No.046 ほんまは「古大阪」? 新大阪の歴史をたどる! 〜中島大水道悲話から法橋・蔀関月の墓まで〜 |
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■第二の人生?をスタートして約2か月が経った。自由を存分に堪能した毎日ではあるものの、足腰の衰えが顕著に自覚する頃となってきた…ような気がして、「何とかしなければ!」と思うものの、隣の公園を歩いても飽きてくるし(毎朝、ぐるぐる廻っているオジサン・オバサンがいるが…)どうしたものかとベランダで夕方から缶チューハイを飲みながら考えていた。 「昔?は“大阪あそ歩”のマップで歩いていたなぁ、まだまだ行っていない処があったなぁ」と思い、調べた。 あるある!、まだ沢山残ったまま中断している! 「これだ!!!」ということで3年半ぶりに再開することにした。 まずは地元の新大阪から〜
■聖武天皇の時代、天平19年(747)に僧・行基が創建したと伝えられる光用寺や、延宝6年(1678)に自分の命をなげうってでも中島大水道を完成させ、村を救おうとした3人の庄屋たちの遺徳を偲ぶさいの木神社、名挿画家・蔀関月ゆかりの正通院などを巡ります。新大阪界隈の意外な歴史に触れてみて下さい。 |
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■JR新大阪からスタートです。 |
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■バス駐車場にたくさんの観光バス。 三田(東京)の高校の修学旅行〜奈良ナンバーのバスなので行先は・・・
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@ 弾丸列車計画と新大阪駅 ■昭和13年(1938)日本から朝鮮半島・アジア大陸(中国)へ向かう需要の急増に伴い、東京〜下関間の輸送力拡大とスピードアップを目的に鉄道省において「新幹線」「広軌幹線」計画が開始。世間一般では弾丸のように速い列車が走るという意味から「弾丸列車計画」とも呼ばれました。
昭和15年(1940)、帝国議会において昭和29年(1954)までに東京〜下関間を開通する「広軌幹線鉄道計画」(総予算5億5600万円)を承認。構想としては下関〜釜山間に海底トンネルを掘削し、朝鮮半島・アジア大陸(中国)まで直通列車を走らせるというものもありましたが、戦局悪化のため、昭和18年(1943)中断されました。
現在のJR新大阪駅は、昭和38年(1963)に東京オリンピックの開催に合わせて建設された東海道新幹線の終着駅として完成し、翌年(1964)開業しました。 |
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A さいの木神社 ■江戸時代、この辺りは土地が低く、たびたび淀川が氾濫しました。疲弊した農民を救うため3人の庄屋(山口村・西尾六右衛門、北大道村・澤田久左衛門、新家村・一柳太郎兵衛)が主唱者となり、治水工事を幕府に直訴。延宝5年(1677)に工事許可がおりましたが、費用は全額百姓持ちでした。 年貢だけで精一杯の生活を強いられていた百姓には無理難題で補助してほしいと嘆願しましたが聞き入れられず、かえって工事許可を取消され、庄屋たちはついに我慢ができなくなり、延宝6年(1678)無許可のまま治水工事に乗り出しました。 村民たちも老若男女を問わず、私財をなげうって工事に参加。現在の東淀川区〜此花区間の約9.5キロ、幅平均約22メートルの水路(中島大水道)をわずか約50日で完成させました。 しかし無許可の禁を犯した3人の庄屋はその責任を負って、細目木(さいのき)と呼ばれていた当地で、江戸の方角を睨んで自決したといいます。さいの木神社はその3人の庄屋の遺徳を讃えたものです。 |
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■御神木のケヤキ 「ちっちゃー!」と思ったら、枯れた元の樹の一部が置いてあった。 |
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B 西尾六右衛門の墓 ■西町霊園の中にあります。現在も墓前にお花が供えられており手厚く供養されています。
■西町霊園はビルの隙間にありました。偶然に駐車違反の認定中でした。 |
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■中には入れませんでした。 おそらく、正面の古くて小さな墓碑が「西尾六右衛門さん」のお墓でしょう |
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C 光用寺 ■聖武天皇の時代、天平19年(747)に僧・行基が創建したと伝えられる大変古いお寺です。 もとは法相宗でしたが、正中元年(1324)、第38代住職の空専のときに佛光寺第7代了源上人が寄留。自筆の光明本尊ならびに自画像を下附され、浄土真宗佛光寺派に改宗して護國山光用寺と号するようになりました。
本堂の裏には平家の猛将で「屋島の合戦」でも功名をたてた平景清(通称・悪七兵衛)とその郎党の墓があります。また暦応年間(1338〜1342)に播磨の守護大名・赤松範村が、向き合って抱き合うように咲く「比翼さつき」と呼ばれる珍しい品種のさつきを奉納し、それが江戸時代から明治初頭にかけて高さ3メートル周囲21メートルと山のように咲き誇るようになったので「さつき寺」の名で親しまれるようになりました。
花の咲く頃には、多くの参拝者で賑わい、当時としては珍しく外国人の来訪もあり、特に若い男女には「願かけさつき」として人気があったといいます。惜しいことに今は枯れてしまいましたが、その2代目がわずかに残り、季節になると色鮮やかな花を咲かせます。 |
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■「願かけさつき」の二代目かしら?
