No.045 新田西瓜は種まで真っ赤 〜大坂沿岸最大の新田・市岡の歴史を辿る〜 |
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■市岡新田は、九条の西側に開墾された土地で当初は九条浦新田と呼ばれていました。安治川、尻無川に挟まれ、西は夕凪堤まで大坂沿岸最大と言われた市岡新田をぐるりと一回りしながらその大きさを実感し、新田会所跡碑などゆかりの地を巡ります。 |
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■JR大阪環状線「弁天町」からスタートです。 |
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@ 弁天町駅 ■町名・駅名の弁天は、市岡新田会所に祀られていた弁財天から取られています。 JR弁天町駅は昭和36年(1961)の国鉄大阪環状線開業時から営業し、大阪市営地下鉄弁天町駅と接続しており、その地下鉄弁天町駅は大阪市交通局内で一番標高が高い駅です。 1960年代から1970年代にかけて弁天埠頭華やかなりし時代、陸側の玄関口としてたいへん賑わいました。 |
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A 市岡新田会所跡(波除公園) ■市岡新田は、元禄11年(1698)、伊勢桑名の人・市岡与左衛門が17戸の家族とともに移住・開墾し、後に炭屋町の辰巳屋こと和田氏に経営が引き継がれた大坂沿岸最大の町人請負新田です。 市岡新田では米の他、野菜、桑などが栽培され、特にスイカが味の良さで評判になり、「新田西瓜は種まで真っ赤」と云われたのをはじめ、「市岡茄子」も名産図会に載る程の名産品でした。 明治に入り安治川沿岸に工場が立ち並び始め、また、大正時代に農地が次第に埋め立てられて市岡地域は市街地化しました。 |
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B 波除山跡(弁天東公園) ■波除山は、新田開発に先立つ貞享元年(1684) 、河村瑞賢が九条島を開削し、水流を海へ一直線に導く新川(のち安治川と命名)工事を行った際に出た土砂を積み上げ「洪水の高波をふせぎ除く山」として築いた山です。高さは約15mあり、松の木が植えられて航行する船の目標となっていました。また、池富明神の祠や茨住吉神社の御旅所があり、幕末には畑地の中の丘となっていました。 明治以降、川口居留地の外国人墓地などとして残っていましたが、大正末期の盛土工事で削られてしまいました。戦前までは、市電の停留所名に「波除橋」があり、その名のみとどめていました。現在、約400m東方の波除公園にある小高い人工の山は波除山を模したものです。 |
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C 弁天埠頭 ■昭和40年(1965)開港。関西汽船と加藤汽船の旅客ターミナルとして活躍していました。「ハーバーグリーン」に塗装されたあいぼり丸・こばると丸も就航しなくなって久しく、現在は昭和レトロの対象スポットとなっています。 昭和45年(1970)、万国博覧会開催前後の大阪の繁栄ぶりが看板などの意匠に偲ばれる不思議空間です。内港化工事により海成地となった地域、安治川下流の千舟橋あたりにかけての岸壁には、昭和40年代頃まで船で寝起きする水上生活者が暮らしていました。 |
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D 三社神社 ■三社神社には、元禄11年(1698)、市岡の新田開発工事の成功と守護を祈願し勧請した天照皇大神、豊受大神、住吉大神の三座が祀られたと伝わります。 氏地は、神社のある磯路のほか波除・市岡元町・南市岡・弁天・市岡に及びます。盛土区画整理事業後の昭和35年(1960)以降に、現在地に鎮座しました。 |
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E 磯路三丁目桜通 ■大阪市バス・港区役所前を西に過ぎたところに磯路桜通りの坂道があり、看板に「桂音会」とあります。 万国博覧会の2、3年前、街をきれいにしようと、道路の西側の桂町、東側の音羽町の住民が植樹したのが始まりで、町を愛する地元の人たちの気概を感じさせるプロムナードです。 |
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F 夕凪(ゆうなぎ) ■市電唱歌に「磯路まぢかく来れども 波は音せぬ夕凪や」と歌われる「夕凪」も遡れば新田の井路に架かる「夕凪橋」、大阪市建造の最初の浚渫船「夕凪丸」に行き着きます。 市岡グランドビル名店街あたりは、明治の頃、秋には一面、白い棉の花が咲いていた夕凪堤がありました。かつての夕凪堤は海に面する外堤で、波から新田を守る命綱でもありました。 昭和8年(1933)、夕凪の角に超モダンな一岡ビルが登場しました。戦中は社会運動の拠点となり、戦火にも焼け残りましたが、現在は売却され建て替えられています。 |
