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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.016 近代紡績は三軒家から始まった!

〜中村勘助の島から化粧地蔵、木津川水門まで〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.027

 

『摂津名所図会』に「千石・二千石の大船、水上に町小路を作りたる如く舳先には船の名、家々の紋付けて其国をしらせ、風威の順不同・潮時の満干を考えて出帆あり着船あり」と記された三軒家。

木津川口遠見番所跡や大正橋、松筒自動車学校跡など、数多くのドラマが眠っています。そんな三軒家界隈を歩いてみましょう。

  

JR環状線「大正」からスタートです。

   

@ 木津川口遠見番所跡

当地はかつて姫島と呼ばれていましたが、義民として名高い中村(木津)勘助が、慶長15(1610)に豊臣家のために軍船係船所の建設や船着場の整備等を行い、その功により勘助島と名付けられました。

その後、宝永5(1708)に幕府が木津川口遠見番所を当地に設けると諸国の船で賑わって木津川は大坂経済を支える大動脈となり、朝鮮通信使の船なども出入りしました。

また西方には幕府の官船等を収容する「御船蔵」(岩崎橋公園附近)がありました。

このプレートだけ?…のようです。

これは関係なさそうです。

   

A 大正橋

大正4(1915)に市電開通とともに架橋。当時は日本最長のアーチ橋で区名の由来にもなりました。その後、昭和49(1974)に新橋が完成。下流側の高欄にベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされています。

丸い大正橋の碑

歩道はピアノの鍵盤、側石はメトロノーム、欄干は五線紙の音符・・・洒落ているね〜♪

大地震両川口津浪記

1854年の安政南海地震の後に発生し大阪を襲った津波の被害と教訓を記したもので、碑文には「嘉永7(1854)614日午前零時ごろに大きな地震が発生し津波がおしよせた。被害状況は・・」と具体的な被害状況を述べ「地震が発生したら津波がくることを心得ておき、舟での避難は絶対してはいけない。また建物は壊れ火事になる。なによりも「火の用心」が肝心、津波というのは沖から波が来るだけではなく、岸近くから吹き上がってくることもあり、津波の勢いは、普通の高潮とは違う」と細かい注意を書きのこし「つたない文だが、ここに書き残す。願わくば、心ある人は、文字が読みやすいように

毎年墨を入れなおし、後の世に伝えていってほしい」と刻まれており、記述どおり地域の有志によって毎年墨入れが行われています。

 

JR環状線の四角い鉄橋です。こんな形状の鉄橋は初めて見たような気がする。

   

B 勘助島の渡し碑

大浪橋のたもとにあります。正面に「わたし 勘助島」。右面に「すくちかみち なんば 今宮天王寺 住吉 あミ田池(阿弥陀池のこと) 道頓堀」といった地名が刻まれています。かつての渡し船の場所で、勘助島と難波島を繋いでいました。

   

ウォーキングコース外ですが、大浪橋の反対側に「早渡海附場所碑」があります。

江戸時代、大坂における五合船などの舟の積荷を降ろした場所であり、泉州の舟がこの辺りから大坂市中の川にそのまま入ると、木津川の上荷方や廻船問屋が商売にならないので、ここで舟を留めさせ積み荷を大坂の上荷舟に積み替えるか、陸路を運搬するかのどちらかにさせたそうです。

 

C 上八坂神社(中村勘助之碑)

中村勘助は天正14(1586)、相模(現・神奈川県)で生まれ、父は大藩の重役でしたが武士を嫌って土木技術者に。慶長1 5(1610)に木津村(現・浪速区と西成区)に移住して豊臣家に仕え、三軒家の軍船所建設に協力しました。私財を投じて堤防を築き、新田を拓いた功績で勘助島と名づけられ、寛永7(1630)には木津川開削に貢献して、白米五合の入港料徴収を幕府から許可され、これが大坂における五合船の始まりとされています。

寛永18(1641)の大飢饉では、役人に蔵を開くよう訴えますが埒があかず、妻子と別れて困窮した農民と一緒に蔵破りを決行。自らの命をなげうって人々を救い、自首しました。一時は死罪が決まりましたが、庶民の助命嘆願が絶えず勘助島に島流しに。その後も三軒家上之町に上八坂神社を勧請したり、田地を寄進(これが後に敷津・大国両小学校等の建設費の基金を生むことに)したりと、地域に多大な功績を残しました。上八坂神社には勘助を称えた「中村勘助之碑」があり、今も地域住民たちから強く尊敬されています。

 

D 松筒自動車学校跡

大正8(1919)、当時24歳だった松本由太郎氏と友人の筒井氏が、やがて誰もが自動車を自分で運転する時代が来ると、松筒自動車学校の前身「松筒自動車同好会」を開設。当時は道幅も狭く、大阪府内の自動車はわずか350台ほどで、日本の自動車教習所の草分け的存在でした。

