〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜 No.025 八軒家浜から「蟻の熊野詣」界隈を歩く 〜山本能楽堂から西鶴終焉の地、東町奉行所址まで〜 |
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■平安時代には皇族、貴族の熊野詣の起点として、江戸時代には大坂、京都を往き来する三十石船の発着場として賑わった八軒家。現代でも電車や水上バスが往来して、交通の要所としての役目は昔から変わっていません。そんな熊野街道筋を辿って歩きます。 |
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■大阪市営地下鉄谷町線「天満橋」からスタートです。 |
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@ 八軒家浜(川の駅はちけんや) ■京阪電車中之島線の工事に伴って整備され、平成20年(2008)3月29日開港。桟橋を3基連結し、観光船が同時に3隻まで着岸できます。 平成21年(2009)8月1日にはレストラン・観光船案内所・情報発信スペースからなる「川の駅はちけんや」がオープン。水辺の遊歩道も整備されています。 |
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A 八軒家浜船着場跡 |
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■仁徳天皇が開削した難波の堀江は八軒家界隈という説がありますが、当地は古代より海上交通の要所として栄えたようで、『万葉集』にも詠まれています。 ■江戸時代には大坂と京都を結んで淀川を行き来した三十石船の船着場があり、8軒の船宿があったため八軒家と呼ばれました。下り(京都⇒大坂)は約6時間、上り(大坂⇒京都)は約12時間かかったと記録があります。 |
■また森の石松の「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねえ」の話は、この三十石船の中での出来事ということになっています。
■昆布の「永田屋」の店頭に設置してあります。 |
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B 熊野街道 |
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■渡辺津(窪津)を起点とし、熊野三山への参詣に利用された街道です。京都から淀川を船で下り、八軒家浜に上陸、御祓筋を南下して四天王寺、住吉大社などを経て熊野に向かいました。平安時代中期頃から上皇や貴族の熊野詣が盛んになり、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回も参詣しています。 |
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■やがて武士、庶民もこれに続き、たくさんの人々がこの街道を行き来したため、「蟻の熊野詣」と呼ばれるようになりました。街道沿いには、熊野権現の分霊を祭祀した九十九王子と呼ばれる王子社が設けられ、参詣者は参詣道中の無事を祈念しながら熊野三山への旅を続けました。王子社は道標や休憩所としての役割も兼ねていました。
■写真を撮ろうとしてるのに、おばちゃんが自転車を留めていった・・・ |
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C 大坂町中時報鐘 |
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■寛永11年(1634)、3代将軍徳川家光が大坂城を訪れた際、大坂三郷の地子銀(固定資産税)を永久に免除することを約束しました。これに感謝した人々は鐘楼を建て、時刻を報じて永くその恩恵を記念しました。明治3年(1870)に鐘楼は撤去されましたが、地元有志の努力により昭和60年(1985)元の場所へ。現在でも1日3回鐘の音を響かせています。 |
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D 宇野浩二文学碑 『清二郎夢見る子』(中大江公園) ■宇野浩二(本名:宇野格次郎)は、明治24年(1891)、福岡市で生まれ、幼少期を大阪の糸屋町(中大江公園界隈)や宗右衛門町で過ごした後、明治43年(1910)、早稲田大学英文科に入学。大正8年(1919)に発表した『蔵の中』『苦の世界』により新進作家としての地歩を確立し、ユーモアとペーソスを交えた饒舌体の作品を多く発表しました。 しかし昭和2年(1927)、妻と愛人との板挟みなどから精神異常に陥って入院。昭和8年(1933)に『枯れ木のある風景』で復帰すると作風が一変し、昭和13年(1938)の『器用貧乏』や昭和23年(1948)の『思ひ川』など、無飾の文体で冷厳に現実を見つめる作風となり、「文学の鬼」と呼ばれました。 |
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E 山本能楽堂 ■昭和2年(1927)、先代・山本博之氏が創立しましたが、昭和20年(1945)の大阪大空襲で燃失。その後、昭和25年(1950)に3階建ての木造建築として再建し、平成18年(2006)には文化庁より登録有形文化財の指定を受けています。 客席は1、2階とも桟敷席の舞台で、鏡板は松野奏風作で老松を下から見上げる珍しい形です。屋根は桧皮葺きで舞台の重厚感を一層引き立て、また音響効果を良くするため、舞台下には大きな瓶が12個並べられています。 |
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F 月山貞一(がっさん さだかず)旧居跡 ■月山とは日本刀の刀匠の一派で、鎌倉から室町時代にかけて出羽国月山を拠点に活動していました。幕末には大坂に移住し、関西を拠点として作刀活動を行っています。初代貞一は帝室技芸員に選ばれて宮内省御用刀匠となった名刀鍛冶で、明治天皇の佩刀や伊勢神宮の宝刀も製作しています。 |
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■この辺りなんだけどなぁ… |
■これは分からなかった! |
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G 井原西鶴終焉の地碑 ■井原西鶴(本名:平山藤五)は寛永19年(1642)、大坂鑓屋町で生まれました。西山宗因に師事し、談林派の俳諧を学びました。連続で多くの句を作る「矢数俳諧(大矢数)」の分野で大活躍し、一昼夜に2万3500句を詠む最高記録を打ち立てました。 その後は浮世草子に力を入れ、『好色一代男』『日本永代蔵』『世間胸算用』などを執筆。この碑は西鶴没後300年を記念し平成5年(1993)9月25日(旧暦8月10日・西鶴の命日)に西鶴文学会の手により建てられました。 |
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H 大阪英語学校跡碑 ■明治2年(1869)、大阪に舎密局(せいみきょく)と洋学校が開校。舎密局は理化学を教える学校、洋学校は理科・史科・政科・兵科・文科・語科など基礎的な分野を系統的に教える学校でしたが、後に統合、名称変更を繰り返し、明治7年(1874)4月、大阪英語学校となりました。 この学校では、単に語学だけでなく外国語による一般教科目の授業が行われ、広く西日本各地から生徒が集まる特色ある存在でした。明治22年(1889)には京都に移転し、第三高等学校(現在の京都大学)となりました。 |
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I 大阪府庁 ■初代大阪府庁は中央区本町橋付近にあった西町奉行所を使用していましたが、明治7年(1874)に西区江之子島に移転し、大正15年(1926)には現在の大手前に移転しました。 建物設計にはコンペ方式を取り入れ、全国81通の応募の中から、平林金吾・岡本馨両氏の共同設計が採用されました。この庁舎の本館は現役で使用されている全国一古い都道府県庁舎です。 |
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J 大坂東町奉行所址碑 ■大坂には大阪城京橋門外、西外堀の西側に東西2つの奉行所が置かれ、1ヶ月交代で執務にあたっていました。奉行所は、町奉行⇒家老⇒用人⇒取次⇒町与力⇒町同心という機構であり、両町奉行の配下で実務を担当したのは町与力30騎と町同心50人でした。 |
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■享保9年(1724)の大火(妙知焼)で両町奉行所は焼失し、一時難波別院(南御堂)に移りますが、まもなく東町奉行所は元の場所に再建され、西町奉行所は本町橋東詰に移転しました。 |
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■ゴールの「天満橋」に戻りましたが、歩数を増やすため「淀屋橋」まで歩きました。 |
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★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:14,460歩 距離:10.2km 移動階数:15階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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