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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.028 時代に翻弄された大阪の知の巨人たち

〜山片蟠桃と緒方洪庵と大村益次郎と〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.111

 

この辺りは秀吉の都市整備に始まり、大坂の陣後に松平忠明が市街地整理で寺院を集めた地域で「天満寺町」とも呼ばれ、大阪を代表する偉人達が数多く眠っています。時代に翻弄されながらも、人々のため、未来のために、自らの人生を掛けた偉人たちの遺志を感じてください。

  

大阪市営地下鉄谷町線「南森町」からスタートです。

天神橋筋商店街

教会?・・・お寺なんです。 「妙福寺(日蓮宗)

   

@ 成正寺【大塩平八郎墓所】

慶長9(1604)創建。大塩平八郎・格之助親子の墓があります。

平八郎(17931837)は大坂町奉行所の与力から儒学者となり、「知行合一」を根幹にした私塾・洗心洞を開きました。天保の大飢饉で大坂庶民が困窮すると、私財をなげうって救済を施し、奉行所に改善を求めるも無視され、遂に天保8(1837)、門人とともに決起(大塩の乱)。わずか半日で乱は鎮められ、逃亡した大塩親子も約40日後に潜伏場所を包囲されて自決しました。しかし大坂庶民を救おうとした義人として尊敬され、墓には今も絶えることなく花が供えられています。

   

A 善導寺【山片蟠桃(ばんとう)墓所】

文禄3(1594)創建。町人学者・山片蟠桃(17481821)の墓があります。

山片蟠桃は両替商・升屋の番頭で大名貸しで成功した辣腕経営者ですが、失明を乗り越えて大作『夢の代』を著しました。同著は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書、異端、無鬼、雑論から成る百科事典で、番頭としての秀逸卓抜な経済理論を展開すると同時に、近代西欧医学の効用、地動説、『日本書紀』の否定、迷信俗信の排撃、無神論などを展開して、江戸時代の書物とは思えない、近代的、科学的、合理的な思考が見られます。

あまりの独創性で出版はされませんでしたが、40冊以上の写本が現存しているので、広く大坂庶民に読まれたと思われます。吉田松陰も高く評価し、旧ソ連の科学アカデミーはフォイエルバッハの自然科学的唯物論と並んで「初期唯物論の先駆的著作」と激賞。世界的な大著として知られています。

 

「地獄なし 極楽もなし 我もなし ただある物は人と万物」「神仏 化け物もなし 世の中に 奇妙不思議な ことは猶なし」が辞世です。

   

B 天徳寺【篠崎小竹(しょうちく)墓所】

天正元年(1573)に総持寺の僧・秀雲が創建。儒者・書家の篠崎小竹(17811851)の墓があります。

小竹は9歳で篠崎三島の私塾・梅花社に入門。三島に後継がなかったので養子となりました。一時期は頼山陽に感化されて江戸に出奔して朱子学者に転向しますが、その後、三島と和解して梅花社を継承。温厚で社交好きな性格で、梅花社は大坂で最も有名な塾となり、門下生は1500名を越えたといいます。

また学者に似合わず蓄財が巧く、鴻池家に出入りして主人・善右衛門に論語の講釈をするなど、「学者中の鴻池」とも呼ばれました。同寺には篠崎三島や篠崎竹陰(小竹の養子)の墓などもあります。

 

C 寶珠院

寺伝によれば弘法大師が天長2(825)に如意珠院を建立。弟子の堅恵上人が寺院に改めたといいます。菅原道真が当時の住職・恵澄法印と学友で延喜元年(901)、大宰府左遷の折に立ち寄りました。自念仏の十一面観世音菩薩や写経を納め、天神信仰の寺院としても知られています。珍しい油掛大黒天があります。

 

D 九品寺(くほんじ)【五井持軒(ごいじけん) 墓所】

寺伝では行基の開基です。境内に儒学者・五井持軒(16411721)の墓があります。

持軒は大坂生まれで初めは医業を志しましたが、ある女性患者の診断ミスで自責して儒学に転じました。北鍋屋町で塾を開き、四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)に打ち込んだので「四書屋加助」と呼ばれました。晩年は下河辺長流(16271686)に国学を学んで『校註日本紀』を著しています。また持軒の三男・蘭洲は中井甃庵に招かれて懐徳堂の教授となり、甃庵の子の竹山と履軒は、蘭洲の薫陶を受けて懐徳堂の黎明期を支えました。この知の系譜から持軒は大坂の町人学問の開拓者と言われます。

 

E 池上雪枝感化院跡

池上雪枝(18261891)は幕末〜明治の社会事業家です。幼い頃から狂歌・和歌を詠んだ天才少女で、7歳から20年間、京都の近衛家に預けられました。嘉永5(1852)に結婚して52女に恵まれましたが、夫が商売に失敗。雪枝は易学で生活を支えました。