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■平景清さんの墓碑を探したけれど見つからないので、諦めて帰ろうとしたら・・・ありました!
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D 中島大水道跡 ■延宝6年(1678)に3人の庄屋(山口村・西尾六右衛門、北大道村・澤田久左衛門、新家村・一柳太郎兵衛)たちと、摂津国西成郡の北中島地域(現在の東淀川区・淀川区・西淀川区)に属する22か村の農民らが、自力で開いた排水路です。 資金約2000両のほとんどを地元で負担しました 。この水路は明治32年(1899)の淀川改良工事まで立派に機能し、永く住民に恩恵を 与えましたが、昭和36年(1961)東海道新幹線工事の開始に伴い、これと同時施工で大水道も暗渠化され、現在は道路などに形を変えました。 |
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■この道路の下が水路「大水道」だったそうです。 ■まだまだ暗渠は続きます |
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■大阪簡易裁判所交通分室・大阪区検察庁交通分室・大阪交通警察官室 重大な交通違反したら、ここに来なきゃいけないのかな? お世話になりたくないですね〜 ■大水道の暗渠は突き当りを左に折れます ■まだまだ続くようです ■新幹線の高架です
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E 野々宮の力石 ■野中福祉会館の横に、野々宮稲荷大神という小さな神社がありますが、この境内には「力石」と呼ばれる石が安置されています。長径60センチ、短径40センチぐらいの卵型で、重さは米俵1つ分(約60キロ)ぐらいだと思われます。 江戸時代、青年たちは人々の前で力石を持ち上げて見せ、自分にも十分に力がついたことを示し、大人の仲間入りを認められたといいます。 |
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■「力石」が見つけられない・・・祠のなかかなぁ ■鬱蒼とした植木の裏にありました「力石〜」 |
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F 立森瑞神(野中の巳さん) ■蛇を主神とする小さな神社で、地元では「野中の巳さん」と呼ばれ親しまれています。大正末頃に村人の何人かが、夢にでてきた大きな蛇に「私を祀れば水不足にならないようにする」と言われ、これは神のお告げだと、お祀りしたのが始まりです。 蛇は河川の神、七福神の弁財天のお使いとされ、その財という字から商売繁盛の神様として信仰されています。また境内には、石の小狸三体(オタケ・八郎・長吉大明神)があり、安産・病気平癒の神として信仰されています。 |
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■次の目的地に向かいます。 運動不足が祟り、かなり疲れてきました・・・帰ろうかな ■銭湯がありましたが・・・「コロナ禍による経営困難、機械の老朽化によりやむなく閉店にいたりました。」 ■阪急京都線
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G 正通院 ■江戸中頃の延享3年(1746)に天満の惣年寄をつとめた金谷歳次郎が創建した曹洞宗のお寺です。金谷家からは三石・遷斎などの学者や文人が出ており、境内の墓地には遷斎らの墓が現存します。また大坂出身の江戸中期〜後期の日本画家で、月岡雪鼎(つきおかせってい)に師事した蔀関月(しとみかんげつ)の墓もあります。 関月は絵画と文章で各地の名所、史跡、名産などを紹介する図会(『伊勢参宮名所図会』、『山海名産図会』など)の挿画をたくさん描き、旅行などなかなかできなかった当時の人々に大変喜ばれました。 |
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■正面・左右に「金谷家」の墓碑が並んでいます ■蔀関月(しとみかんげつ)の墓碑 なんだか新しいけど・・・立て直したのかな? |
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H 木寺子安地蔵尊 ■正通院の少し東南にあります。地蔵尊の祀られた年代は不詳です。もともとこの地は「木寺村」と「川口新家村」という二つの村があり、明治16年(1883)にこの2つの村が合併し、それぞれの旧村名を1字ずつとって現在の地名である「木川村」が誕生しました。明治44年(1911)に現在の淀川河川敷にあった本尊を現在地に移されたといわれています。 |
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■MAPの場所に無く、周辺を二周しました |
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■淀川の河川敷に出ます
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■大阪METRO 「西中島南方」がゴールです・・・この後自宅まで歩きました。 ■久々に歩いた〜! 今日は早く眠れそうです |
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★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:10,433歩 距離:6.4km 移動階数:4階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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