〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜 No.030 夕陽燦燦(さんさん)の坂のまちを歩く 〜西方浄土の聖地・夕陽丘へ〜 |
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■武士の世を儚んで隠遁した歌人・藤原家隆の塚、大坂夏の陣で獅子奮迅の活躍をするも志半ばで討たれた真田幸村の戦没地、旅に病んで倒れた俳聖・松尾芭蕉の絶唱地・浮瀬(うかむせ)など、数々のドラマを生んだ西方浄土の聖地・夕陽丘を歩きます。燦燦と輝く、真っ赤な夕陽に照らされながら。 |
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@ 天王寺駅 ■JR西日本、大阪市営地下鉄の駅で、駅名の由来は四天王寺の略称から来ています。JR天王寺駅は「近畿の駅百選」に選ばれていて、1日の平均乗車人員は約14万人(2008年度調査)で、これはJR西日本の駅では第3位です。 |
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A 天王寺公園 ■明治36年(1903)に天王寺界隈で第5回内国勧業博覧会が開催されて、5ヶ月の期間中に約540万人以上の観光客が集まりました。その後、1909年に会場跡地西側を「新世界」に、東側を「天王寺公園」として整備しました。1915年には上野(東京)、岡崎(京都)に次いで国内3番目の天王寺動物園が開園。現在でも大阪を代表する都市公園です。園内には、池上四郎第6代大阪市長の銅像が建っています。 |
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B 大阪市立美術館・慶沢園 ■元・住友家本邸で、1936年に美術館建設を目的に大阪市に寄贈されました。国宝5件・重要文化財111件を含む、約8000点以上もの美術品を収蔵しています。慶沢園(けいたくえん)は、明治41年(1908)に小川治兵衛により作庭された日本庭園で、大阪市指定文化財です。 |
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■大阪市立美術館 |
■通天閣も見えます |
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C 茶臼山・河底池 ■茶臼山古墳といわれますが、発掘調査では埴輪や葺石が確認されていません。延暦7年(788)に和気清麻呂が河内湖の治水で上町台地の開削に失敗しましたが、茶臼山と河底池はその跡地という説もあります。 大坂の陣では徳川家康の本陣が置かれて、豊臣方の勇将・真田幸村との激戦地となりました。本陣跡の遺構はよく残っていて、家康本陣の台所の一部なども発見されています。 |
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D 一心寺 ■文治元年(1185)に法然上人が草庵を開いたのが一心寺の起こりです。後白河法皇も訪れて、法然上人とともに、夕陽を拝む「日想観」を修せられたと伝えられています。お骨仏が有名ですが、建築家でもある現住職・高口恭行氏の設計による鉄とコンクリートの斬新な山門や仁王像、一心寺シアター倶楽といった活動でも知られています。 |
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■お骨仏って何? 骨仏師といわれる専門家が遺骨を砕き、粉末状にしてコンクリートやセラミックスなどに混ぜて、造り上げられます。 遺骨で仏像が作られることによって、まさしく遺族は「仏様になる」「成仏する」という気持ちになるのだと思います。 数多くの地元の人々が訪れる理由がよく分かりました。
戦前に作られた6体は戦災で消失したため、現在一心寺には7体が奉られています。最も新しい第13期骨仏は、平成9年〜18年の納骨163,254体により平成19年に作られました。 第14期は、平成19年から28年までの納骨で今年(平成29年)造立予定だそうです。
また最近は、お墓を建てるよりも、海などへの散骨を望む人が多くなっているそうです。一心寺に納骨を望む人が現在もたくさんいるのは、そういう新しい形の埋葬を望む人や、高価なお墓の購入に躊躇する人が増えているという事情もあるのでしょう。 |
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■山門の仁王像です(美術館みたいな現代建築だ) |
■仁王像も一見、仏像には見えません・・・アートです |
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E 合邦辻閻魔堂(かっぽうがつじえんまどう) ■東成と西成の境で、安穏祈願のお堂です。「合法辻」とも言われて聖徳太子と物部守屋が争論したという伝承もあります。俊徳丸の難病が治る、名作浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台で、病気平癒を祈願する人々がよく訪れています。 |
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■逢坂 |
■松屋町筋終点から四天王寺西門に至る坂です |
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F 安居神社 ■大坂夏の陣で大坂城を守ろうと壮絶に戦って討ち死にした真田幸村の戦没地。毎年、命日の5月7日付近の休日には慰霊のための「幸村まつり」が行われて、幸村の故郷の長野県上田市の関係者や、日本全国から幸村ファンが訪れます。 |
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■細い路地(参道)を進んで |
■階段を登ると本殿と真田幸村公の像があります |
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G 清水寺 ■寛永17年(1640)に、京都東山の清水寺を勧請して建てられました。大阪市内で唯一の滝「玉出の滝」や「清水の舞台」もちゃんとあります。インフルエンザ、風邪除けの仏さま「風天さん」は篤く信仰を集めています。また清水寺付近は伶人町といって、天王寺舞楽を演じる楽人(伶人)が住んでいた土地で、国歌「君が代」の作曲者・林廣守の出身地でもあります。 |
