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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.019 偉大なる大陸文化の伝承地・四天王寺

〜ベルリンの壁から大阪関帝廟まで〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.083

  

かつては上町台地の西側まで海(大阪湾)が迫り、そこは難波津と呼ばれる国際港でした。四天王寺は、大陸文化に影響されて、西暦593年に聖徳太子が建立した「日本仏法最初の大寺」ですが、四天王寺界隈には、こうした大陸文化の影響を受けた名所・旧跡がいくつも残されています。

 

統国寺のベルリンの壁から、大阪関帝廟まで。国際港・難波津の歴史と文化を辿っていきます。

 

大阪市営地下御堂筋線「天王寺」からスタートです。

あべのハルカス(地上60階、高さ300m)

このビルの建設中に36階に行ったことがあります。

 

@ 竹本義太夫生誕の地

明竹本義太夫は慶安4(1651)、天王寺村の百姓家の出身ですが、歌の才能を見出されて京都の名人・宇治加賀椽(かがのじょう)に預けられ、浄瑠璃節のみならず、昔の謡曲など色々な歌唱の長所をとって、独特の音節「義太夫節」を産み出しました。

これが大人気を得て、道頓堀に竹本座を開座。近松門左衛門を座付き作家として迎えて、浄瑠璃人形芝居を始めると隆盛を極め、元禄11(1698)には、朝廷に召されて義太夫節を披露し、「筑後椽」の号と、「藤原博教」の名を賜りました。以後、義太夫は上方芸能界の牛耳を執って大権威となりますが、晩年は竹本座を竹田出雲に譲って隠退しました。正徳4(1714)64歳で亡くなっています。

 

A 統国寺(ベルリンの壁)

統国寺の参道はホテル街になっていました。

統国寺の山門です。

ベルリンの壁…本物だそうですが…うーん。。。

聖徳太子の創建と伝えられています。百済の僧・観勒(かんろく)が開山住持として招かれ、百済古念仏寺と名づけられ、推古天皇の帰依により厚い保護を受けました。宝永6(1709)に、黄檗宗に属して寺名を「和気山 邦福寺」と改め、大勢の雲水(修行僧)の修行の場となりました。

 

昭和44(1969)に在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り、「統国寺」と改名されます。南北に分断された朝鮮民族の国家統一への願いがこめられて、信者から奉納されたベルリンの壁の一部が置かれてあります。

 

B 阪口楼

普茶料理を出す老舗料亭で、明治10(1877)に南地大和家の分家として創業しました。普茶料理とは、江戸初期に明の衰亡によって数多くの中国僧が日本に流れてきて、禅宗・黄檗宗が伝来し、そのさいに伝わった「素菜」(中国式の精進料理)が原型です。

「普(あまね)く茶を施す」という意味で、仏事の終了後に僧侶や檀家が茶を飲みながら話し合う食事でした。葛と植物油を多く使った濃厚な味で、代表的な普茶料理に精進うなぎや胡麻豆腐があります。

 

C 堀越神社(熊野信仰)

聖徳太子が四天王寺を建立したさいに、叔父の崇峻天皇の遺徳を偲んで創建されました。古くより明治中期まで境内南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名が付けられたといわれています。

 

また平安時代に「蟻の熊野詣」といわれるほど賑わった熊野詣は、京都から船で淀川を下って、渡辺津(現在の天満辺り)にあった九十九王子の第一王子「窪津王子」を詣でましたが、その窪津王子はのちに四天王寺の正門鳥居近くの「熊野神社」にご鎮座され、さらに後に堀越神社に合祀されて「熊野第一王子之宮」として現在に至っています。

ちなみに熊野権現の神使は三本足の烏・八咫烏(ヤタガラス)で、日本サッカー協会のシンボルマークでもお馴染みです。

 

ちょっと横道 茶臼山 

茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳。大阪府指定史跡に指定されている。

古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されている。

公園本体との間には河底池(かわぞこいけ・こそこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)があるが、これは788(延暦7)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われる。

同地を古墳とするかは説が分かれる。古来荒陵、または荒陵山と呼ばれてきた同地は古墳と伝承され、ここから発掘されたとされる石棺蓋が四天王寺に伝わっている。古地図の形状からも追認され、そのため従来前方後円墳といわれてきた。

しかし1986(昭和61)の発掘調査の結果では埴輪や葺石などが確認されなかったことから、「古墳ではない」とする説も現れた。

 

