←Back

〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.018 御堂さんを偲んで、南へ歩く

〜大坂は本願寺から始まった〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.071

 

大阪の大動脈・御堂筋。その出発は、津村別院と難波別院を結ぶ、細い細い参詣道でした。

この二大御堂のほかに、船場の守護神・御霊神社や、中世に活躍した武家・渡辺党の氏神の坐摩神社、ユネスコの世界無形文化遺産「文楽」ゆかりの難波神社などを巡ります。

  

大阪市営地下鉄御堂筋線「淀屋橋」からスタートです。

晩秋の夕暮れは早いですね。

今日はiPhonで写真を撮るので、明るいうちに廻りきらねば・・・と思い、駆け足ウォーキング?です。

   

@ 大阪ガスビルヂング

昭和8(1933)竣工。設計は建築家・安井武雄で、同氏の最高傑作とも呼ばれ、のちにそごう百貨店を設計する建築家・村野藤吾も「都市建築の美の極致」と絶賛しています。8階にあるガスビル食堂は昭和初期の大大阪のモダニズムの雰囲気を漂わせていて人気です。

 

平成15(2003)には国の登録有形文化財に。また現存する重要なモダニズム建築物として「日本におけるDOCOMOMO100選」にも選ばれました。

83年ですって…そんなに古くは感じないです

ガス灯です。 さすが大阪ガスですねェ〜

   

A 北野家住宅

大阪・船場では数少なくなった木造3階建の町家で、国の登録有形文化財です。

 

昭和20 (1945)の大阪大空襲では、あたり一面が焼け野原と化したのに大阪ガスビルと、この北野家住宅だけは罹災しませんでした。米軍の撮影フィルムにも北野家住宅がぽつんとたたずむ姿が写っていて、「奇跡の家」として、メディアに紹介されたこともあります。

   

B 御霊(ごりょう)神社

その昔、このあたりは大阪湾が深く入りこんで、圓江(つぶらえ)という入江でした。嘉祥3(850)の『文徳実録』には八十嶋祭(天皇の即位儀礼)の祭場として圓神祠が創祀されたとあり、これが神社の始まりとされています。

 

文禄3(1594)に津和野藩主の亀井氏の寄進で、圓江(現在の靱公園・楠永神社) から現在地に遷座して、寛文年間(16611673)に御霊神社と改称しました。船場言葉の御寮人(ごりょんさん=商家の若奥様)と語呂が似ていることから「御霊さん」と親しまれて、山片蟠桃、緒方洪庵、福沢諭吉なども参詣しました。

明治17(1884)には人形浄瑠璃「御霊文楽座」が出来て船場商人の娯楽、社交や商談の場として繁盛しましたが、大正15(1926)、惜しくも火災によって焼失しました。現在は文楽座跡碑が建っています。

 

この碑を探して、境内をグルグルと2周しました。

境内の外側にありました。

 

C 美々卯

「うどんすき」発祥のお店です。堺で200年続いた老舗料亭「耳卯楼」を営む耳家の四男・薩摩平太郎氏が、大正13 (1924)に麺類専門店「美々卯」として開業しました。四季折々の山海の幸を盛り込んだ豪勢なうどんすきは文豪・谷崎潤一郎も好んで食したといわれています。

 

D 創元社

明治25(1892)に書店「矢部晴雲堂」として西区・新町で創業。大正14(1925)に西区靭上通りに移転して出版部門「創元社」を創立しました。谷崎潤一郎の『春琴抄』や、わが国で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成の代表作『雪国』、織田作之助の『夫婦善哉』などを刊行して、大阪を代表する出版社となっています。

 

E 吉野寿司

旅籠屋を営んでいた初代・吉野屋嘉助氏が天保12(1841)に開業。当時の上方では木型を使って作る押し寿司が普及していましたが、ネタはサバやアジ、サンマといった大衆魚でした。そこで三代目店主・吉野屋寅蔵氏がタイやエビ、アナゴといった高級魚の押し寿司「箱寿司」を考案。たちまちのうちに船場の旦那衆のあいだで人気となりました。「二寸六分の懐石」と呼ばれて、船場を代表する名物料理となっています。

