〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜 No.017 浪速の義侠・木津の勘助、奔(はし)る! 〜巨大獅子殿から名勝の枯山水まで〜 |
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■木津勘助(本名・中村勘助)は、慶長から元和にかけて活躍した土木技術者で、木津川を開削して勘助島(現・浪速区大国町)を開発しました。幕府からも非常に重用されましたが、寛永16年(1639)に大坂が冷害で大飢饉となったさいは、私財を投げうって村人に分け与え、それでも足らないということで、命がけで大坂城の備蓄米の「お蔵破り」を決行して、飢饉に苦しむ人々を救済しました。
■「浪速の義侠」と呼ばれて、大坂庶民の英雄となった勘助ですが、その勘助の銅像がある大国主神社や、墓所の唯専寺など、勘助のゆかりの地を訪ね歩きます。 |
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■大阪市営地下鉄四つ橋線「なんば」からスタートです。 |
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@ 瑞龍寺(鉄眼寺) ■元は難波村の薬師堂でしたが、寛文10年(1670)に黄檗宗の僧・鉄眼道光和尚を招いて中興開山し、延宝4年(1676)に慈雲山瑞龍寺と改号しました。鉄眼和尚の徳の高さから、鉄眼寺とも呼ばれています。 |
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■鉄眼和尚(1630〜1682)は肥後国の生まれで、当初は浄土真宗を学びましたが、明暦元年(1655)に隠元隆gに参禅して禅宗に帰依。寛文4年(1664)に『大蔵経』の刊行を発願し、全国行脚して施財を集めますが、2度、洪水や飢饉による大坂難民の救済に施し、3度目に集めた浄財で、ようやく一切経の木版6,956巻32万頁を完成させました。 延宝6年(1678)のことで、「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」と、その偉業を讃えられ、昭和4年(1929)には昭和天皇より宝蔵国師の名を下賜されました。境内には「鉄眼禅師荼毘処地」の碑があります。 |
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A 難波八阪神社 ■創建年代は不詳ですが、社伝によれば、仁徳天皇の御代に難波郷に悪病が流行して、牛頭天王を祀ったのが神社の始まりで、「難波下宮」と称されて、難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久年間(1069〜1074)には牛頭天王の古社として知られ、寛文元年(1661)には後陽成天皇の第八子・重雅親王直筆の縁起書を賜わっています。もとは神仏混交でしたが、明治5年(1872)の神仏分離により、郷社となりました。 |
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■ご祭神・素戔鳴尊が八岐大蛇を退治して、民の困苦を除いた故事に基づいた綱曳神事は、『摂津名所図会』にも紹介されて、平成13年(2001)には、大阪市初の無形民俗文化財に指定されました。高さ12メートル、幅11メートル、奥行10メートルという巨大な獅子舞台でも有名です。 |
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B 篠山神社(難波八阪神社境内社) ■難波八阪神社の境内社で、大坂代官・篠山十兵衛景義(1755〜1818)を祀っています。十兵衛は誠実謙虚な人柄で、淀川の治水、物価の安定化から夫婦喧嘩の仲裁まで心を配った名代官です。難波や木津辺りは野菜類の栽培が盛んでしたが、当時、野菜売買は天満青物市場が独占していて、不平不満が高まっていました。そこで十兵衛が尽力した結果、文化7年(1810)、木津村に市場開設の官許が出て、これが現在の大阪木津地方卸売市場で、十兵衛は木津村発展のきっかけを作りました。 |
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■代官を辞めるさいは住民から留任嘆願書が老中に提出されましたが、大坂を離れることになり、木津の人々は報恩の気持ちを込めて、十兵衛を生きたまま神として祀り、それが現在の篠山神社です。
■神社の隣には「世の中の あふぐも たかき 功こそ 巌とともに 朽ちせざりけれ」(世人が仰ぎ見るほどの功績で、この石碑とともに朽ちることはないだろう)の歌碑が建っています。 |
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C 勘助橋 |
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■本名・中村勘助。天正14年(1586)相模国(現・神奈川県)に生まれて、豊臣秀吉に仕え、大坂城築城のさいは堤防工事や新田開発を請負い、たいへん重用されたと言います。また徳川時代にも、川崎の東照宮普請や河川御用係として活躍し、木津川の開削により大坂の発展に寄与しました。
■勘助橋は、その勘助が架けた橋の跡地で、石碑の側面には「橋はなくとも 勘助橋は 渡りますぞえ いつまでも」の俗謡が彫られています。 |
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D 「折口信夫生誕の地」の碑と文学碑 ■民俗学者の折口信夫は、明治20年(1887)に、医師・折口秀太郎の四男として、西成郡木津村市場筋に生まれました。民俗学者・柳田國男の影響を受けながらも、「マレビト」「ヨリシロ」といった独自の研究成果は、民俗学の新境地を開いたものとして「折口学」と呼ばれて、高く評価されています。 |
