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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.023 江戸堀発!時代を駆け抜けた先賢者たち

〜頼山陽、中天游から宮武外骨まで〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.066

 

江戸時代の江戸堀界隈は、当代一流の知識人・学者の宝庫でした。幕末の志士たちが読みふけった『日本外史』の作者・頼山陽が生まれ、蘭学者・中天游の私塾・思々斎塾が開かれ、そこには緒方洪庵が学びに訪れました。

また洪庵の弟子で、日本近代陸軍の父・大村益次郎が寓居して、明治以降には反骨のジャーナリスト・宮武外骨が『滑稽新聞』を発刊したのも江戸堀です。 時代の最先端を駆け抜けたまち・江戸堀を歩いてみましょう。

  

大阪市営地下鉄四つ橋線「肥後橋」からスタートです。

肥後橋交差点にある、「図体でかいのに足下をあんなに細くしちゃって大丈夫?」…の大同生命大阪本社ビル。 NHKの朝ドラ「あさが来た」で有名な「加島屋」の広岡本家跡地に建つ独創的なデザインのビルです。

太陽の母子像(本郷新)

Libert'e 「自由」 Emile Antoine Bourdelle

   

@ 頼山陽生誕地

頼山陽は江戸時代後期の歴史家・漢詩人・文人です。安永9(1780)、現在の西区江戸堀で広島藩の儒学者・頼春水の子として生まれました。江戸に遊学後の寛政12 (1800)、突如、脱藩を企て失敗して、廃嫡のうえ自宅へ幽閉されますが、そこから源平、南北朝から徳川時代までの武家の栄枯盛衰を書いた歴史書『日本外史』を執筆しはじめます。その後、京都で塾を開き、文政9(1826)に『日本外史』を完成、老中・松平定信に献上しました。

陽明学者として大塩平八郎にも大きな影響を与えましたが、没後出版された『日本外史』は幕末の大ベストセラーとなり、尊皇攘夷運動に大きな影響を与えました。

   

A 金光教玉水教会会堂

昭和10(1935)建築。木造平屋建てで、一部を2階建てとする裳階付きの大型の和風建物です。入母屋造の大屋根平側に2つの千鳥破風をつけて賑やかに飾られています。

 

細部の意匠は全体的に伝統的な手法に則って構成されています。堂々とした外観で風格があり、設計は池田谷(久吉)建築事務所で、北井工務店が施工しました。

 

国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。

   

B 先賢景仰碑

西船場小学校は昭和18(1943)に東江小学校を改称したものです。旧名の「東江」は、東江戸堀という意味で、この地には江戸時代以来多くの先覚者・学者・文化人らが生まれました。そこで昭和10(1935)10月、東江小学校創設50周年を記念して校庭に建てられたのがこの顕彰碑です。

藤沢章の撰文には、頼山陽・篠崎三島・同小竹・後藤松陰・並河寒泉・武内確斎・広瀬筑梁・河野恕斎・春田横塘・金本摩斎・新興蒙所・尾崎南竜・下河辺長流・江田世恭・鶴峰戊申・萩原広道・森周峰・墨江武禅・長山孔直・耳鳥斎・半時庵淡々・椎本才麿・暁鐘成・岩永盤元・斎藤方策・亀山貞介・浄光寺普行・佐伯覚灯・村山竜平・宮川経輝らの名が挙げられています。

 

 

C 関西法律学校発祥の地

関西法律学校は、明治19(1886)、当時の大阪控訴院長であった児島惟謙(のち大審院院長)らの賛成を得て、この地にあった願宗寺内に創立されました。創立当時は児島のほか大阪始審裁判所長の大島貞敏、および土居通夫(のち大阪商業会議所会頭)らが名誉校員でした。現在の関西大学の前身になります。

 

路地を二往復しましたが、発見できませんでした。

おそらく、工事のために撤去したんだろうなぁ…

 

D 中天游邸跡

江戸時代の蘭学者・中天游の寓居跡です。中天游は江戸の大槻玄沢、京都の海上随鴎といった当代一流の蘭学者から教えをうけ、文化14(1817)35歳のときに大坂に移住しました。

 

医術の心得があったため、女医者として評判のよかった妻のさだとともに医業を開くも、医業よりも蘭学に熱心で、橋本宗吉の絲漢堂に出入りしながら、私塾・思々斎塾を開き、子弟の教育につとめました。この思々斎塾で、緒方洪庵も塾生として4年間、天游に教えをうけました。

 

E 此花乃井

花乃井中学校の校庭は、江戸時代に石見津和野藩(亀井氏・43千石)の蔵屋敷があったところで、屋敷内の井戸は大坂では珍しく良質の飲料水でした。慶応4(1868)に明治天皇が大坂北御堂を行在所としたさいには、この井戸水を用水に供したことから、「此花乃井」の名が与えられて、以来、通称「花乃井」と呼ばれて、大阪の名水として評判となりました。

明治42(1909)5月に、有志によって「此花乃井」の碑が建てられ、昭和15(1940)11月、この名水を永く保存するため、江戸堀町会連合会により、さらに石碑が1基建てられました。校名は通称の「花乃井」からとられたものです。

 

