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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.029 大坂が生んだコンツェルン・住友銅吹所の栄光

〜太閤下水や南組惣会所跡をめぐりながら〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.122

 

江戸時代日本は有数の銅産国で、その銅の精錬を一手に担っていたのが大坂です。住友家のルーツである泉屋では日本中からの粗銅を集積し、精錬し、銅座を通じ長崎から広く海外へ輸出していました。その威光を垣間みると共に、世界に誇れる今も現役で400年の時をへて活躍する太閤下水から太閤さんの都市計画を垣間みます。

  

大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線「松屋町」からスタートです。

   

@ 大利鼎吉遭難の地(ぜんざいや事件)

慶応元年(1865)、土佐藩を脱藩した浪士たち(大利鼎吉、田中光顕、大橋慎三、池田応輔)が、当地のぜんざい屋・石蔵屋政右衛門に匿われていました。彼らは大坂市街に火を放ち、騒動を起こす計画を立てていましたが、それを新選組大坂屯所隊長の谷万太郎が察知。万太郎は谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎らと一緒に石蔵屋を襲撃しましたが、ほとんどの浪士たちは外出中で中には政右衛門と大利しかおらず、しかも政右衛門は逃亡。2階にいた大利鼎吉だけが討ち取られました。

   

A ビ・チ・クラッシカ(BICICLASSICA)

80年以上前に建てられた古民家をリノベーション。ビンテージものの自転車を展示する日本で唯一のギャラリーです。展示されている自転車(バイク)はイタリア製のロードバイクで、イタリア職人の技術の高さを示すフレームや細かい部品にまで施された美しいデザインは見物です。

   

東堀橋

この橋の歴史は東横堀川に架かる橋の中ではかなり新しく、第一次都市計画事業に基づき、周防町通(現在はアメリカ村のメイン通りやヨーロッパ通りとしても知名度がある)が市道堀江玉造線として拡幅整備された際の、昭和11年(1936)に鋼製アーチ橋として架けられました。この橋が架かったことにより玉造と九条が一本の道路で結ばれました。

現在の橋は、平成6年(1994)に改修整備されたもので、東横堀川全体の景観に配慮した造りになっており、橋柱の照明灯などもレトロな雰囲気の趣ある橋になっています。   (大阪市HP)

 

B 九之助橋

東横堀川に架けられています。架けられた時期は不詳ですが、江戸時代初期の慶安〜万治年間(16481661)の絵図には既に描かれています。橋の西側は九之助町と呼ばれていました。このあたりには銅吹所を始め、鋳物屋、鍛冶屋などが多くあり、町名や橋名の「九之助」も、もしかしたら金属関係の人名かも知れませんが詳細は不明です。町橋であったため、橋筋の町を中心に町々からの資金によって維持されてきました。

橋近くには淡路屋太郎兵衛という豪商がおり、天王寺の五重塔を一建立(一人の力で奉納)したといわれています。

 

橋東側の瓦屋町の町名の由来は、大坂城落城後、徳川家の御用瓦師・寺島宗左衛門がこの地を与えられ、代々、瓦を製造したことによります。

 

C 住友銅吹所跡

江戸時代の大坂には数多くの銅関連業者が集中していました。銅精錬は大坂の基幹産業で、日本の生産量の約1/3を大坂で精錬していました。その技術力も非常に高く、銅の純度を99%にまで精錬することが出来ました。大坂屋や平野屋など有力な業者がいましたが、中でも最大規模を誇ったのが泉屋(住友家)で、当地には住友家の店舗や住宅なども隣接していました。

泉屋は、元和9(1623)に大坂・内淡路町に銅吹所を開設。寛永13(1636)に長堀に移転。その後敷地を拡張して、元禄3(1690)には本店・居宅も同地に移転し、明治時代まで続きました。住友銅吹所には、当時の幕府高官やオランダ人もよく視察に訪れたといわれています。

 

D 元住友家本邸内ビリヤード場(玉突場)

