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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.020 大阪6000年!悠久の大地を知る

〜大阪城にまつわる秘話を辿りながら〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.020

 

上町台地の北端に位置する森ノ宮・大阪城界隈は、縄文・弥生時代の貝塚が発見され、古代には難波宮が、中世には大坂本願寺が、近世からは大坂城が築城されて、まさに大阪6000年の歴史や文化が凝縮されたエリアです。大阪という都市の栄枯盛衰のドラマを見つめ続けた、悠久の大地を歩いてみましょう。

  

大阪市営地下鉄中央線「森ノ宮」からスタートです。

   

@ 森ノ宮遺跡

この辺りは上町台地の北端に当たりますが、土器片が見つかったことから、昭和46(1971)に学術調査が行われ、大阪市内では数少ない貝塚が見つかりました。貝塚の下層部分(縄文期)は海水産のマガキ、上層部(弥生期)は淡水産のセタシジミで、この辺りが元は海(河内湾)であったのが、淀川や大和川の土砂によって埋め立てられ、湖(河内潟、河内湖)へと変貌していく様子が見て取れます。

 

また縄文期(6000年前)の地層から屈葬人骨18体と生活用具が発見され、これは大阪最古の人骨で「大阪市民第1号」として有名になりました。埋葬形態から関東や東北、九州西北地方と交流していた痕跡が見られ、森ノ宮界隈は日本各地を移動する縄文人の集散地となっていたと推定されます。

マップではこの辺りになるのですが・・・

ろうろと周回していたら「遺跡展示室入り口」と書かれたプレートを見つけました。

どうやら、この建物の地下にありそうなのですが、バリケードが施してあり、中には入れませんでした。

   

A 鵲森宮(森之宮神社)

主祭神は用明天皇()、穴穂部間人皇后()、聖徳太子()で、森之宮神社とも呼ばれます。蘇我氏と物部氏が争ったさいに、蘇我側の聖徳太子が四天王に祈願して勝利したので、崇峻2(589)に当地に四天王を祀る寺を建立しました。のちに寺は荒陵山に移って四天王寺となりますが、この「元四王寺」が神社の縁起と伝えられています。

また推古6(598)に鉄鋼業の祖・吉士磐金(きしのいわかね)が新羅より鵲(かささぎ)2羽を献上して「難波の杜()」で飼育した(『日本書紀』)とあり、これが鵲森宮の社名の由来と言われています。かつては広大な神領を持ち、現在の城東区天王田や大東市住道の御供田の地名はその名残りです。ちなみに鵲はカチガラスとも呼ばれる吉鳥で、韓国では国鳥になっています。

   

B 亀井水碑

元はJR森ノ宮駅付近にあって古代は温泉が湧き上がっていたとされます。

聖徳太子が命名した長寿の霊水で、四天王像と共に四天王寺に移されたと伝わります。実際に四天王寺には亀井堂があります。

 

C 秋田實笑魂碑

秋田實(19051977)は玉造出身の漫才作家です。東京帝国大学卒で、左翼活動を行って小説などを発表しますが挫折。その頃に横山エンタツ・花菱アチャコの漫才を見て衝撃を受け、台本を書かせて欲しいと直訴、名作「早慶戦」を手がけて人気作家となります。

 

1948年には漫才サークル「MZ研進会」を結成して、ミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろしなどの漫才師を育てました。1950年には阪急創業者の小林一三と軽演劇集団「宝塚新芸座」を作りますが、新芸座が次第に演劇に傾倒するので小林一三と対立。独立して「上方演芸」(現・松竹芸能)を発足させました。

晩年は「笑の会」を組織して、オール阪神・巨人、B&B、太平サブロー・シロー、宮川大助・花子、ザ・ぼんちなどを育て、漫才ブームの礎を作りました。

1977年に大腸癌で死去。「月よりも 花よりも なお美しき 人の笑い顔なり」をモットーに8000本近い漫才台本を書いて「上方漫才の父」とも呼ばれます。幼い頃に遊んだという玉造稲荷境内に笑魂碑があって、自筆で「笑いを大切に。怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と刻まれ、また隣石には「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」の辞世句が刻まれています。

 

D 玉造稲荷神社

社伝によれば垂仁天皇18(紀元前12)創建。古代は「玉作岡」と呼ばれ、勾玉などを作る玉造部がいたといいます。蘇我・物部の争いのさいに聖徳太子は当地に布陣して、戦勝後は観音堂を建立。

豊臣時代には千利休が茶会を催したという伝承もあります。江戸時代は社地が急崖に面していたため、寛政元年(1789)、東横堀川の浚渫で出た土砂を運び込む「砂持」が行われました。大坂城の鎮守で熱く信奉され、江戸時代には伊勢参りの出発点とされました。

 

秀頼奉納の鳥居や千利休顕彰碑のほか、難波玉造資料館があって勾玉や土器などの古代資料が展示されています。

秀頼奉納の鳥居。 下は折れてしまったそうです

秀頼公の銅像  後の建物は資料館です

落語にもよく出てくる神社です。

近松門左衛門の曾根崎心中の碑がありました。

 

E 千利休居士顕彰碑

豊臣時代、千利休は玉造禰宜( ねぎ) 町に屋敷を構えたと言われ、秀吉、淀殿、秀頼らが野点の茶会を楽しんだという故事に因んで建てられました。千宗室宗匠の筆です。

 

F 白光大神(神木)