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H 浮瀬跡(星光学院内) ■『摂津名所図会』にも描かれた浪華一の料亭「浮瀬」跡で、与謝蕪村、十返舎一九、シーボルトなどが訪れています。元禄7年(1694)9月26日には俳聖・松尾芭蕉が訪れて「此路を行人なしに秋の暮れ」「此秋は何で年よる雲に鳥」と詠んでいます。浮瀬の句会の半月後に芭蕉は南御堂で急死したので、ここが芭蕉絶唱の地となります。※見学するさいは大阪星光学院に電話予約が必要です。(TEL06-6771-0737) |
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■愛染坂 |
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I 円成院(遊行寺) ■芭蕉の供養墓があります。芭蕉の弟子「蕉門十哲」の志太野坡が享保19年(1734)に建立したものを、天明3年(1783)に不二庵二柳が再建しました。ほかにも文楽中興の祖・植村文楽軒や江戸時代の芸能人、文人の墓が多数あります。全部知っていたら、あなたは間違いなく文学博士!? |
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J 大江神社(タイガース神社) ■太古の昔は、この辺りまで大阪湾が迫っていて、「大江」という地名はその名残です。「狛虎」の神社として有名でタイガースファンが優勝祈願でよく訪れます。昔は夕陽が見事な景勝地で、芭蕉が北陸で詠んだ「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑や、昇り切ると長寿になれる「百段の階段」があります。実際は何段あるのか? 数えながら昇ってみましょう! |
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■長い階段です |
■数えました。101段でした ・・・ !? |
■「こまイヌ」じゃなくて「こまトラ」らしい |
■タイガースの優勝祈願ねぇ・・・ふーん・・・ |
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K 愛染堂(勝鬘院) ■創建・推古元年(593)。聖徳太子が開いた四天王寺施薬院が発祥です。愛染明王は恋愛、縁結び、家庭円満を司って、文字通り、男女の仲を愛に染めてくれます。毎年6月晦日に行われる「愛染まつり」は大阪の夏祭りのはじめで、愛染娘の宝恵駕籠行列は一見の価値があります。また多宝塔(1597年に豊臣秀吉が再建)は大阪市内最古の木造建築物で国指定重要文化財です。 |
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■たまたま御本尊の御開帳でした |
■国指定重要文化財の多宝塔(1597年建立) |
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L 藤原家隆塚 ■藤原家隆は鎌倉時代初期の歌人で、藤原定家らとともに『新古今和歌集』の撰者の1人です。平家、源氏の武士の台頭に世を儚み、出家して、日想観を体得すべく、この地に夕陽庵を結びました。「契りあれば 難波の里に 宿り来て 波の入り日を 拝みつるかな」の歌は、夕陽ケ丘という地名の由来にもなりました。 |
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M 浄春寺 ■「ケプラーの第3法則」を独自に発見した天才的な天文学者・麻田剛立の墓があります。剛立の弟子が「寛政暦」を作った高橋至時で、その弟子が「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬です。また江戸時代後期の文人で、頼山陽とも親交した、日本南画界の最高峰・田能村竹田も当地に眠っています。 |
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N 口縄坂 ■天王寺七坂の1つ。「口縄」とは「蛇」のことで、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることからそう呼ばれるようになったといわれています。坂をのぼると「口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた」と、織田作之助の『木の都』の一節が刻まれた文学碑があります。 |
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O 太平寺 ■創建寛文3年(1663)。「十三まいり」のお寺として知られています。「十三まいり」は江戸時代の大坂商人の成人式で、現在でも祭りの日には境内で「十三智菓」が売られます。境内には江戸時代の名医・北村寿安の墓がありますが、寿安は中国の最新式の治療法を導入して、道修町で開業して、それがきっかけで薬種商が住みついて、道修町が日本一の薬問屋街となりました。 裕福な患者からは莫大な代金を取り、貧しい人からは代金を取らなかったので「偏屈医」と呼ばれました。大阪版「赤ひげ」、手塚マンガのブラックジャックの元祖(?)といえます。 |
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■大阪市営地下鉄谷町線「四天王寺夕陽丘」から帰りました。 |
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■このコースは見どころも多く、歩いていて楽しかったような気がします。 また、夕陽丘は名前のとおり坂が多く、都会の真ん中とは思えないくらい静かで落ち着いた雰囲気の場所でした。 |
★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:13,247歩 距離:9.0km 移動階数:25階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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