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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.043 環濠自治都市・平野郷めぐり

〜平安から現代へ…“連綿”と受け継がれるまち〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.144

 

聖徳太子起源の全興寺、坂上一族ゆかりの杭全神社など、1400年近い歴史を有している平野郷。とくに中世以降は、堀と竹を植え込んだ土居で集落を囲み、堺と双璧を成す環濠自治都市として繁栄しました。

大坂夏の陣(1615)以降は戦災にも遭わず、まちそのものが貴重な文化財の宝庫、生きている博物館といえます。また、平野は河内木綿の産地でした。そんな平野郷を歩いて、平野のまちの連綿と続く栄光の歴史に触れてみてください。

  

     

JR大和路線「平野」駅からスタートです。

   

@ 大念佛寺

融通念佛宗の総本山。大治2(1127)、良忍上人が四天王寺に立ち寄った際に、聖徳太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願によって根本道場として創建したのが始まりといいます。日本最初の念仏道場で、平安末期以降、我が国に広まった念仏信仰の先駆けとなりました。

本堂は国指定重要文化財で、大阪府内最大の木造建築です。毎年51日〜5日に行われる「万部おねり」(二十五菩薩聖聚来迎阿弥陀経万部法要)は、大阪市の無形民俗文化財に指定されていて、25人の菩薩が娑婆(外側)から極楽浄土(本堂)に練り歩き、豪華絢爛な来迎世界を体現するというものです。

本堂 

総欅造り銅板葺き。東西約50m、南北約40m。昭和13年再建の大阪府下最大の木造建築。平成15年に国の登録有形文化財指定。

また大念佛寺には寺宝として「幽霊の小袖」が伝わっています。元和3(1617)、観音巡礼の旅をしていた修行僧が、箱根権現への参拝を終えて休憩をしていたところ、死装束をまとった女の幽霊が現れました。女は「私は摂津の住吉宮の神職をしている松太夫という男の妻ですが、旅の途中にこの谷で命を落としてしまい、地獄で苦しんでいるのです。もしよろしければ平野にある大念佛寺で極楽往生への供養をしていただけるよう、夫に伝えてくださいませんか」と言い、自分と会った証拠として小袖と香合を手渡して消えました。修行僧はやがて住吉に渡って松太夫を探し出し、その女の言葉と証拠の品を渡すと、松太夫は「まさしくこれは我が妻のもの」と泣き臥し、大念仏寺で懇ろに供養を行って、女の幽霊も無事に極楽往生したといいます。

毎年8月の第4日曜には「幽霊博物館」が開催され、「幽霊の小袖」の現物や幽霊画などが展示されます。

山門

棟行3.6m、梁行2.7m、両脇に2.1mずつの壁落ち屋根。霊元天皇皇女、宝鏡寺宮徳厳尼ご親筆「大源山」の勅額。平成18年大阪市指定有形文化財。江戸時代初期建造。

 

宝物館

寺宝収蔵用の建物で展示ホールと収蔵庫からなる。昭和55年竣工。

 

楽邦殿(納骨堂)

霊骨、胎内仏、水子地蔵をお祀りする。2階本堂、1階休憩所。平成10年竣工。

 

鐘楼

江戸時代の名鐘。従一位右大臣藤原家孝公撰の銘文。同時代建造。

 

霊明殿

鳥羽上皇を奉安する権現造りの社殿。

江戸時代建造。

 

円通殿(観音堂)

伝教大師作と伝えられる聖観音立像を祀り、左右には大通上人が募った日月祠堂位牌を安置。扁額「円通殿」は大通上人直筆。平成元年改修復元。

 

   

A 馬場口地蔵

平野郷の環濠集落には13の門がありました。それぞれ門番屋敷を置いて、街道に出入りする通行人の荷物検査などを行っていたといいます。各門には地蔵堂が置かれ、馬場口地蔵はそのうちのひとつで、馬場口門の傍らにありました。大門の木戸口は「泥堂口」とともに奈良街道の大阪、天王寺方面に接続しています。大阪方面から大念仏寺への参詣口として賑わいました。

   

B  (西)末吉家邸宅

末吉氏は初代征夷大将軍・坂上田村麻呂(758811)の次男・坂上広野(787828)の子孫です。そもそも「平野」という地名は、この坂上「広野」が訛ったものといわれています。平野を治めた七名家の筆頭で、朱印船貿易で財を成し、伏見銀座の年寄なども歴任しました。松屋町にある東横堀川に架かる末吉橋は末吉氏が架けたものと伝えられています。邸宅は築後300年を超す屋敷で、国の登録文化財に指定されています。

 

C 杭全神社

社伝によれば、貞観4(862)、坂上田村麻呂の次男・坂上広野の子で、この地に荘園を有していた坂上当道(813867)が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが神社のはじまりといいます。元亨元年(1321)には熊野三所権現を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を賜っています。第三殿は檜皮葺春日造で永正10(1513)の棟札を持っていて、大阪市内で最古の建造物とされています。環濠の遺構が社域内に残っているほか、日本で唯一の連歌所も残っています。

