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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.034 船場のメインストリートは堺筋だった!

〜秀吉の都市計画と砂糖商人のまち〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.123

 

江戸時代には紀州藩の参勤交代や、朝鮮通信使の行路としても利用された堺筋。

砂糖商人が集まって俵物会所が置かれ、近代に入ると三越、白木屋、高島屋、松坂屋が立ち並ぶ百貨店のまちとなり、御堂筋が完成するまで大阪のメインストリートとして殷賑を極めました。その堺筋を逍遙しながら堺筋400年の歴史を振り返ります。

  

豊臣秀吉の船場開発

天正11(1583)、豊臣秀吉は大坂城と城下町建設に取り組み、大坂城から南の四天王寺、さらには当時日本最大の貿易港だった堺に至る都市計画を持っていたとされます。しかし慶長元年(1596)の大地震で堺港が壊滅状態となったため、大坂城から南ではなく、西(船場)への都市開発へと方向転換しました。

 

砂糖と堺筋

秀吉は加賀の斉藤九郎右衛門なる人物を伏見町に住まわせて唐物(舶来物)を取り扱わせ、これがきっかけで伏見町に唐物問屋が集住しました。江戸時代に入ると、オランダ貿易や清貿易は長崎を拠点に行われましたが、主要輸入品の生糸や薬種、砂糖の国内での卸売販売は、大坂の唐物問屋たちが独占的に扱いました。

その後、天明元年(1781)に砂糖を扱う株仲間「唐紅毛砂糖荒物仲買」が定められ、彼らは堺筋に店を構えたので、別名「堺筋仲間」とも呼ばれました。江戸末期には200戸余りの店舗があったそうで、出島砂糖(輸入砂糖のこと)、和砂糖、黒砂糖、白砂糖などを商い、「堂島」が米を指したように、「堺筋」が砂糖の隠語として通用しました。

 

大阪市営地下鉄御堂筋線「淀屋橋」から連絡通路を通って「北浜」からスタートです。

難波橋・・・ここに来るのは何回目だろう

大阪市中央公会堂が見えます

五代さんの大阪証券取引所

五代さんはいつ見てもお若いです

   

@ 大坂俵物会所跡

江戸幕府はオランダや清との貿易決済に銀や銅を用いました。しかし銀や銅の国内産出量が低下すると、それだけでは賄えなくなり、清貿易には煎海鼠や干しアワビ、フカヒレなどを俵詰めにした「俵物」が決済手段として用いられるようになりました。

俵物会所が長崎、下関に設置され、大坂では当地に置かれました。長崎の俵物役所が主要で、大坂俵物会所はそれほど機能しなかったようですが、幕末まで存在しました。

   

A 三井呉服店

延宝元年(1673)、三井高利が江戸・本町に呉服店・越後屋を開店。三井家は代々、三井越後守を名乗る武家で、高利の父・高俊から商人に転向していました。元禄4(1691)に大坂に進出して、高麗橋1丁目に両替店と呉服店を開設しました。

三井呉服店跡っていわれても、何の痕跡もないし・・・

呉服店近くには鼈甲店、紅白粉店、鏡店などがあり、船場の娘さんたちは、ここで嫁入り道具を揃えたといいます。天保8(1837)、大塩平八郎の乱で大坂店は全焼しましたが、3年後には再興しています。

 

明治に入ると高麗橋3丁目、さらに高麗橋2丁目(堺筋角)に移転し、三越百貨店として平成1 7(2005)まで当地で営業を続けました。明治44(1911)には飾り窓付き2階建て洋風の新館(木造30メートル)が完成し、大正6(1917)には当時大阪最大のルネッサンス式建物(地下1階、地上7階建て鉄筋コンクリート造り)の新館が開業し、堺筋の顔となりました。

小西家住宅

コニシ株式会社(接着剤・ボンド の会社)のお家です

 

   

B くすりの道修町資料館

寛永12(1635)、堺商人・小西吉右衛門が道修町1丁目に薬種屋を開いてから、多くの薬種商が集まったとされます。徳川吉宗の時代、享保7(1722)に「道修町薬種屋仲間」が幕府公認を受け、享保20(1735)には「道修町薬種中買仲間」の名称を取得しました。オランダや清から運ばれる唐薬種の真偽を見分け、計量し、価格を定め、唐薬問屋から買い出し依頼を受けた商品を一手に買い付けて日本国内に売り捌きました。当資料館で道修町について詳しく知ることができます。

 

C イトーキ史料館

伊藤喜商店は明治23(1890)に高麗橋で創業。自動紙綴器・ホチキスやゼムクリップの輸入販売に始まり、明治41(1908)に開設された伊藤喜商店工作部では、手提げ金庫や事務機器の生産、ゼニアイキ(金銭記録出納機)やベント式金庫などのヒット商品を世に送り出しました。珍しいものや新奇なものを扱い、「大阪のハイカラ屋」と称されたといいます。当史料館でイトーキについて詳しく知ることができます。

探しまわったが、資料館が見つからない!