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■釈迢空という筆名で、歌人としても活躍しました。昭和28年(1953)に亡くなり、願泉寺に分骨埋葬されています。市制70周年記念として碑が建立され、昭和58年(1983)には「十日戎」の一文を刻んだ文学碑が建てられました。 「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」 「正月がすむとすぐ十日戎である 今宮の戎前から難波の入堀川に面したお藏跡まで十丁あまりの間に ずつと子寶店その外の店が出て 揉み返すやうな人ごみである 其中を壓され壓されて來る色町のほい駕籠を見に出た記憶が消えない」 |
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E 敷津松之宮・大国主神社 ■神社の由緒略記によれば、神功皇后が敷津浦を航海するさいに荒波がうちよせるのを見て「これ以上、潮が満ちないように」と松の木を3本植えて航海の安全を祈ったことから「松之宮」と呼ばれたとあります。また延享元年(1744)に神託があり、出雲杵築大社の御神霊を勧請して、大国主神社が建てられました。 |
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■古くより「今宮の戎さん」(今宮戎神社)と並んで「木津の大黒さん」と親しまれ、初詣や十日戎まいりにも「戎、大国、両社詣って本まいり」と、江戸時代からの参詣風習が根強く残っています。ちなみにご祭神の素盞嗚尊と大国主命は親子の関係となります。 |
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F 木津勘助銅像 |
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■敷津松之宮・大国主神社境内にあります。秀吉に才能を認められ、徳川時代にも木津川の開削などで土木技術者として活躍した木津の勘助ですが、彼の名を一躍有名にしたのは、寛永16年(1639)に大坂が大飢饉となったさいに、私財を投じて村人に米を分け与え、それでも足らないので、大坂城の備蓄米の施しを願い出ましたが聞き入れられず、ついに「お蔵破り」を決行して、大坂庶民を救ったことです。
■結果として勘助は捕まって葦島(現在の大正区)に島流しとなり、万治3年(1660)、75歳で亡くなりますが、その生きざまは、歌舞伎、文楽、講談、落語、浪花節、江州音頭、河内音頭などの格好の題材となり、浪速の義侠・木津の勘助の名を不朽のものとしました。
■また勘助の妻は豪商・淀屋辰五郎の一人娘・お駒で、墓参りの帰りに袱紗包を拾ったことが由縁で結ばれるというエピソードも有名です。墓は唯専寺にあります。 |
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G 唯専寺 |
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■用明天皇(在位585〜587年)の時代に、天種子命(あめのたねこのみこと・中臣氏の遠祖)の子孫・迹見赤摂(とみいちひ)が、木津浦に草庵を構えたのが起こりと伝えられ、その後、三十三世光重が蓮如上人の弟子となり、明応7年(1498)に坊舎を建立、天正7年(1579)に唯専寺の号を授与されました。
■本願寺と織田信長との石山合戦のさいの功績により、明治44年(1911)に本山から由緒寺として認められました。境内には寛永14年(1637) 鋳造の梵鐘や木津勘助の墓があります。 |
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H 願泉寺 ■小野妹子の八男・多嘉麿義持(法名:聖伝院永証)が推古11年(603)に創建し、はじめは無量寺院と称していました。当時は西北数百メートルの場所にありましたが、応仁の乱により焼失し、永正4年(1507)に現在地で再建しました。 |
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■江戸時代は、紀伊徳川家の参勤交代の陣屋となり、徳川家より三ツ葉葵の寺紋を許されています。かつて伊達政宗が寄進した客殿・茶室が国宝としてありましたが、惜しくも戦災で焼失しています。 |
■京都の作庭家・相阿弥の作とされる庭園もあって、こちらも樹木などが焼失するも現在は復元され、大阪府名勝指定です。また江戸末期の争乱で四天王寺舞楽が衰退したさいに、願泉寺住職・小野樟蔭師が尽力して創設したのが天王寺楽所「雅亮会」で、その練習場、事務所にもなっています。ほかにも折口信夫の墓があり、また茶室・相應庵があって、武者小路千家の茶道教室なども定期的に開かれています。 |
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■大阪市営地下鉄御堂筋線「大国町」から帰りました。 |
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★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:11,966歩 距離:8.2km 移動階数:17階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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