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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.036 蒲生村に残る水郷の面影を探して

〜鯰江川跡と楠根川跡と新喜多新田会所跡と〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.078

 

のどかな水郷風景が広がっていた蒲生村。水路が縦横に走り、小船で作物や肥料、人々を運んでいました。春には見渡す限り菜の花が咲き誇っていました。また、大和川の付け替えにより広大な新田も開発されました。そんな水と人々との物語を訪ねて歩きます。

  

京阪電車「京橋」からスタートです。

   

@ 京街道の碑

■文禄年間(15921596)に豊臣秀吉が淀川左岸の堤防を改修し、堤防上に街道を開いたことが京街道の始まりといわれています。当初は大坂城京橋北詰が起点でしたが、江戸時代に高麗橋東詰めに移転。参勤交代の大名や商人、旅人などで大いににぎわいました。この道標は、京街道と大和街道(古堤街道)の分岐点にあったもので、「左京みち」、「右大和ならのざき」、「右大坂」と刻まれています。

   

A 真実の口

映画「ローマの休日」で有名になった石の彫刻をモチーフに作られたものです。「ローマの下町」が新京橋商店街・京橋中央商店街のテーマで「真実の口」はそのシンボルだそうです。ローマの真実の口は「口に手を入れると、偽りの心がある者はその手首を切り落とされる、あるいは手が抜けなくなる」という伝説がありますが、京橋の「真実の口」は巨大で、とても口まで手が届きません。

   

B 蒲生墓

江戸時代、陰暦716日の宵から翌日の夜明けにかけて、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らしながら大坂三郷の周囲に作られた7つの墓地を巡って参拝する「七墓参り」という風習がありました。その大坂七墓の1つが蒲生墓です。ちなみに大坂七墓とは「千日前」「小橋」「梅田」「濱」「葭原」「蒲生」「鳶田」の7つです。

 

C 蒲生橋親柱 

鯰江川に架かっていた蒲生橋の親柱です。鯰江川は寝屋川の北側を平行して流れ、大阪市東北部の悪水を排除するための川でした。この川には鯰が多かったことから鯰江川と呼んだとされています。物資の輸送にも広く利用され、野崎参りの船も鯰江川をさかのぼって寝屋川に出たそうです。現在は埋め立てられて道路になっています。

これを探すのに一苦労しました。

 

D 古堤街道(鯰江川跡)

古堤街道は大和道、奈良道ともいわれ、大阪から奈良への幹線道路として利用されてきた街道です。京橋を起点とし、高山村(現在の生駒市)までを結んでいました。鯰江川の右岸の堤を街道として使っていました。

 

E 蒲生行者講

行者講とは奈良県吉野の大峰山で厳しい修行を行う信者の集まりです。蒲生行者講は不動明王、役行者、弘法大師を守護神とし、現在もご近所の方により手厚く祀られています。三百余年の間、蒲生村民の安全と繁栄を念じてきました。

・・・この辺なんだけどなぁ・・・

プレートを見つけたけど、これじゃないし・・・

イラストマップの付近や狭い路地を行ったり来たりしましたが発見できず…あきらめて次のポイントに向かう途中にありました。 移設されていたようです。

 

F 若宮八幡大神宮

仁徳天皇を御祭神としています。社殿が西向きに建っているので西向八幡様とも呼ばれています。大坂夏の陣では徳川方の佐竹義宣が当神社を本陣とし、豊臣方の木村長門守と戦いました。

  

G 巡航船の船着き場跡

江戸時代から明治時代にかけて寝屋川は、大阪の市街と北河内・中河内をつなぐ交通の要路であり、今福はその中継地として栄えたところです。大正3(1914)10月、天満橋、片町、鴫野橋、朝日橋、今福を結ぶ巡航船が就航し、通勤・通学の重要な交通手段となっていましたが、昭和7(1932)頃に市バスが片町から極楽橋まで乗り入れたことにより廃止されました。

新喜多大橋(しぎたおおはし)

新喜多橋(しぎたばし)

この辺りに船着き場があったようです

巡航船の船着き場跡案内板

  

H 楠根川(くすねがわ)

楠根川は、旧大和川支流の玉串川(八尾市)から分岐し、長瀬川とも合流して寝屋川へ注いでいました。昭和44(1969)の第2寝屋川開削により放出・天王田・新喜多東間が埋め立てられ、道路や公園になりました。

  

I 新喜多新田会所跡

新喜多新田を経営するための会所があったところです。もともとこのあたりは大和川が流れていたところですが、宝永元年(1704)に付け替え工事が行われ、柏原あたりからまっすぐ西へ向かい大阪湾に流れ込むようになりました。長瀬川から旧大和川下流にかけて川があった跡の低い土地約五十六町歩(168千坪)を開墾してできたのが新喜多新田です。新喜多の由来は、ここの新田開発を進めた鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛という3人の人物の名前から1字ずつをとって名付けられたとのことです。