玉造稲荷神社から南へ約50メートルほど進むと、榎木が道路の真ん中にあって、「白光大神」と書かれた祠があります。白光とは白蛇のことで、この榎には神の使いの白蛇が棲みついているとされています。

  

G 大阪カテドラル聖マリア大聖堂( 大阪玉造カトリック教会)

明治27(1894)創立。昭和20(1945)の大阪空襲で滅失して現在の大聖堂は昭和38(1963)に落成しました。建築家・長谷部鋭吉の遺作です。

敷地が細川家の屋敷跡という由縁で、聖堂内に細川ガラシャが描かれた画が掲げられています。「最後の日のガラシア夫人」「栄光の聖母マリア」「高山右近」などは日本画家・堂本印象(18911975)の作品で、印象はこの功績で、昭和38(1963)にローマ教皇ヨハネス23世から聖シルベストロ文化第一勲章を受章しました。パイプ数2400の巨大なパイプオルガンでも知られています。

聖堂内の細川ガラシャが描かれた画

聖堂内二階に設置してある巨大なパイプオルガン

  

H ガラシャ夫人像

細川ガラシャ(15631600)は、明智光秀三女で本名は珠(たま)といいます。信長のすすめで細川忠興に嫁ぎ、仲の良い夫婦でしたが天正10(1582)に父・光秀が本能寺で信長を討ち、珠は逆臣の娘として丹後に幽閉されました。

 

天正12(1584)に秀吉の恩赦で細川家の大坂屋敷に呼び戻されますが、珠はここで宣教師の教えを聞いて魅了され、密かに洗礼して「ガラシャ」(ラテン語で神の恵みの意味)の名を受けます。

ところが突如として秀吉はバテレン追放を発令。夫・忠興もキリスト教徒の侍女の鼻を削いで追放したほどでしたが、ガラシャは発覚を免れました。

慶長5(1600)に関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍・石田三成は東軍・細川忠興の妻ガラシャを人質に取ろうとしますが、ガラシャは拒否。「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の花も花なれ 人も人なれ」の辞世句を残し、家老に槍で胸を貫かせて死にました。享年38歳。

 

忠興は妻の死を悲しみ、慶長6(1601)には教会葬を依頼して葬儀に参列、遺骨を崇禅寺へ埋葬しました。

 

ガラシャの死は当時のヨーロッパにも伝聞され、1698年にはガラシャをモデルに戯曲「気丈な貴婦人」が発表されました。野蛮な夫の非道に耐えながら信仰を貫き、最後は命を落として夫を改心させるという物語で、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリザベートなどに好まれ、その生き方に深い影響を与えたといいます。

  

I 高山右近像

高山右近(15521615)は摂津出身のキリシタン大名です。父・友照(15271595)は当初、キリシタン撲滅を考えていましたが、その教えを知って改宗。右近は12歳のときに洗礼を受けます。その後、信長、秀吉に仕えて武功をたてて明石6万石に封ぜられますが、高槻、安土、京都、大坂などで教会やセミナリオ(神学校)に寄進して布教活動を補助しました。

小西行長、黒田孝高といった当時のキリシタン大名の大半は、右近が信仰に導いたと言われます。天正15(1587)の秀吉のバテレン追放令のさいには、領地や全財産を放棄して秀吉の元を去ってでも信仰を守り抜き、諸外国にもその名は広がりました。以後、加賀・前田家に庇護を受けていましたが、慶長19(1614)に幕府から禁教発令が出てフィリピン・マニラに追放。現地で熱病に冒されて翌年、殉教しました。その死を悼み、マニラでは全市をあげて、9日間に渡って盛大なミサが執行されました。

 

J 阿波野青畝句碑

山口誓子・高野素十・水原秋桜子とともに名前の頭文字をとって「ホトトギス派の四S」 と称された俳人です。1947年にカトリックに入信。句碑は「天の虹 仰ぎて右近 ここにあり」と刻まれ、右近を偲んだものです。

 

K 越中井

細川家の大坂屋敷跡です。徳川家康と対立した石田三成は、家康方の細川忠興の妻・ガラシャを人質に取ろうとしますが、ガラシャは拒否。屋敷に火を放って自害して、唯一残った遺構がこの井戸です。

 

難波宮跡

 

大阪歴史博物館

大阪警察本部

 

L 大阪城

織田信長に「天下一の境地なり」と言わしめた大坂本願寺(14961580)の跡地に、天正11(1583)、天下人・豊臣秀吉が築城を開始しました。三重の堀と運河に囲まれた「三国無双」(大友宗麟)の壮麗な城でしたが、大坂の陣(1615)で焼失。その後、元和5(1620)から徳川秀忠によって大坂城再建が始められ、寛永6(1629)に完成しますが、寛文5(1665)の落雷で天守閣が焼失して、以降は天守を持たない城となりました。

江戸末期の慶応4 (1868)に鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、大坂城にいた慶喜は江戸へ逃亡。

その混乱時に出火して、城内の建造物のほとんどが焼失しました。現在の天守閣は第7代大阪市長の關一が再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって昭和6(1931)に再建されました。豊臣・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後80年を超え、最も長命の天守となっています。平成9(1997)には、国の登録有形文化財となりました。

中国・韓国・・・外人がやたらと多いでした。

ゴ〜ル!・・・大阪城内での歩きが一番長かった

 

大阪市営地下鉄谷町線「谷町四丁目」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:15,376歩 距離:10.2km 移動階数:13階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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