〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜 No.041 蕪村が流浪った菜の花道 〜月は東に 日は西に〜 |
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■くらさんの大阪ウォーキングも40回を超えました。 当初は「お寺と神社と橋ばかり…もうやめようかな」と思っていたのですが、健保の歩こう会?が背中を押し、ここまで続いてきました。 この企画で使っているマップは「大阪あそ歩」にある「まち歩きマップ(全150コース)」を使っていますが、コースの起点終点がバスで行かなければならないものや、コース自体に魅力を感じないもの、また似たような重複コース等々を排除していくと、残りわずかな状態になってきました。 ということで(どういうことか分からないけど)、今回は近場の「梅田・中津」を歩いてみましょう。
■江戸時代には能勢街道の要所として、数多くの旅人が行き来して、鶴乃茶屋や萩乃茶屋といった名物茶屋が並んで賑わったという茶屋町界隈。 菜の花畑が一面に広がり、それは大坂・毛馬生まれの漂泊詩人・与謝蕪村の心の故郷、原風景でもありました。大都会の梅田の中心部にありながらも、よく眺めれば、旧街道の名残がちらほら見えてくる。そんな茶屋町界隈を歩きます。 |
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@ 梅田 ■昔、このあたりは湿地帯で、明治維新以降に土地を開発するにあたり、それらを埋め立てました。 当初は「埋田」(うめた)と呼ばれていましたが、近くの大阪天満宮の梅花殿にあやかって「梅田」となったと言われています。 |
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A 北向き地蔵 |
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■明治24年(1891)、この付近の畑から自然石に刻まれたお地蔵さんが掘り出されて、信仰の対象となり、当時の地主が世話人となり、お堂を北向きに建立されたのが由来です。昭和41年(1966)からの阪急梅田駅の移設拡張工事が始まり、昭和44年(1969)には阪急三番街が誕生したために、お堂は西方へ約50メートルほど移り、現在の地に鎮座しました。 |
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B 歯神社(はじんじゃ) ■主祭神は歯神(はがみ)大神さまで、歯、全般の神さまとして信仰されています。元々はここにあった巨石を地元民がお祀りしていただけの小さい社でしたが、梅田一帯が水没するかというほどの淀川の大氾濫を、御神体の巨石が歯止めしたことから、「歯止めの神さま」として慕われ、いつの頃からか「歯痛止め」、「歯の神さま」となりました。明治になってから正式な神社にしたいという地元民の思いで、綱敷天神社の末社に加えられました。 毎年6月4日に例祭(歯ブラシ感謝祭)を行っています。 |
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C 凌雲閣跡 ■明治22年(1889)に完成した木造9階建ての娯楽施設(展望台)です。高さは130尺(39メートル)ほどで、1、2階は5角形、3階からは8角錘台の形で、その上に丸屋根がついていました。周囲には池泉が整備されて、四季おりおりの花が咲き誇り、茶店、遊戯場が設けられたといいます。今宮村(現在の浪速区・日本橋あたり)にも「眺望閣」という同じような娯楽施設があって、そちらを「ミナミの5階」、凌雲閣のことを「キタの9階」と呼んで、当時の大阪庶民に親しまれましたが、残念ながら昭和初期には撤去されてしまいました。 |
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■茶店が建ち並んでいた「茶屋町」の中心に位置する凌雲閣は、温泉あり大広間あり池にボートが浮かぶ、レジャーランドだったようです。 約39メートル、敷地面積約3940坪のバベルの塔も、今は、高さ1メートル程度の碑になっています |
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D 鶴乃茶屋跡 |
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■この付近は江戸時代後期から明治中期にかけて、大阪の一大行楽地で、鶴、萩、車という茶屋が並んで、大いに賑わっていました。人々の憩いの場所でもあり、「茶屋町」という地名は、その当時の名残です。 鶴乃茶屋は、2羽の鶴がいたことがその名の由来とされています。また鶴乃茶屋跡前の道は、能勢街道、中国街道(高麗橋から西淀川区を通過し下関へ)に当たっていて、綱敷天神社の社前付近から屈曲した道が、かつての旧街道の面影を色濃くとどめています。 |
■能勢街道 |
■こちらも能勢街道 |
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E 綱敷天神社御旅社 ■綱敷(つなしき)天神社は、御祭神は平安時代の政治家・歌人・学者の菅原道真公です。延喜元年(901)に菅原道真公が無実の罪によって、九州・大宰府へと左遷されたさいに、この地で咲いていた紅梅に目を留めて、それをよく見るために、船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円座状に敷きました。のちに天神さまとなった管公が「綱を敷いた」ことが所以で「綱敷天神社」が創建されたといいます。 |
