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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.032 祈りのまち・住吉を歩く

1800年の歴史を刻む住吉津のものがたり〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.041

 

遣隋使、遣唐使が出立の際に必ず立ち寄った古代難波津の守護神・住吉大社。

1800年もの歴史を有して、いまも民衆の祈りが色濃く残る住吉大社とその周辺を巡ります。めずらしや、六道の辻「閻魔地蔵」は必体験!

 

 

スタート地点は「神ノ木」…ウォーキングマップでは南海本線「住吉大社」で乗換。

「阪堺電軌 住吉公園」から2つ目の駅・・・だったのに・・・

「住吉大社駅」で降りました。

阪堺電軌「住吉公園駅」は閉鎖されていました。

仕方がないので、スタート地点まで歩きました。

桜が満開でした。

レトロなポンプもありました。

遮断機のない踏切です。

 

 

神ノ木駅に着きました。

ちんちん電車なのでホームへは出入り自由です。

   

@ 神ノ木駅

かつて住吉の地が海岸地帯であったころに大きな古松があり「神の木」(現在は消失)として崇められていたことから駅名になりました。駅近くには神ノ木地蔵さんがいます。ここから「大阪あそ歩」がスタート!

   

A 六道の辻 閻魔地蔵

道が1本増えて「七道の辻()」になっていますが、昔は6本道だったので、今でも「六道の辻」と呼ばれています。仏教の輪廻転生の教えでは、人が死ぬと生前の行いを閻魔王に審査されて、六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・仏界)に生まれ変わります。地獄に落ちたさいに唯一、救済してくれるのが地蔵菩薩ですが、地蔵菩薩は閻魔王の化身という説もあって、閻魔地蔵は、そうした考え方が反映された珍しいお地蔵さんです。

その昔、難波の浜辺から運ばれて、六道の辻に来たさいに、急に重くなって一歩も進めなくなったので当地に安置されました。戦国時代の天文7(1538)の銘が刻まれて、恐ろしい閻魔大王の姿をしていますが、心は優しい地蔵菩薩として地元住民に崇められています。とくに本堂の後ろに回って壁を撫でながらお願いごとをすると霊験あらたかとか。

道が1本増えて「七道の辻()」になっていますが、昔は6本道だったので、今でも「六道の辻」と呼ばれています。仏教の輪廻転生の教えでは、人が死ぬと生前の行いを閻魔王に審査されて、六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・仏界)に生まれ変わります。地獄に落ちたさいに唯一、救済してくれるのが地蔵菩薩ですが、地蔵菩薩は閻魔王の化身という説もあって、閻魔地蔵は、そうした考え方が反映された珍しいお地蔵さんです。

その昔、難波の浜辺から運ばれて、六道の辻に来たさいに、急に重くなって一歩も進めなくなったので当地に安置されました。戦国時代の天文7(1538)の銘が刻まれて、恐ろしい閻魔大王の姿をしていますが、心は優しい地蔵菩薩として地元住民に崇められています。とくに本堂の後ろに回って壁を撫でながらお願いごとをすると霊験あらたかとか。

   

B 生根(いくね)神社

住吉大社より古くから当地に鎮座していたという伝承があります。ご祭神は少彦名命で、現在の本殿(大阪府指定重要文化財)は淀殿の寄進で造営されました。境内社の天満宮の菅公木製御神像は、文明14(1482)、天台法主・融円律師作で国宝級の価値を有しています。

菅公像は時代を経るにつれて怒顔から笑顔に変わる傾向がありますが、木製御神像は無表情で過渡期にあることがわかります。また本殿東側にある神明穴立石は少彦名命ゆかりの海浜の石を運んで「何首鳥」(漢方薬、強精剤の名前)と刻んで崇めたもので、和歌浦より一夜で住吉浜までやってきたという伝説もあります。穴の位置は東西を向いて伊勢神宮を遥拝するように立てられています。

 

C 一運寺

推古21(613)に聖徳太子が建立して最澄、空海、法然などもご説法なさったという住吉きっての名刹です。境内には赤穂浪士の大石良雄・主税親子と寺坂吉右衛門のお墓があって、これは赤穂浪士を資金面で援助した大坂商人・天野屋利兵衛の子孫が建てたものです。

