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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.033 岸の辺の道・安立(あんりゅう)を越えて

〜いにしえの港・すみのえの津から大和川まで〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.040

 

古代、『万葉集』では「白砂青松の名勝地」と詠われ、室町時代には「岸の辺の道」ともいわれ、江戸時代は「紀州街道」と呼ばれた、歴史を偲ばせる町「あんりゅう」。住吉公園から、一寸法師ゆかりの地・安立商店街、世界の音楽奏者に愛されている木製リコーダーのメーカー「竹山木管楽器製作所」などを経て、大和川まで巡ります。

 

 

南海本線「住吉大社駅」からスタートです。

   

@ 住吉公園駅舎

チンチン電車の愛称でも知られる、阪堺電気軌道上町線 (天王寺駅前駅〜住吉公園駅) の駅舎です。昭和55(1980)、南海電気鉄道より分離、独立しました。ホームには金魚の泳ぐ水槽がありますが、この水槽は戦時中に防火水槽として造られたものです。レトロ感あふれる駅舎も人気で、「近畿の駅百選」にも選ばれています。

 

・・・ということですが、今は廃駅となっていました。

   

せっかく来たので、コースマップから外れて「住吉公園」へ

明治6年に開設された大阪でもっとも古い公園です

潮掛道(住吉大社旧表参道)

花壇の中に人が入っていました

立ち入り禁止なのに・・・中国語の人たちでした

   

A 住友灯籠

江戸時代から昭和初期にかけて、住友家の歴代当主によって奉献された灯籠です。この灯籠は海辺に続く道「汐掛の道」に建てられて、海上安全と家業の繁栄を願って寄進されたといわれています。

   

B 住吉万葉歌碑

一般応募者や万葉愛好家および「難波万葉と古代を歩く会」会員などによって建立されたものです。古代、海辺の美しい景観と活況を誇った住吉界隈には、万葉詩人たちが訪れて、数多くの万葉歌を遺しました。その中から17首を採録し、併せて万葉時代を推定する住吉地形図を刻したもので、古代船を模した歌碑となっています。

清江娘子の「草枕 旅行く君と 知らませば 岸の黄土に にほはさましを」と、多治比真人土作「住吉に 斎く祝が 神言と 行くとも来とも船は早けむ」の2首が特記されています。また台下には<30世紀へのメッセージ>が埋蔵されています。

住吉大社を出て南方向に歩きます

灯篭群がみごとです

 

C 紀州街道

江戸時代、大坂と和歌山への大動脈路でした。高麗橋から堺筋を南に下り、天下茶屋・住吉大社、堺を経るという、海辺に沿った和歌山への経路で、街道は大名や商人たちの往来で賑わいました。昔は住之江あたりは、すぐそばまで海岸線が広がり、白砂青松の景勝地で有名でした。

 

D 御祓橋(細江川)

昔、この橋において、住吉大社の夏祭りに「かがり火」を焚いて神輿の奉送迎をした事から名づけられた橋名です。この橋の際には、「小町茶屋」といった茶屋がありました。「茶の銭に九十九文出しても手も握らさぬ柄の長き杓」斑竹。

 

E 難波屋の笠松跡

江戸時代には難波屋という茶屋があって、その庭には枝ぶりがすばらしい松があって、紀州街道の名物として有名でした。見物料の代わりに団子を売っていて「笠松は低いが団子は高い」という風刺なども残っています。

昭和初期までは団子を売っていましたが、残念なことに、戦後の食糧難で土地を開墾して芋などを植えたことから土に栄養がなくなり、笠松は枯れてしまいました。今はその名残を惜しんで街灯りで笠松の姿を照らしています。また安立小学校にて安立笠松会が松を植樹し、大きく育てて笠松の復活、伝承を試みています。

マップではこの辺りなんだけどなぁ…

裏に廻ってみましたが、分からなかった。

 

F 威徳山寶林寺

浄土真宗本願寺派のお寺で、ご本尊は阿弥陀如来です。天正8(1580) に、江州多賀の武士・南部治佐衛門尉清宗(宗覚)によって開基されました。境内のソテツは見事で、そのそばには短歌を刻んだ五面の歌碑があります。「すみのえのちかひかはらぬ 海なればひく志ほみづの ほどのとほさよ」蓮如上人。

  

G 實教山 長法寺(安立・妙見宮)