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G 市岡パラダイス跡 ■大正14年(1925)に現在のオリックスドライビングスクール弁天町付近一帯、1万2千坪の敷地に「市岡パラダイス」という遊園地がオープンしました。園内には、大劇場・桂座や、屋内アイススケート場・北極館、浴場、映画館、大池などがあり、高さ約30mの飛行塔もありました。当時の入場料は大人30銭、小人15銭でした。 市岡パラダイスはわずか5年で閉園した後、園内の各劇場は単独の営業となり、戦災によりパラダイス劇場だけを残して焼失してしまいました。その後、戦後に行われた盛土工事によりパラダイス劇場も閉鎖しました。 |
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H JR臨港貨物線跡 ■福崎天満宮の南には、JR臨港貨物線跡地が東西に長く伸びています。臨港貨物線は平成14年(2002)頃に廃止となりましたが、踏切跡の西方には貨物駅・浪速駅がありました。 浪速駅は1980年代までは大阪臨港線の倉庫群に続く広大なヤードを有する大阪港における物流の心臓部でありました。 |
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I 甚兵衛渡 ■現在も尻無川右岸の港区福崎と左岸の大正区泉尾の間を運航する大阪市建設局管轄の渡船場。 昔、甚兵衛が櫓を漕いでいたとされる渡しのある付近は櫨(はぜ)紅葉の名所でした。そこにある茶店は「蛤小屋」「甚兵衛小屋」とも呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する人が絶えなかったそうです。 |
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■尻無川水門 |
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■尻無川水門は、大阪ドームの南側から大正区に流れる尻無 川にあるアーチ型水門です。 台風などで押し寄せてくる大阪湾 からの高潮をせき止めるはたらきをもっています。 尻無川水門の完成は昭和45年11月。 アーチ型ゲートの主水門とスイング式ゲートの副水門からなっています。 尻無川水門の主水門、副水門は共に青色をしているのが特徴です。 主水門の径間は57m、副水門の径間は15mで、航行は主水門側のみ認められているため、有効幅員は55.4mです。扉体の大きさは各々、幅66.7m×高さ11.9m、幅17.1m×高さ11.55m。 重量は主水門530トン、副水門107トンです。 閉鎖所要時間は主水門約30分、副水門約10分なので、その他の操作を含め、閉鎖まで約50分かかります。主水門は60kWのモータが2基、副水門は22kWのモータが2基で動いており予備動力として500kVAの発電機が備えられています。 ■日本では大阪だけにしかない巨大なアーチ型の防潮水門で、地域のシンボルとなっており、同規模のアーチ型の安治川水門、木津川水門とあわせて三大水門といわれています。1か月に1回(台風期は1か月に2回)試運転を実施しており、2週間前までに予約すると、試運転を見学をすることができるそうです。 |
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J 尻無川浜納屋 ■尻無川右岸の港区南市岡の堤防には淡路出身の瓦屋の浜納屋が続きます。今日舟運が衰退し、トラック輸送にシフトしたとはいえ、浜には荷揚げ用のベルトコンベヤが設置されています。 |
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K 市岡ビール工房「地底旅行」 ■田中機械の工場跡地に温泉が穿鑿されました。「地底旅行」という名のビール工房は地底1,200mから湧出した温泉水を使った地ビールを提供するレストランです。 |
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■繁栄商店街 |
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L 市岡高校 ■市電唱歌に「築港行もにぎはしく ゆけば九条の発電所 行く手に響く体操の 声は市岡中学校」と歌われた市岡中学校は往年の野球の名門校で「三本線の市岡」として有名でした。 三本線には市内で三番目に設立された府立中学という伝統を誇る心意気が感じられます。 |
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■JR大阪環状線「弁天町」に戻ってきました。
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★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:16,634歩 距離:12.3km 移動階数:19階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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