D 庚申堂(庚申信仰発祥の地)

文武天皇の御代(697707・飛鳥時代)のことです。国中に災難や疫病が流行り、世情を憂いた四天王寺の高僧・豪範が天に祈ると、庚申年庚申日に青面金剛童子が現れて「帝釈天が、汝の人の悩みを憐れむ至誠を感じて、除災無病の方便を与えよ、との命で天から降ってきた」と告げました。豪範がさっそく童子を祀ると、疫病が見事に退散して、これが庚申堂の縁起です。

 また庚申信仰とは、もとは中国の民間道教で、古書『抱朴子』(ホウボクシ、葛洪著・283343)によれば、「人の体内には三尸という三匹の虫がいて、庚申の夜に眠っている体から抜け出して、人間の罪過を天帝に告げて、それによって寿命が決められる」とあり、そのために庚申の夜には、三尸が抜けられないように徹夜する習俗が生まれました。

四天王寺庚申堂の縁起に三尸の話は出てきませんが、これは庚申信仰が庶民に広まるにつれて疫病除けという身近な現世利益に変わったことを示すと考えられます。

我が国の庚申信仰の発祥地であり、境内には木彫りの「見ざる」「聞かざる」「言わざる」を祀る「三猿堂」があって、庚申日には開帳され、大勢の参拝客で賑わいます。 

  

E 清水井戸地蔵尊(四天王寺の名水)

天明9(1789)の『摂州大坂地図』に本清水としてこの井戸の所在が示され『摂津名所図会』には「谷の清水、庚申堂の南一丁ばかりあり。清泉にして甘味あり、四天王寺名水のその一つなりという」と記述されています。

清水地蔵尊はいつごろつくられたか不明ですが、明治32(1899)と明治43(1910)の清水改築記念碑が建っています。

 

F 超願寺(竹本義太夫墓所)

創建は推古天皇22(614)で、聖徳太子が、蘇我馬子の末子・慧観を住まわしめたと伝えられています。ここは竹本義太夫の墓所があることで有名です。

 

 

G 四天王寺南門(四天王寺伽藍)

四天王寺は、聖徳太子が建立した日本最古の官寺で、南大門の前には「日本佛法最初四天王寺」と彫りこんだ石柱がたっています。その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式のひとつです。 その源流は中国や朝鮮半島に見られ、67世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされています。

 

H 久保神社(四天王寺七宮)

聖徳太子が四天王寺を造った際に、その守護として造営した四天王寺七宮(大江・上之宮・小儀・土塔・河堀・堀越・久保の7社)のひとつとされています。

昭和20(1945)3月の空襲で鎌倉時代様式の雄大な社を焼失しました。久保神社の久保の地名は窪地の意味で、茶臼山から続く低地であることからきています。

 

境内にある「願成就宮」は、聖徳太子が宮を厚く崇敬して、四天王寺建立をはじめ諸事御願が遂げられたので、太子から「願成就宮」であると讃えられたことに由来すると言います。また、当社は浪速神楽の家元としても知られています。

 

I 清寿院(大阪関帝廟)

正式には黄檗宗「白駒山 清寿院」といいますが、中国との縁が深いので「南京寺」とも称されます。「桃園の誓い」で劉備、張飛と義兄弟となった勇義の英雄・関羽を祀っています。

 

明和元年(1764)に、浄土宗住職・宗円より黄檗僧・大肩和尚が譲り受けて、中国僧・大成和尚が中興開山して、本堂を再建して黄檗宗の寺となりました。

 

拝殿の仏像は華商が寄進したもので、築240年の土蔵造りの貴重な建物です。大成和尚が中国より請来した関帝像も内殿にお祀りしてあります。

 

横浜中華街の関帝廟は明治6(1873)、神戸関帝廟は明治21(1888)創建ですので、それよりも古く、日本でも有数の由緒正しい関帝廟です。

 

J 四天王寺東門

かつて河内・大和からの四天王寺の参拝客を出迎え、伊勢神宮へ出発する巡礼者を見送った四天王寺の東大門です。元和9(1623)に建てられた旧・東大門は国宝指定されていましたが、惜しくも戦災で焼失しました。現在のものは戦後の再建です。

 

ちょっと横道 四天王寺

 

大阪市営地下鉄「なんば」から帰りました。

  

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:13,653歩 距離:9.8km 移動階数:23階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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