 

F 北御堂(津村別院)

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、津村別院ともいいます。明応5(1496)、本願寺第8代宗主・蓮如上人が大坂・石山の地に御坊を建てました。御坊を中心に寺内町が形成され、大坂の町は発展しましたが、織田信長との石山合戦(15701580)によって門徒は石山を退去。天満に近い「楼の岸」に新坊舎を建立しました。その後、豊臣時代の慶長2(1597)に津村(圓江=つぶらえが訛ったもの)の現在地に移りました。

明暦元年(1655)には朝鮮使節団の旅館となり、朝鮮外交の一役を担ったり、明治元年(1868)には地方官庁として大阪鎮台が置かれて、明治天皇の行在所にもなりました。

 

初めて中に入ってけど、大きなお寺ですねぇ〜

  

G 南御堂(難波別院)

文禄4(1595)に秀吉から寺地を寄進され、本願寺第12代・教如上人(15581614)が大坂・渡辺の地に「大谷本願寺」を建立。その後、慶長3(1598)に現在地へ移転しました。境内には文禄5(1596)鋳造の大谷本願寺銘の梵鐘が残っています。

正徳4(1714)には、幕府から大坂城の外堀の石垣の寄進を得て、大規模な地盛りをして二重屋根の本堂を建立しました。また元禄7(1694)に俳聖・松尾芭蕉が大坂へやってきましたが、体調を崩して南御堂近くの花屋仁左衛門の貸座敷にて客死しました。南御堂には芭蕉の辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」の句碑があります。

 

こちらも、どでかいお寺です。北御堂より大きそうです。

大谷本願寺銘の梵鐘

芭蕉の辞世の句碑

  

H 坐摩(いかすり)神社

ざま神社とも言います。神功皇后が三韓征伐から帰還したさいに、淀川河口の渡辺の地に坐摩神を祀ったことが神社の始まりとされています。『延喜式神名帳』(927)では摂津国西成郡唯一の大社で、住吉大社と同じく摂津国一宮を称しています。

渡辺の地は平安後期には嵯峨源氏の渡辺綱が住んで、子孫は渡辺党と名乗り、瀬戸内海の水軍の棟梁となりました。天正11(1583)、大坂城築城のさいに現在地に遷座しましたが、江戸時代には門前市が形成されて賑わい、「坐摩の前の古手屋」として上方落語「古手買」「壺算」などにも登場します。門前市からは「そごう」なども生まれました。

  

I 難波(なんば)神社

反正天皇が河内国丹比(現在の松原市)に柴籬宮(しばがきのみや)を開いたときに、父帝・仁徳天皇をご祭神として創建したと伝えられます。天正11(1583)に現在地に遷座しました。文化8(1811)には、2世・植村文楽軒がここで人形浄瑠璃の芝居「稲荷の芝居」を始めました。

天保の改革(18411843)で宮芝居が禁止される受難もありましたが、安政3(1856)3世・文楽軒の手によって興行を復活。小屋は明治5(1872)に九条・松島新地に移転しますが、そのすきに明治17年に難波神社で「彦六座」が開場。人気を集めたために、文楽座は御霊神社に移って「御霊文楽座」として対抗しました。ユネスコが認定する世界無形文化遺産「文楽」ゆかりの地として、「稲荷社文楽座跡」の石碑があります。

 

J 三木楽器・開成館

文政8(1825)に書籍業「河内屋佐助」として創業。のちに楽器部を創設して、大正14 (1925)に創業100年記念として開成館を建てました。茶褐色のタイル貼りの建物で、中央玄関のステンドグラスが美しいと評判です。平成9(1997)には国の登録有形文化財に指定されました。

 

大阪市営地下御堂筋線「心斎橋」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:10,055歩 距離:7.4km 移動階数:14階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

←Back No.017

Next No.019

 ←Back