〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜 No.037 難波八十島の名残を求めて 〜その名も御幣島、神代の昔から〜 |
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■古代、天皇が即位したさい、淀川流域の島々で「八十島祭」が行われました。淀川、神崎川、旧大和川などが錯綜して、無数の島々が浮かんでいた「難波八十島」を、日本の国土である「大八洲(おおやしま)」に見立てて、その島々の神霊を天皇に遷すことで、天皇として正統な継承者となりました。神代の時代から続いていたという幻の神事「八十島祭」。その祭礼場であったと推測される御幣島界隈を巡ります。 |
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■JR東西線「御幣島」からスタートです。 |
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@ 御幣島 ■古代、淀川、旧大和川などが運んできた土砂が堆積して難波八十島が生まれました。淀川流域に佃島、出来島、姫島、歌島、柴島、中島といった島のつく地名が多いのは、その名残で御幣島も難波八十島のひとつです。 御幣島という名称の由来は、神功皇后が三韓征伐の帰途に島に上陸して住吉神を祀り、「御幣」(みてぐら。お供え物のこと)を献げたからと伝えられています。非常に古い地名で天平3年(731)の『住吉大社司解』には「御幣浜(みてはま)」という地名で登場しています。 |
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A 御幣島公園 住吉神社跡碑 ■かつて当地に住吉神社がありましたが、明治42年(1909) に加島の香具波志神社に合祀されました。ここが神功皇后が御幣(みてぐら)を献げた場所で、また「八十島祭」が行われた祭場とも伝わっています。 八十島祭とは古代の天皇の皇位継承の儀式で、淀川河口の大小多数の島々を「大八洲(おおやしま。日本の国土のこと)」に見立て、島々の神霊を天皇に遷すというものです。女官が祭使となって淀川にやってきて、天皇の御衣を納めた筥(はこ)を琴の音に合わせて海に向かって振るという儀礼を行いました。古代からの祭礼でしたが、鎌倉期に武家が勃興すると公家は貧窮し、いつしか廃れてしまいました。 |
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B 光明寺(武内宿禰の墓) ■浄土真宗西本願寺派で山号は幣帛山といいます。 武内宿禰の子孫と称する紀貞之が、本願寺蓮如に帰依して嘉吉2 年(1442)に創建したといいます。 境内奥に武内宿禰と子孫の紀定盛の墓があります。武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇に大臣として仕え、約300年以上生きたという伝説的人物です。葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏など古代豪族28氏の祖先ともいい、神功皇后に仕えて三韓征伐にも功績があったといいます。戦前は日本銀行券の肖像にもなりました。 |
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C 紀貫之歌碑 ■光明寺境内に、平安時代の歌人・紀貫之(870頃〜945)の歌碑「ふる雪に 木々の梢をながむれば しろたえなれやみてくらのしま」があります。 紀貫之は三十六歌仙のひとりで、著書『土佐日記』は日本文学史上初の仮名による散文で、後世の日記文学や随筆、女流文学の発達に多大な影響を与えました。この紀貫之も武内宿禰の子孫です。 |
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■境内を探してみたんだけど・・・ |
■ここれのことかなぁ・・・ |
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D 一休和尚碑 ■光明寺の開祖・紀貞之は一休宗純と交友関係にありました。一休宗純(1394〜1481)は室町時代の禅僧で、後小松天皇(1377〜1433)の落胤といわれています。一時は京都大徳寺の住職になりましたが、生涯のほとんどを放浪で暮らし、風狂に生きた禅僧です。西国へ旅立つさいに、よく光明寺に泊まったといいます。また一休和尚の筆になる自画賛の一軸が光明寺に残されています。 |
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■これも探したんだけど・・・ |
■ここれのことかなぁ・・・ |
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■ナニワの冷珈で有名?な「ナニワコーヒー」本社 |
■ビン入りのコーヒーです・・・ |
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E 天神社跡碑(竹島公園) ■かつて、ここに文禄3年(1594)に勧請された竹島天神社の祠がありました。延宝5年(1677)の『加島村検地帳』には「五間四方・二十五歩(坪)・天神宮地」と記載されています。文政6年(1823)に社殿修理、文政9年(1826) には石灯籠が寄進されました。しかし明治42年(1909)に香具波志神社に合祀されました。 |
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■碑も文字も大きい! |
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■排気ガスをかぶってポツリとお地蔵さんらしきものが… |
■中をのぞくと観音様でした。・・・合掌 |
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F 江崎記念館 ■「江崎グリコ」の創業者・江崎利一(1882〜1980)の記念館です。 利一は佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀県佐賀市蓮池町)に薬種業の父・清七、母・タツの長男として生まれ、家業を継ぎました。ある日、薬業新聞で「牡蠣には優れた栄養のグリコーゲンが含まれている」という記事を読み、また有明海で漁師たちが牡蠣の煮汁を捨てるのを見て「もしかして煮汁にグリコーゲンが入っているのでは?」と閃き、分析すると多量のグリコーゲンが含まれていたので、商品化に着手。キャラメルにグリコーゲンを混ぜ、さらに近くの神社でかけっこをする子供たちの姿を見て思いついた「ゴールインマーク」を商標に決め、こうして「栄養菓子グリコ」が生まれました。 大正10年(1921)にはグリコを広めるために大阪へ移転。昭和2年(1927)に「豆玩具」(グリコのおもちゃ)を創案して大ヒットし、昭和10年(1935)には戎橋に高さ33メートルのネオン塔を作って、たちまちミナミ名物となりました。記念館は江崎グリコの歴史や過去の商品パッケージ、広告キャンペーン、グリコのおもちゃなどを展示・紹介しています。 |
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G 大野川緑陰道路 ■大野川は神崎川と新淀川とを結ぶ延長約6キロメートルの川でした。舟運や灌漑用水にも利用されましたが、戦後は河川汚濁が進み、昭和47年(1972)に埋め立てられました。 八丁大橋跡から淀の水橋跡間の約3.8キロメートルを大野川緑陰道路として整備。高木約1万本、低木約12万本の100種類にも及ぶ樹木があります。 |
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■中央(自転車道)をブルーに舗装しています |
■川の中を歩いているような不思議な感覚 |
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H 歌島橋 ■何度かは車で通ったことがありましたが、まさか橋の下が自転車専用道と歩道になっていたとは知りませんでした。 |
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■JR東西線「御幣島」から帰りました。 |
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■江崎記念館が完全予約制で入れなかったのが残念でした。チャンスがあったらここだけを再訪してみようと思っています。 |
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★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:13,261歩 距離:9.5km 移動階数:15階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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