日蓮宗身延山派の寺院で、約350年前に建立されました。境内に妙見宮があって、能勢妙見宮の出開帳寺院で、地元民からは「安立の妙見さん」と親しまれています。妙見さんの鳥居の石柱には、天保11(1840)奉納「施主 堺 茶屋七兵衛 執次 大和橋大嘉 発起 神南邊」と刻まれていて、境内にはクスノキの大樹などもあります。

  

H 霰松原公園

かつて、この地は海に沿った白砂青松の地で、白い砂と松の緑は四季を通じて、すばらしい景観をみせ、いつしか「霰松原」と呼ばれました。天武天皇の第4皇子・長皇子も慶雲3(706)の文武天皇の難波行幸のさいに当地を訪れ、「霰打つあられ松原すみのえの弟日娘と見れど飽かぬかも」の歌を詠んで、その歌碑が建てられています。また公園内には、霰松原荒神・金高大明神(オタヌキさん)・瀧川稲荷大明神なども祀られています。

 

I ジョイフル安立(安立商店街)

「安立」という地名は元和年間(16151624)に、名医として名をはせた典薬頭・半井安立(なからいあんりゅう)が当地に居を構えて、その治療を求めて人々が集まって、いつしか町を形成したことが由来です。

ジョイフル安立は安立中央、本通り、東通り、銀座通りの4つの商店街で構成されていますが、いにしえには「岸の辺の道」と呼ばれ、江戸時代には参勤交代路として賑わいを見せた紀州街道沿いの商店街なので、100年以上続くような老舗も数多く残っています。また江戸時代には、住吉大社の一寸法師伝説にあやかって針商人が「みすやの針」を売って儲けたといいます。

商店街には似合わないような

古い建物も並んでいます

一寸法師なのだ

肉やさんの揚げたてコロッケ 旨かった!

 

J 竹山木管楽器製作所(アンリュウリコーダーギャラリー)

日本で唯一の木製リコーダーの専門店です。その素晴らしい音色は、世界の超一流の音楽奏者たちが絶賛して、買い付けに訪れるほどです。ソプラニーノ・ソプラノ・アルト・テナー・バスなど、さまざまな音域のリコーダーを展示・販売しているほか、タケヤマホールでは毎月演奏会がおこなわれ、リコーダーの教室だけでなく声楽の教室も併設しています。

シャッターが降りていました

2階もショーウィンドウ?

右の「紀州街道」の道標写真を撮るのに、

 コロッケを咥えて、しゃがんでカメラを構えていると、

 パトカーが停止。

「不審者」の疑いで見られていたんだろうなぁ…

 

K 正音山 阿弥陀寺

浄土宗知恩院派の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。四隅には四天王が守っています。文禄2(1593) に、旭蓮社幡譽空智大和尚によって中興されました。豊臣秀吉の五奉行・浅野長政公ゆかりの寺としても知られていて、浅野家の家紋「丸に鷹の羽」を寺紋として許されています。

藤原敏行の「住の江の 岸による浪 よるさへや 夢のかよひぢ 人目よくらむ」の歌碑があって、揮毫は直木賞作家・寺内大吉で、歌碑にはハマグリをあしらい、いにしえの美しい浜をしのんでいます。

 

L 手洗橋

かつては橋の下には手水川が流れていて、大和川の付け替え時にも、この手水川は残されました。近くには住吉大社のお旅所があって、また紀州徳川候の本陣などもありました。現在は川は埋め立てられています。

 

M 大和川(新大和川)

奈良県桜井市の北東部(国道25号線・福住町南)近郊が源流です。かつては生駒山系と葛城山系の間を抜けて北流して河内方面へ流れていましたが、何度も洪水を引き起こしたため、今米村(現・東大阪市)の庄屋・中甚兵衛らが幕府に請願して、宝永元年(1704)8ヶ月にわたる付け替え工事の結果、現在のように堺に向け西流するようになりました。

住吉大社の夏祭り「川渡御」には神輿をかついで大和川を渡り、堺側のかつぎ手に引き渡します。大和川にかかる大和橋(江戸時代には公儀橋でした)から東方を望むと二上山が見え、そこを越えると飛鳥の地にたどり着きますが、この山並みの光景は古代から変わりません。かつて「岸の辺の道」を歩いた万葉歌人たちも仰ぎ見たはずで、そう考えると、感慨深いものがあります。

 

大和川南岸にある、阪堺電軌阪堺線「大和川」駅からチンチン電車に乗って帰りました。

 

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:12,099歩 距離:8.3km 移動階数:6階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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