イトーキの社員さんに訊いてみました。

2012824日をもって閉館してるってさ

 

D 米喜

平野橋東詰にあった米平(米屋平右衛門)は、大名蔵屋敷に出入りして藩米を取り扱い、また両替も営みました。その米平の別家である米喜(米屋喜兵衛)が米屋の副業で酒を造り始めたのが享保2(1717)のことで、これが酒造メーカー・沢の鶴の始まりです。米喜の屋根にはマークの入った城櫓があり、店舗からはマーク入りの菰樽が数多く運び出されました。現在は沢の鶴ビルとなっています。

現在は沢の鶴ビルとなっています・・・って

だから?どうだってんだ!

 

E 泊園(はくえん)書院

寛政6(1794)、讃岐に生まれた藤沢東畡(とうがい17941864)は、享和2(1802)に荻生徂徠の系譜を引く中山城山に入門して儒学を学びました。長崎遊学後、高松で開塾しましたが、大坂に出て文政8(1825)に泊園書院を開院。これは大塩平八郎が私塾・洗心洞を開いた時期とほぼ同じ頃です。

東畡の没後、明治6(1873)に息子・南岳(なんがく18421920)が泊園書院を再興し、明治9(1876)に当地に移転。多くの門人を擁した南岳は通天閣の命名者としても有名です。また南岳の子には衆議院議員となった黄鵠(こうこく18741924)、関西大学初代名誉教授となった黄坡(こうは18761948)がいます。

泊園書院は昭和24(1949)に閉院しましたが、黄坡没後に約2万冊の漢籍が黄坡の義弟・石浜純太郎によって関西大学に寄贈されました。また黄坡には大阪作品を数多く残した小説家・藤沢桓夫( たけお19041989)が生まれています。

跡碑を探したが発見できず。 帰って調べると・・・

「ビル工事で解体の際に落下物の直撃を受けて、泊園書院跡碑は根元からボッキリと折れてしまったそうです。市の財政難によるものか、碑が再建される気配はなく、泊園書院跡はコインパーキングとして整備された。」

  ・・・って、何なんだよ!!

 

F 鳥屋町

八百屋町筋(堺筋の一本東の筋)の備後町から安土町にかけて鳥屋が集まっていたので、俗に鳥屋町と称されました。鳥の種類は文鳥や鶏、鳩だけでなく、七面鳥や孔雀に至るまで、さながら動物園のようであり、毎日、鳥の市が開かれていました。

・・・ここで鳥の市が開かれていたと言われても・・・

何の痕跡もないし・・・

  

G 白木屋呉服店

現在の東急百貨店につながる白木屋呉服店は寛文2(1662)に江戸に出店しましたが、大阪に進出したのは大正9(1920)のことです。阪急・梅田駅にテナントとして入店し、翌年に堺筋に地上9階建ての大阪店を開店しました。大阪店は日本で初めてネオンサインを点灯したそうです。

阪急との契約が満了したことで梅田から撤退、昭和7(1932)には大阪店も閉鎖しました。堺筋には三越、白木屋だけでなく、南に行けば高島屋や松坂屋が立ち並び、まさに「百貨店通り」の時代がありました。

うーん・・・ここにあったと言われても・・・

何だよ ねぇ〜

  

H りそな銀行

明治5(1872)野村徳七(初代)が、両替商・野村商店を設立。2代目・野村徳七は世界一周旅行に出かけ、欧米の金融事情を目の当たりにして経営に生かしたといいます。その後、大正6(1917)に株式会社化、大正7(1918)には株式会社大阪野村銀行を設立しました。大正9(1920)には証券部を置き、これが大正14(1925)に独立して野村證券株式会社となりました。野村銀行は昭和23(1948)に大和銀行と改め、平成15(2003)から、りそな銀行と改称しています。

 

大阪市営地下鉄中央線「堺筋本町」から ふてくされて 帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:9,886歩 距離:7.4km 移動階数:6階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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