易学で数多くの生活苦難者の話を聞き、明治維新による社会混乱や貧困、家族離散などが少年非行や犯罪を生んでいると実感。そこで明治16(1883)空心町の自宅に神道祈祷所と感化院を設立しました。これが日本初の児童の自立支援施設で、雪枝が「青少年更生事業の母」「少年感化の母」と称される由縁です。行き場のない少年少女を引き取って奉公先を探したり、私財を投じて当時、流行したステッキや洋傘の柄、石鹸の製造などの職業教育を実施。

雪枝没後の明治26(1893)に閉鎖されましたが、雪枝の業績は社会事業に携わる数多くの人々に多大な影響を与えています。「誰をかも杖とたのまむ老の身のわけつくされぬことの葉のみち」が辞世です。

 

F 緒方洪庵・八重墓所

龍海寺にあります。緒方洪庵(18101863)は「日本近代医学の父」と呼ばれ、中天游の私塾・思々斎塾に入門。江戸や長崎でも学び、帰坂後、医者の先輩・億川百記の娘・八重と結婚して67女をもうけました。医業・蘭学塾の適々斎塾(適塾)を開き、福澤諭吉、橋本左内、大村益次郎など錚々たる人材を輩出。学習に対しては厳格でしたが温厚至極で怒りを発したことがなく、諭吉は「類まれに見る高徳の君子」と記しています。

幕府の要請で江戸に出仕して将軍の侍医の地位を得ましたが喀血し、死去しました。洪庵の墓に寄り添うようにあるのが妻・八重の墓です。八重は1000人以上といわれる適塾生達の面倒をみた人物で、諭吉は「わたしのおっかさんのような人」「非常に豪いお方」と回想しています。八重の葬儀には約2000人が参列し、葬列の先頭が日本橋に到達しても、2キロ以上離れた北浜の自宅から八重の棺は出ていなかったといいます。

  

G 中天游墓所、H 大村益次郎足塚

龍海寺にあります。中天游(17831835)は医学者・蘭学者で、日本初の目の光学機能についての学術書『視学一歩』を著した人物です。しかし医業よりも蘭学に熱心で、診察は妻さだ(さだも医者でした)に任せっきりで、橋本宗吉の蘭学塾・絲漢堂に入塾。自らも思々斎塾という蘭学塾を開き、その門下生が緒方洪庵です。

大村益次郎(18241869)は適塾の塾頭で、蘭書で得た西洋兵学知識を我流にアレンジ。長州藩の軍略家として戊辰戦争を指揮すると連戦連勝して、天才的な才能を発揮しました。しかし明治2(1869)に刺客に襲われ、足の傷から敗血症となり、死に至りました。「切断した足を洪庵先生の墓傍に埋めて欲しい」と遺言したため、緒方夫妻の墓地隣に足塚が作られました。

 

この通りのお寺で、史跡にまつわる偉人の生き方を知ると、背筋が伸びる思いがします。この通りの地名は「東寺町」ですが、「かしこロード」とか「私財投げ売りロード」と呼びたくなります。

  

I 泉布観

明治4(1871)に造幣寮(造幣局)の応接所として建設。設計者は英国人技師トーマス・ウォートルスで、建物周りにベランダを張り巡らすベランダ・コロニアル形式で、現存する大阪最古の洋風建築です。明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と、館を意味する「観」から泉布観と命名しました。昭和31(1956)、国の重要文化財指定。

明治天皇がいらっしゃった・・・という碑?

: 泉布観 右:旧桜宮公会堂

旧桜宮公会堂は大阪市北区の大川沿いにある、造幣寮(:造幣局)の金銀貨幣鋳造所の正面玄関を移築保存した建築物。国指定の重要文化財。隣接する泉布観とともに、現存の近代建築としては、日本で最も古いもののひとつ。 (Wikipedia)

  

桜宮橋

 

大川

左端:マンション、中央:OAP、右:帝国ホテル

LED電球がいっぱい・・・夜は綺麗だろうなぁ

OAP (水上バス乗降場)

 

J 日羅公之碑

日羅(?〜583)は肥後の人ですが、百済に渡って日本と百済の友好に努め、百済王も二位達率という高官位を与えて重用しました。『日本書紀』敏達12( 583) の条によると、敏達天皇の要請で日本に帰国し、朝鮮半島政策を奏上しましたが、その内容が百済に不利益を及ぼすものであったため、同年12月に百済人によって暗殺されました。詔で難波小郡西畔丘に埋葬されましたが、その墓所が当地であるといいます。

 

K 源八渡し跡碑

天満源八町と対岸の東成郡中野村を結ぶ渡しです。創始は不明ですが、元禄期の記録があり、昭和11(1936)に源八橋が架橋されるまで活躍しました。渡しの東には中野の梅林があり、毛馬で生まれた俳人・与謝蕪村が「源八をわたりて梅の主かな」の句を残しています。

 

源八橋

 

 

JR環状線「桜ノ宮」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数: 9,919歩 距離:7.6km 移動階数:9階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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