連歌会は明治以降に廃れていましたが、昭和62(1987)に復活され、現在では、毎月定期的に連歌会が催されています。初代の連歌所は室町時代に建てられましたが、大坂冬の陣で焼かれ、現存するのは宝永5(1708)に再建されたもので、大阪市指定文化財となっています。また毎年71213日に9台の地車(だんじり)が曳行する杭全神社の夏祭は、大阪市内で最大規模の地車祭としても知られています。

 

D 高野街道(お渡り筋)

中高野街道ともいいます。起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚とされ、久安4(1148)に仁和寺宮覚法法親王が、高野山参詣の際に通ったと考えられています。7月の杭全神社の祭礼時には、神さまが通られる道とされています。

 

E 平野映像資料館

150年前に建てられたと伝えられる染と呉服の店「まつや」内にあります。毎月第4日曜日の1317時には、まつや主人が平野の昔話を語ったり、40数年間にわたって記録した平野の風物や行事などを映像や写真で紹介してくれます。また世界で1台というめずらしい活動幻灯機もあります。

平野郷では同資料館の他にも、10箇所を超える個人の住宅や商店が協力して、「自転車屋さん博物館」や「刀の博物館」など、「平野町ぐるみ博物館」の活動が行われています。平野の歴史や魅力を広く知ってもらうとともに、地域住民がまちの魅力を再発見することを目的として活動しています。

 

F 長寶寺

大同年間(806810)に、坂上田村麻呂の娘で、桓武天皇の妃となった坂上春子(生年?〜834)が開山したといいます。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に向かう途中に当寺を仮の皇居としたこともあります。広大な寺域を誇る大伽藍でしたが、南北朝の争いや大坂夏の陣によって灰燼に帰し、現在の本堂・庫裡は天保年間(18301844)に再建されたものと伝わります。

当寺の住職は代々、坂上家の女子がつくことになっていますが、とくに慶心坊尼のエピソードが有名です。同寺収蔵の『よみがえり草紙』によれば、永享11(1439)、突然、慶心坊尼が頓死しました。慶心坊尼は恐ろしい地獄を廻り、閻魔王の前まで来ましたが、閻魔王は「このものは閻魔王の実判を持っている。だから地獄には落とせない」といって、3日後に無事に蘇生しました。これは仏道の修行を怠けると恐ろしい地獄に堕ちることを知らせるために、閻魔王が慶心坊尼を選んで、地獄を見聞させたのだといいます。

その後、嘉吉元年(1441)には読経中の慶心坊尼が青蜘蛛をつかむと青蜘蛛は舎利に変わり、また嘉吉2(1442)には慶心坊尼が逆修供養を営んでいると、ある客僧が来訪して閻魔王の木像を刻んで姿を消しましたが、じつは、その客僧は閻魔王だったといいます。摩訶不思議な物語が多数、伝わっていますが「閻魔王の実判」「青蜘蛛の舎利」「閻魔王の木像」は、現在も長寶寺にあります。

  

G サンアレイ平野本町通商店街

全長260メートルのアーケードのある商店街で、現在約50の店舗が並んでいます。商店街を進むと、明治22(1889)創業と大阪市内で最古の朝日新聞販売店である小林新聞舗があります。建物はモダンなアーチ型の窓がある大正風で、毎月第4日曜は「新聞屋さん博物館」として、明治からの新聞や号外等の資料を見ることができます。

  

H 全興寺

寺伝によれば、聖徳太子が平野の野中の地に小宇を建立、薬師如来の像を安置したことが寺の草創といいます。本堂には徳川家康の身代わりとなった首だけの地蔵尊があります。大坂夏の陣のときに真田幸村が家康が立ち寄りそうな陣地横の地蔵堂に地雷矢(爆薬)の罠を仕掛けました。家康はまんまと来たものの、厠に席を立ったときに爆発したため、家康は助かり、その代わりに地蔵尊の首だけが全興寺の境内へ飛んできたといいます。

境内には昭和20年代〜30年代に駄菓子屋さんに並んでいたおもちゃが展示されている「駄菓子やさん博物館」や、地獄の姿を垣間見る「地獄堂」、151体の石仏に囲まれ瞑想のできる「ほとけのくに」などがあります。

駄菓子やさん博物館

 

おばあちゃんの部屋???

のぞき部屋ではなかった

怖〜いぞ・・・地獄堂だぞ〜

閻魔大王だぁ〜

鬼がでた〜!

仏の国・・・だそうです

  

コースマップでは地下鉄谷町線「平野」から帰路なんだけど、JR「平野」駅から帰ります。

  

JRで「梅田」に戻りました

  

 

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:17,214歩 距離:11.1km 移動階数:10階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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