〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜 No.014 近代大阪の未来は西にあり! 〜大坂一の魚市・雑喉場から江之子島政府まで〜 |
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■明治7年(1874)、江之子島に2階建て煉瓦造りのルネッサンス様式の初代大阪府庁舎が竣工しました。川口居留地に近く、西欧の文物・制度を移入するため、また大阪は将来、西に向かって発展すると予想されたためで、当時、大阪庶民は「江之子島政府」と呼びました。 |
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■大阪市営地下四つ橋線「本町」からスタートです。 |
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@ 信濃橋洋画研究所跡碑 |
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■まち歩きがはじまって、いきなり石碑があります。
■大阪に香り高い文化を根づかせようと、大阪出身の洋画家小出楢重・国枝金三・鍋井克之らが中心になって、大正13年(1924)に開設された信濃橋洋画研究所は、理論と実技を組み合わせた特色ある教育を行い、多くの専門画家を輩出しました。
■その後、研究所は昭和6年(1931)中之島に移り、中之島洋画研究所と改称しましたが、昭和19年(1944)戦争激化に伴い閉鎖されました。 |
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A 大塩平八郎終焉の地碑 ■大塩平八郎(1793〜1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われました。
■天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起しました。乱後大塩父子は、この地に隣接した靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏しましたが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てたとされます。 |
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B 靭(うつぼ)公園 |
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■靭塩干魚市場の跡地にあたります。太平洋戦争後、占領軍に接収されましたが、昭和27年(1952)の講和条約で大阪市に返還され、その後、公園として整備されました。
■まるでニューヨークのセントラルパークのような、都会のオアシス!・・・行ったことないけど。 |
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C 大阪科学技術館 |
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■「科学技術でひらこう、地球のあした」をテーマに、最新の科学技術を展示しています。私たちのくらしの中に生かされているエネルギー、エレクトロニクス、バイオテクノロジー、地球環境など、さまざまな分野の最新の科学技術をクイズやゲーム、マルチメディアで楽しく学べます。
■敷地は五代友厚の屋敷跡です。 |
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D 梶井基次郎碑、飛行場跡説明碑 |
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■梶井基次郎は、明治34年(1901)、旧西区土佐堀通5丁目生まれで、旧制北野中学在学時に靭に住んでいました。東京帝国大学在学時に同人誌『青空』を創刊、代表作『檸檬』を発表。公園には『檸檬』の一節が刻まれた石碑があります。
■戦後、米軍に接収された時代には、小型機発着空港として利用されたので、その説明碑もあります。
■もともと占領軍の飛行場跡地を失業対策で公園に。 それを示すのは、この小さな石碑だけ。 |
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E 楠永(くすなが)神社(御霊神社元宮) |
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■2本の楠(樹齢300余年)が主神です。かつて楠を伐採しようとしましたが、けが人が相次ぎ、お祓いをしました。その際に白い蛇が出てきたので、この木は神木なので切ってはいけないとして、今にのこりました。
■楠永神社が鎮座する前は御霊神社の元宮がありました。御霊神社は800年代後半の創建と伝えられますが、文禄3年(1594)に津和野藩主・亀井氏の寄進で、北船場・淡路町に移りました。
■御神木の楠の大きさに圧倒されます。 |
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F 永代浜跡 |
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■靭本町付近にあった海部堀川の荷物陸揚げの便を良くするために開削した約724メートルの堀を永代堀といい、阿波堀川からの屈折点あたりを永代浜と称しました。海産物の荷揚げ・鰹節の専門市場として靭の中心となりました。 |
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G靭海産物市場跡 |
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■干物や塩干魚、鰹節など生魚以外の海産物を売買する市場です。17世紀後半から大坂周辺の農村では商業的農業が発達し、干鰯(ほしか)は肥料として取引されました。享保9年(1724)には干鰯俵数140万俵という記録もあります。 |
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H 中国総領事館 |
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■大正式名は中華人民共和国駐大阪総領事館で、中国と日本・大阪の窓口となっています。旅券査証の発行や政治経済交流が主ですが、近畿と中国・四国を管轄としています。川口居留地の貿易では、華商の手を借りることも多く、こうした誼から昭和60年、豊中市千里から当地に移転しました。
■屋上に赤い国旗が掲揚されている建物です。 周囲に大阪府警の警官が配置されています。 近くでの写真撮影を控えて通り過ぎました。 |
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I 雑喉場(ざこば)魚市場跡 |
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■江戸時代にはこのあたりは雑喉場町といい、面積3130余坪(サッカー場約1面)を擁する西日本最大の生魚市場でした。
■堂島米市場・天満青物市場とならび、近世大坂の三大市場と称され、安永元年(1772)問屋株が免許されると、独占的地位が認められました。昭和6 年(1931) 、大阪市中央卸売市場に吸収合併されました。 |
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J雑喉場橋跡 |
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■雑喉場市場の百間堀川に架かっていた橋です。昆布佃煮の老舗「神宗(かんそう)」は、かつて雑喉場橋東詰で商いを営んでいました。
■神宗・淀屋橋店には当時の雑喉場商人の気質を守りたいと、雑喉場橋の親柱が、今でも保存されています。 |
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K 旧大阪市役所江之子島庁舎跡 |
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■明治22年(1889)4月、市制導入により大阪市が誕生しました。府知事が市長を兼務し、府庁内に市役所が置かれましたが、同32年(1899)、府庁の北側・木津川東詰に市役所を移転しました。庁舎は木造2階建てで、同45年(1912)、堂島庁舎に移転するまで存続しました。 |
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L 木津川橋碑 |
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■慶応4年(1868)に架けられました。外国人の居留地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だった江之子島を結んだ橋は、大阪と海外を結ぶ架け橋にもなりました。
■ここから先(木津川橋の川向う)は「川口居留地」です。 |
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M 旧大阪府庁 江之子島庁舎跡 |
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■明治7年(1874)に西町奉行所(現・中央区本町橋)にあった大阪府庁が当地に移転しました。川口居留地に近く、西欧の文化制度を移入するに好適だったことと、大阪は将来、西に向かって発展すると予想されたためで、府民は「江之子島政府」と呼びました。 |
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N 天満宮神幸御 |
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■上陸地碑天神祭のクライマックス、船渡御は、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、今は大川上流に向いますが、明治期から昭和初期までの渡御コースは、大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸後、陸路、松島の天満宮行宮の御旅所を目指す船渡御、陸渡御列だったようです。
■よく見ていないと見過ごしそう。 生活に溶け込み過ぎています。 |
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O 阿波堀川跡碑 |
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■阿波堀川は阿波座堀川とも呼ばれ、西区にあった堀川の中ではもっとも古く、慶長5年(1600)に開削され、西横堀川から分流して西に流れ、百間堀川に流入していました。昭和31年(1956)9月、大阪府の防潮堤工事などのため全部埋め立てられました。 |
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■ちょっと寄り道 |
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■大阪市営地下鉄千日前線「阿波座」から帰りました。 |
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★ 【今日のアクティビティデータ】 歩数:10,970歩 距離:7.9km 移動階数:14階
※この記事のマーカー「■」以降は、ガイドマップからの転載です。 |
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