利兵衛は討入り用の槍を堺の職人に製作依頼しましたが、職人たちは突然の臨時収入に喜んで住吉の料亭・三文字屋で豪遊しました。このとき隣座敷に町奉行がいて「なぜ槍などを作るのか?」と怪しまれ、利兵衛は捕縛、拷問されます。しかし義理堅い利兵衛は「天野屋利兵衛は男でござる!」と啖呵を斬って吉良邸討ち入りが終わるまで決して口を割りませんでした。ちなみに捕物劇の舞台となった三文字屋は、現在では奇しくも住吉警察署となっています。

 

D 宝泉寺 十三仏

天元5(982)に『往生要集』で有名な源信上人が開基した融通念仏宗の寺院です。十三仏は元亀年間(157073)に、旧住吉村字石本(神ノ木駅付近)にあった巨石を刻んだもので、釈迦如来以外の十二仏は「干支の守り本尊」として信仰されています。薬師如来、弥勒菩薩、地蔵菩薩3体は他に比べて小さく「石工の計算違い?」という説もあって親しみがわきます。

また「幽霊の片袖」の発祥地で、元和3(1617)に箱根山の行者の前に女性の幽霊が現れて「私は住吉大社禰宜・山上松太夫の妻ですが旅先で倒れてしまいました。宝泉寺の道和上人に回向をお願いします」と片袖を手渡しました。実際に行者が住吉を訪ねると山上松太夫は宝泉寺の檀家で、道和上人は融通念仏宗総本山・大念仏寺法主となっていたので、現在は大念仏寺宝物殿に幽霊の片袖と香合が残っています。正式に鑑定したところ、間違いなく江戸時代初期の片袖という結果も出ています。

 

E 熊野街道石碑

京都から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)までの約300キロに及ぶ参詣道で、その一部はユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されています。

平安時代中期から熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集め、延喜7(907)に宇多上皇が参詣すると皇族、女院の参詣(熊野御幸)や貴族の参詣が相次ぎ、とくに鳥羽上皇21回、後鳥羽上皇28回、後白河上皇に至っては32回も熊野参詣しています。室町以降は武士や庶民の参詣が盛んになり「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいとなりました。

熊野街道

住吉街道

 

F 池田屋本舗

元禄年間(16881704)に酒造業として創業しましたが、明治初期に味噌作りを始めました。明治、大正、昭和天皇にも献上された「住之江味噌」は住吉名物として有名です。

熊野街道と住吉街道の四つ角にあって、表の屋根には住吉大社の高灯籠が置かれています。明治25(1892)の建築ですが、白壁の虫篭窓など昔ながらの風情を伝える商家で、国指定登録有形文化財になっています。

  

G 住吉大社

神功皇后11(211)創建。日本全国にある住吉神社の総本社で、住吉三神と神功皇后を祀っています。本殿は国宝で、遣隋使や遣唐使は航海のさいは、必ず住吉大社に参詣しました。

住吉津は日本最古の国際港で、シルクロードの玄関口でした。おとぎ話「一寸法師」は、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参って子供を出産し、その子供が住吉津から大阪湾、淀川、京にのぼって鬼退治をするという話です。また有名な反橋(太鼓橋)は、慶長年間に淀殿が寄進した、長さ約20m、幅約5.8mの木造桁橋です。朱色の優美なシルエットが美しく、大阪出身のノーベル文学賞作家・川端康成の自伝的小説『反橋』(1948年発表)では、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました」という名文句によって回顧されています。

裏口?から入ります

楠珺社(なんくんしゃ) お稲荷さんです

御本殿(第一本宮) 全4棟の御本殿があります。 全て「住吉造」と称し、いずれも国宝建造物です。

第三・第四本宮

桜がきれいでした

時計塔

灯篭群

 

住吉大社の裏口から入って、正面から出ます

道路を渡ると、南海「住吉大社駅」です

  

H 粉浜商店街

大正8(1919)に粉浜の米屋さん7名が店舗を構えたことが粉浜商店街のはじまりです。住吉大社の門前市として発達して、現在では350メートルの商店街に120店舗もの店が並んでいます。34代続く老舗も多く、豆腐やこんにゃく、うどん、おかきなどの専門店などは住吉名物として参詣客から親しまれています。月初めには商売繁盛、家内安全を願うイベント「はったつ市」を主催。住吉大社参詣のおみやげ処としてオススメです。

 

ゴール! 南海線「住吉大社駅」です。

 帰ろうかと思いましたが・・・

  せっかく住吉まできたので、次のコース(No.033)

歩きます。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:12,099歩 距離:8.3km 移動階数:6階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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