F 花乃井橋跡

花乃井橋は堂島大橋から芦原橋間の市電開通に際し、大正9(1920)に江戸堀川の第6橋として架けられたもので、当時の橋柱が残されています。

  

G 宮武外骨ゆかりの地碑

宮武外骨(18671955)は、幼名を亀四郎といい、「亀」が外骨内肉の生き物であることに因んで、明治17(1884)に外骨と改名しました。公権力に対して反骨の精神を貫き、入獄4回、罰金・発禁などは29回にも及びました。

当初は東京で活躍し、『頓知協会雑誌』などを刊行して、政府や行政の腐敗を攻撃しましたが、明治33(1900)に大阪へ移り、生地の香川県小野村をもじった小野村夫の名前で、行政の腐敗を面白おかしく揶揄した『滑稽新聞』を発行。滑稽新聞社は刊行当初は京町堀通4丁目でしたが、明治35(1902)に江戸堀南通4丁目に移転しました。

 

『滑稽新聞』は毎月5日と15日の2回発行され、明治42(1909)173号を最後に廃刊となりました。外骨は、東京帝国大学内に明治雑誌新聞文庫を創設するなど、書誌収集の面でも大きな功績を残しています。

  

H 大阪上等裁判所跡

上等裁判所は、明治5(1872)の司法省官制による臨時・司法・出張・府県・区の5 種の裁判所のうち、司法裁判所を改称したもので、明治8 (1875)、大阪・東京・長崎・福島の4ヶ所に設置されました。

大阪上等裁判所は当初は西道頓堀1丁目の旧金沢邸に開庁しましたが、翌年、土佐堀へ移転しました。管轄区域は、大阪・京都両府のほか、敦賀・滋賀・石川・度会・奈良・和歌山・堺・兵庫・飾磨・岡山・北条・鳥取・豊岡・名東・高知・愛媛・小田・島根・浜田・広島・山口の諸県に及びました。

 

「明治天皇聖躅・上等裁判所址」の碑は、大正14(1925)5月、大阪市青年連合団が建てたものです。

  

毎度おなじみの土佐堀橋です。

越中橋…右側()に薩摩藩蔵屋敷跡があります。

  

I 薩摩藩蔵屋敷跡

西区の東北部一帯は、江戸時代には河川を利用した交通の便がよかったため、中之島や堂島と同じく、諸藩の蔵屋敷が集中していました。当地には薩摩鹿児島藩(島津氏77万石)の蔵屋敷があって、ここには薩摩堀川を開削した薩摩屋仁兵衛が、代々、天満組惣年寄を務めるとともに蔵屋敷に付属して、薩摩定問屋として活躍していました。

明治元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで、幕府から蔵屋敷の引渡しを要求され、これを拒絶したため、陸奥会津藩兵が攻撃してくることを聞いて、自ら火を放って焼失しました。

 

この付近に薩摩藩蔵屋敷は薩摩藩上屋敷・中屋敷・下屋敷の3カ所あったそうです。

この蔵屋敷跡というのは「薩摩藩上屋敷跡」であり、今は三井倉庫になっています。

 

J 大村益次郎寓居跡

大村益次郎(18241869)は、儒学・蘭学・医学・西洋兵学に通じた幕末の軍政家です。弘化3(1846)23歳のときに大坂に出て、緒方洪庵の適塾で学び、一時期は大坂を離れて長崎に学びますが、嘉永元年(1848)に再び適塾に戻りました。

極めて優秀な塾生で、嘉永2(1849)には塾頭となっています。当初は塾に寄宿していましたが、江戸堀の倉敷屋作衛門の屋敷に下宿するようになり、その下宿跡に建てられたのが当碑です。高杉晋作の奇兵隊を指導して、長州征討や戊辰戦争では、長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。

 

明治新政府の兵部省初代の大輔(たいふ)を務め、「近代日本陸軍の父」と呼ばれています。しかし明治2(1869)に京都で国民皆兵反対派の刺客に襲われ、大阪病院に入院して右脚切断の大手術をしましたが成功せず、46歳で没しました。

 

K 日本基督教団大阪教会

米国宣教師ゴルドン氏の伝道で明治7(1874)、西区に創立された梅本町公会が前身です。平成16(2004)には創立130周年を迎えた、日本最古級のプロテスタント教会です。

現教会堂は近江兄弟社の創立者で、熱心なクリスチャンであったアメリカ人建築家ヴォーリズの設計で、大正11(1922)に建造されました。ロマネスク様式のクラシックな赤レンガ建築で、重厚なアーチや尖塔、切妻屋根、美しいバラ窓(円形飾り窓)など数多くの見所があります。

 

平成7(1995)の阪神・淡路大震災で半壊しましたが、8ヶ月に亙る復興工事の末、見事、復興しました。平成8(1996)には国の登録文化財となっています。

 

L 肥後橋商店街

「日本一短い商店街」と呼ばれていて、長さは約79メートルです。戦後は玉水商店街と呼ばれていましたが、昭和40(1965)に肥後橋駅が開通したことにより改名しました。

 

大阪市営地下鉄四つ橋線「肥後橋」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:10,140歩 距離:7.4km 移動階数:15階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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