣社に合祀されました。

大阪府天然記念物に指定された樹齢600年と言われる大楠が残っています。

 

 

「樹齢600年と言われる大楠」 蒲田神社の千年楠よりデカイ!! 感動した!

 

 

D 中島大水道顕彰碑

北中島22カ村の庄屋や村民が、度重なる水害と水はけの悪さに耐えかね、延宝24(16741676)にかけて何度も江戸幕府に対して公儀普請による水路開削を請願しましたが、幕府は多額の工事費出費を嫌がり、百姓普請を前提に水道開削を許可しました。

庄屋たちは22カ村の村民を説得して資金2千両を募り、延宝6(1678)の春にわずか50日間で伝法・申新田に至る9.5キロメートルの大用水路を貫通させました。

この中島大水道は、淀川改修期の明治32(1899)まで220余年もの間、その機能を果たし続けました。東淀川区役所には中島大水道の古絵図と復元模型が展示されており、当時の水路を知ることができます。

 

右端に写ったお婆ちゃんが、「写真撮るのに邪魔だったら動くよ」と気遣ってもらったので、少々のつもりで会話をしましたが・・・。連れが2か月前に亡くなって家の中が整理できていない〜。日々の買い物がつらい。年金が少ない・・・

などなどお婆ちゃんの話が途切れず、なかなか次のポイントへの移動ができなかった。

 

E 永春寺

来一族の居住地があった場所で、境内には来一族の石廟と、一族が使用した空井戸が残っています。また、淡路で7年程暮した上田秋成寄贈の石燈籠があることでも有名です。

来一族の石廟と、一族が使用した空井戸

 

F 中島惣社

白雉2(651)に五穀豊饒を祈って創建されたと伝えられます。中島郷48カ村の親宮で惣社と言われ、明治末年には19,000坪余りの境内を持っていました。

境内に残る芭蕉句碑は、芭蕉顕彰に生涯を尽くした俳人・不二庵二柳の弟子、三四坊扇暑が文化10(1813)に建立しました。中島惣社の北側を流れていた中島大水道の一部が落ち葉川とも呼ばれていたことから、「宮人よ わが名を散らせ 落ち葉川」の句を選んだと伝えられています。

 

参道が長〜い

 

広い敷地の神社です。明治末年には19,000坪余りの境内を持っていたそうです

 

芭蕉句碑 「宮人よ わが名を散らせ 落ち葉川」

中島惣社の北側を流れていた中島大水道の一部が落ち葉川とも呼ばれていたそうです

 

 

 

G 崇禅寺

天平年間(729749)に法相宗の行基により創建されました。

嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で播磨守護・赤松満祐によって殺害された室町幕府六代将軍・足利義教の首が寺に葬られ、翌1442年に時の管領・細川持賢が大伽藍と寺領を寄進し、足利義教ならびに細川家の菩提寺として再興されました。その折、特叟亨隣大和尚を開山とする曹洞宗に改められました。

足利義教の首塚とともに、特叟亨隣大和尚、細川玉子(ガラシャ夫人)の墓が並んでいます。

崇禅寺の裏口? 石碑には「崇禅寺馬場」と書いてあります

想像していたより、ずーっと大きなお寺です

正面玄関? 閉まっている・・・

正門横の石碑に「豊崎県 県庁所在地」  Wiki豊崎県(とよさきけん)は、1869(明治2)に摂津国の旧幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の大阪府北部から兵庫県南東部に分布している。

 

 

 

 

足利義教の首塚とともに、特叟亨隣大和尚、細川玉子(ガラシャ夫人)の墓が並んでいます。 

左から、細川玉子(ガラシャ夫人)の墓、足利義教の首塚、特叟亨隣大和尚の墓

足利義教の首塚

細川玉子(ガラシャ夫人)の墓

特叟亨隣大和尚の墓

 

  

H 遠城兄弟の墓

正徳5(1715)114日、大和郡山の藩士・遠城治左衛門と安藤喜八郎兄弟は、末弟の宗左衛門が剣術の試合で負かした生田伝八郎に闇討ちに遭って殺されてしまった仇を討とうとしましたが、反対に伝八郎の多勢の門弟によって、崇禅寺境内で返り討ちに遭いました。

当時の住職十四世門啓天岑和尚と、元江戸町方与力の勝見宗春が崇禅寺内に墓碑を建立し、兄弟を弔いました。

 

 

  

「阪急 崇禅寺」がゴールです・・・この後、西中島南方〜新大阪〜自宅まで歩きました。

駅の上を高架にする工事中? 大阪市東淀川区の阪急京都線・千里線の淡路駅周辺で、高架化の工事が続けられています。1997(平成9)に事業認可し、高架建設工事に着手したのが2008(平成20)

完成予定は、当初は「高架切替が2017年度末、全体完成2020年度末」となっていましたが、2015年にそれが7年延期に。工期の大幅な遅れの原因について、大阪市は「用地確保の問題」としています。現在は「高架切替が2024年度末、全体完成2027年度末」となっています。

京都線と千里線、2路線の線路にかかる駅西側の踏切は、ただでさえ通過列車が多いのに加え、この列車通過待ちの停車や低速運転により、遮断時間の長大化に拍車がかかっています。高架化により、この「開かずの踏切」と、ダイヤのボトルネック状態の解消を図ります。京都線は3.3km、千里線は3.8kmが高架化され、淡路駅をはじめ崇禅寺駅、柴島駅、下新庄駅も高架化。全部で17か所の踏切が除却されます。

下図が崇禅寺付近の完成イメージだそうです。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:12,278歩 距離:8.3km 移動階数:8階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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