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■綱敷天神社の本社は、約800メートル南東の大阪市北区神山町に御鎮座しています。御旅社は元々は本社の南にあり、古くは「梅塚天神」といって、菅原道真公が眺めたという紅梅がありましたが、明治初年頃に梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいという住民の土地の寄進があって、現在地に鎮座しました。臨時で設けられる普通の「御旅所」とは異なっていて、常に御祭神がご鎮座しているので「御旅社」といっています。 |
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F 与謝蕪村句碑 ■ 「 菜の花や 月は東に 日は西に」 与謝蕪村(1716〜 1784)は江戸時代中期の日本の俳人・画家で、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれました。20歳の頃に故郷の毛馬村を出て、江戸や下総、東北、丹後、讃岐など各地を旅しながら多くの俳句を詠みました。 江戸俳諧中興の祖として、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される巨匠で、また俳画の創始者でもあります。晩年は京都で暮らして、清貧の中で生涯を終え、一度も大坂・毛馬には帰りませんでした。 この句は安永3 年(1774)に作られた句です。江戸時代から明治初年の頃までは、蕪村の故郷の毛馬から天満、茶屋町にかけては、あたり一面、菜の花畑でした。 |
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G 萩之橋跡碑 ■このあたりは昔は能勢街道がありました。能勢街道は大坂と能勢地方を結ぶ街道で、能勢からは炭・薪・栗・柿・木材・銅・銀、池田からは酒・植木などが運ばれました。また大坂からは衣類・干物・魚・塩などが池田を経由して運ばれたようで、物流の街道として発達しました。 ■萩之橋は能勢街道を横切るように流れていた水路に架かっていたもので、近くに萩の名所で有名な東光院(萩の寺)があったので、それにちなんで名付けられたといいます。 |
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■萩之橋は能勢街道を横切るように流れていた水路に架かっていたもので、近くに萩の名所で有名な東光院(萩の寺)があったので、それにちなんで名付けられたといいます。 能勢街道は中津を起点として、十三、三国、庄内、服部、岡町、石橋、池田、木部、古江、多田、一の鳥居、そして尾根筋を通り妙見山へ至る。(今の国道176号線と、かなり被ってますね) 道中、服部天神宮、東光院(萩の寺)、原田神社、多田神社など、有名な寺社も多いし、中山寺や勝尾寺なども近隣にあるので、参拝路としての賑わいも見せたと言います。その起点がこの「萩之橋」ということだそうです。 |
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H 南蛮文化館 ■昭和43年(1968)5月1日に、大阪・中津にオープンしました。館長の北村芳郎氏が40歳台よりコレクションしてきた、南蛮美術中心の私立美術館です。重要文化財の南蛮屏風や、聖ペトロ画像、イエズス会紋章入り聖餅箱など、美術品や工芸品をはじめ、陶器や漆器、古文書などの品々を所有しています。 開館は5月1日〜31日、11月1日〜30日の2ケ月のみです(開館時間:午前10時〜午後4時休館日:期間中の月曜日 入館料:大人800円 大学生・高校生600円 中学生500円 ※小学生以下は無料 電話番号:06-6451-9998)。 |
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I 中津芸術文化村 ピエロハーバー ■国道176号線の高架下にあるアート情報発信基地です。文化と芸術の地域テーマパークで、音楽ライブや演劇、スタジオ、アトリエ、フリマ、カルチャー教室などを展開して、アーティストと気軽に交流できます。毎月のべ4,000人が来訪するアットホームな文化芸術スポットとして地域住民に愛されています。 |
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■2014年10月で中津高架橋の耐震補強工事に伴う立ち退きのため閉鎖。移転先は江坂…だそうです |
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■毎度おなじみの阪急中津駅です。 |
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★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:11,842歩 距離:8.4km 移動階数:9階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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