アメリカから取り寄せた本を翻訳してテキストを作り、修理屋もいないので故障したら運転者自身が修理する必要があり、自動車の構造学、電気学などもカリキュラムに含まれていました。運転実習は中古のフォード車で、実習に出ると黒山の人だかりができたといいます。また当時の自動車運転免許試験は自動車を持ち込んで試験を受ける必要があり、松筒自動車学校はフォード車の時間貸しも行っていました。これが日本のレンタカーの始まりとする人もいます。歴史ある松筒自動車学校でしたが残念なことに2000年に閉校してしまいました。

 

E 難波島パネル・百済橋跡

かつてこのあたりは難波島と呼ばれ、江戸初期の大坂の名所案内『芦分船』には「(難波島は)難波につづきたる所也。昔日難波の住人ひらきし所なれば此島の名とするにや」とあり、船造りの挿絵が掲載され、また『摂津名所図会大成』には「此地船大工職多く常に海舶を作事す」とあります。

木津川交通の要衝として発展して北前船が着船し、二十石積の上荷船が86艘あり、大正中期には造船所15社が集中して、現在も工場群となっています。百済橋は難波島西の三軒家川にあったものですが、川の一部が埋め立てられたさいに廃橋になりました。

 

F 近代紡績工業発祥の地碑

明治16(1883)、渋沢栄一や藤田伝三郎らが出資した大阪紡績会社が三軒家村で操業を開始。我が国初の近代紡績工業で、明治19(1886)には夜業のために発電機を購入して工場全体が不夜城のように浮かびあがり、全国各地から電灯の見学者が殺到するほどでした。その後、当地を中心に数多くの紡績、繊維会社ができ、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、昭和6(1931)には他社と合併して世界最大の紡績会社に。しかし戦争激化とともに軍需工場に転換させられて、昭和20(1945)3月の大空襲で焼失しました。

 

春になると桜並木がきれいでしょうね

ずいぶん古そうな建物・・・吞海寺

G 下八阪神社

寛永2(1625)に、三軒家地域の開拓者らが建立しました。大正地区で最も早く、この地の守護神として素戔嗚尊を勧請したと伝えられています。向かいの呑海寺は、寛文10(1670)の台風で地域が壊滅状態になったときに浜に菩薩像が打ち上げられ、それを寛文12(1672)に安置したのが起源と伝わります。「浪除観音」として厚く敬われています。

これは何だろう・・・

スフィンクスかもしれない・・・

  

H 化粧地蔵

化粧を施された大阪市内でも珍しいお地蔵さんです。元は川沿いにありました。このお地蔵さんのおかげで戦災のさいも被害に遭わなかったと地域住民の方は厚く敬っています。一体の銘には寛保2(1742)とあって260年以上の長きに亘って、地域を眺め続けてきた、歴史の生き証人のお地蔵さんです。

  

I 木津川水門

木津川にあるアーチ型水門。設計は栗本鐵工所で、竣工は昭和45(1970)です。台風などで押し寄せてくる大阪湾からの高潮をせき止める働きを持っています。一般的な水門で使われるローラーゲートでは通行不可の大きさの船舶を通すためにアーチ型が採用されました。大阪には木津川水門以外にも、同型の水門として安治川水門と尻無川水門などがあります。

横から見た水門

水門施設の隣に「栗本鐵工所発祥の地碑」

 

J 落合上渡船場

大阪市では現在8本の渡船があって、通勤、通学、買い物などで地域住民の大切な足となっています。木津川には4本の渡船が運航していますが、落合上渡船場はそのうち最も上流にある渡船場で、大正区千島1丁目と西成区北津守4丁目を結んでいます。岸壁間は約100メートルで、平成20(2008)度調査では1日平均540人が利用しています。

乗ってみたかったけど先を急いでいるのでパス

対岸にはすぐに着きます。

 

K 昭和山

かつて昭和山界隈は貯木場や製材工場が建設されて木材工業の町でしたが地盤沈下の影響で、1960年代に貯木場は平林(住之江区)に移転。そ

の跡地に「港の見える丘」として造営されました。昭和45(1970)の大阪万博に向けて大阪市営地下鉄の整備工事が急速に行われていて、その残土約170万立方メートルを使用しています。同年1130日に記念植樹式がおこなわれ、「昭和山」と命名を発表。その後、山の周囲約11.2ヘクタールを整備して昭和51(1976)に千島公園が開園

しました。ツツジ約5万本やソテツをはじめとした亜熱帯植物が植えられています。標高33メートルで、築山当時は大阪市で最も標高が高い山でしたが、鶴見緑地内に鶴見新山が建設され、大阪市内最高峰の座を鶴見新山に譲りました。現在では大阪市で2番目に標高が高い場所です。

あれが「昭和山」だ!

天保山よりハードです。

山頂です

「港の見える丘」っていうけど・・・見えません

 

千島団地 昭和40年代に建てられた大阪を代表する大規模団地だそうです。

 

ゴールの大阪市営バス「大正区役所前」です。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:13,582歩 距離:9.7km 移動階数:19階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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