明治9(1876)に銅吹所が廃止された後、敷地は住友家の邸宅となりました。明治12(1879)には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場はその東側に建てられました。文明開化期に多く見られる「擬洋風様式」で、ビリヤード場玄関のアーチや円柱飾りは洋風ですが、壁は土蔵造り、屋根は瓦葺きで、洋風と和風とが混在しています。

明治25(1892)以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものです。ちなみに日本にビリヤードが伝わったのは1800年代で江戸時代にオランダから長崎出島に上陸しました。現在のポケットビリヤードは1900年頃にアメリカから伝わったもので、明治時代はポケットの無いビリヤード台でした。

 

末吉橋(すえよしばし)

末吉橋は、南蛮貿易で活躍した平野の豪商末吉孫左衛門が架けたと言い伝えられており、その末吉家の別邸が橋の西詰にあったとも言われています。

江戸時代の末吉橋は町橋で、橋筋の町々の醵金によって維持されていました。

 

末吉橋は明治43年、市電第3期線の事業で、鋼橋になり、その後、第一次都市計画事業によってコンクリート製のアーチ橋が架けられました。隣接した長堀川の安綿橋と同じデザインになっており、統一性のある風景を作っていました。 戦後、長堀川が埋め立てられとき、拡幅されて今日に至っています。  (大阪市HP)

 

E 松屋町筋商店街

松屋町筋の南北約1kmにわたる商店街です。有名なひな人形店をはじめ、おもちゃ、駄菓子、花火、和紙などさまざまな種類の問屋や専門店が100軒以上並んでおり、中には、創業100年を超える老舗もあります。

愛称で「まっちゃまち」とも言われ、とくに5月前になると五月人形を買い求める人たちで溢れかえり、最近では外国人観光客の姿も多くなってきています。5月には手作り甲冑を着ての武者行列や手作り甲冑教室・かぶと試着会といった商店街振興の催しなども開催されています。

 

F UHA味覚糖本社ビル

昭和24(1949)設立。ビル内2階には自社商品が並んでいるサテライトショップがあります(サテライトショップの営業は平日のみ午前9時〜午後6時まで)

2階ロビーには平城遷都1300年記念事業のマスコット「せんとくん」を制作した大阪市出身の彫刻家・薮内佐斗司さんの作品が多数展示されています。

一階には「cagi de reves キャギ ド レーブ」 というチョコレート屋さんがあります。

二階には「UHA味覚糖のサテライトショップ」があります。

  

G 背割下水(太閤下水)

豊臣秀吉は大坂城築城とともに上町・船場の開発にも取り組み、町屋から出る下水を排水するための下水溝を整備しました。大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目のように道路を走らせ、その道路に面した建物の背中(裏口)に下水溝を掘り、これを背割下水(太閤下水)と呼びました。

当時の大坂は、この背割下水(太閤下水)に挟まれた約40(72メートル)四方の区画が、町割りの基本となりました。下水は広いところで幅約3.6メートル、高さ約2メートルといわれます。

 

もともと全体は開渠でしたが道路が横断する場所では石蓋が設けられていました。秀吉の時代から420年以上の歳月が経ちますが、今も約20キロ以上にわたり、現役で使用されています。

右の「のぞき窓?」から太閤下水が見れるようになっているのでしょうが、アクリル板の劣化と内側の水滴で…

何も み・え・な・い・!!

この細い路地の下に太閤下水が流れています。

 

  

H 南組惣会所跡

江戸時代、大坂の市中は幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組、南組、天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれていました。北組・南組は現在の中央区の本町通を境とする南北にあたり、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯をさします。また三郷の町数は600から620の間で増減を繰り返し、天明2(1782)以降、幕末までは620(北組250、南組261、天満組109)あったといわれています。

三郷の組にはある程度の自治が認められ、町の行政を担当するため、町人の中から選ばれた惣年寄達が月番で惣会所に詰め、下部組織には町年寄や惣代が実務を担当しました。また、大坂町奉行所のもと、年貢の取り立てやお触れの伝達調査、町年寄の任命、火消しの人足の指揮など、現在の司法、消防、警察などの業務を総合的に担っていました。

  

大阪市営地下鉄谷町線「谷町四丁目」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:13,967歩 距離:10.2km 移動階数:18階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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