 

極楽橋

この橋は、昔1m弱の狭い板橋で川に落ちて溺死する人が多く「地獄橋」と呼ばれていました。

明治28年に幅3.6mの橋になり、溺死する人もいなくなり、「極楽橋」と命名されたと言われているそうです。

 

J 旧野崎道の跡

野崎街道は通称「野崎の観音さん」で知られる曹洞宗福聚山慈眼寺(大東市野崎)への参詣道です。延宝(16731681)頃より明治末まで大坂の町や近郷から行楽を兼ねてお参りする人々で賑わいました。当時、大坂からは今福・徳庵を経て屋形舟で鯰江川や寝屋川をさかのぼる水路と、寝屋川の堤防上を歩く陸路がありました。舟の乗客と土手を通る人がお互いにののしり合う光景が、落語の「野崎詣」では演じられています。明治28(1895)に浪速鉄道(現・JR学研都市線)が開通してからは、次第に衰えていきました。

 

K 室戸台風遭難学童の碑(栄照寺)

昭和9(1934)921日の朝、近畿地方一帯を室戸台風が襲いました。鯰江第2小学校(現・聖賢小学校)と鯰江第3小学校(現・今福小学校)では倒れた校舎の下敷きになり、多くの児童が犠牲となりました。子供の犠牲が大きかったのは木造校舎が多かったためで、大阪市はこれを機に校舎の鉄筋化を進めました。

 

L 皇大神宮、小女郎稲荷、今福の道標

皇大神宮は天照皇大神をご祭神とし、平安末期頃に創建されました。現在は住宅地に囲まれていますが、昔は小高い丘に鎮座し、榎並荘一帯の氏神として祀られ、伊勢神宮の神税を納める斎蔵が境内にありました。現在の社殿は昭和7(1932)に改築されたものです。小女郎稲荷はもともと旧大和川堤の狐山にあった社で、大和郡山の源九郎稲荷、泉州信太の葛葉稲荷と並び近畿三稲荷大明神のひとつです。

皇大神宮

小女郎稲荷

今福の道標は、天保3(1832)3月に6名の世話方により建立されました。もとは古堤街道(野崎街道)の「四辻」(今福南1丁目付近)と呼ばれた交差点の東南角に建っていました。安政6(1859)3月には、今福村の大峯山登山講の世話人によって上部に常夜灯が加えられました。

 

M 三郷橋の丸木舟と祠

大正6(1917)5月、今福村の鯰江川三郷閘門樋工事のとき、川底から楠の大木を半分に割ってくり抜いた大きな丸木舟が掘り出されました。古墳時代から奈良時代のものと推定され、大きさは、長さ13.5メートル、幅1.9メートル、深さ0.8メートルもありました。発掘された当初、舟は三郷橋近くに置かれ見物に来る人もたくさんいたそうです。昭和になり大阪城内で展示されていましたが、昭和20(1945)の空襲で焼けてしまいました。

プレートには・・・

大正六年(1917)57日今福村(現在の今福西1丁目)「鯰江川」(現在は埋め立てられて道路)の三郷閘門(さんごうこうもん)の樋工事(ひこうじ)のとき、当地の川底から、楠木の大木を半分に割ってくり抜いた大きな丸木舟(くり舟)が掘り出されました。 

この丸木舟は 複材式の構造で大きさは長さ13.46メートル、幅1.89メートル、深さ0.818メートルと大型なものであり、古墳時代から奈良時代のものと推定されます。

この出土した丸木舟は 昔このあたりが大阪湾の海水が流入する海(河内湾)から淀川・大和川の沖積作用により 次第に湖沼(こしょう)(河内湖)へと変わり池や沼が点在していた頃、古代人が水上交通に用いていたものと思われます。

発掘された当初、舟は三郷橋(さんごうばし)(この地から南東約30メートルの地点にあったと思われる)の近くに置かれ、各地から弁当持参で 見物に来る人もあったそうです。 

その後昭和になって大阪城内に展示されましたが昭和20(1945)の空襲で残念ながら焼失しました。

城東商店街

 

 

大阪市営地下鉄鶴見緑地線「蒲生四丁目」から帰りました。

今回のマップはイマイチ!でした。

道路が部分的に割愛されていて場所の特定が困難だったり、距離感がちょっと違ったりで、ウォーキングというよりポイントラリーのようでした。

iPhoneのグーグルマップのおかげで迷子にならずに帰って来れました。 便利な世の中になったもんだね。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:13,034歩 距離:9.2km 移動階数:14階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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