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~~~ くらさんの大阪うぉーきんぐ ~~~

No.013 若者文化の発信拠点・アメリカ村を歩く

~アメリカ村誕生と発展の歴史を探る~

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.023

 

かつては三津寺村と呼ばれ、江戸時代には銅吹商が数多く集積し、世界有数の産銅国・日本の主要輸出産業を支えました。

昭和に入ると「アイビーブーム」で有名なヴァンヂャケットが創業。その後、倉庫を改造したアメリカ輸入雑貨店やサーファーショップが出店を始めました。

知っているようで知らない、アメリカ村の歴史と文化を訪ねてみましょう。

  

大阪市営地下四つ橋線「四ツ橋」からスタートです。

  

① 四ツ橋駅

かつては西横堀川と長堀川が交差し、北から時計回りに上繋橋・炭屋橋・下繋橋・吉野屋橋が井字形に架かって四ツ橋と呼ばれ、風光明媚な浪花名所として賑わいました。 橋上の夕涼みは、町民たちの夏の楽しみで、小西来山は「涼しさに 四ツ橋を四つ わたりけり」という句を残しています。

日本初の公営電鉄・大阪市電が明治41(1908)に第2期線として東西線(九条中通一丁目~末吉橋間)と南北線(大阪駅前~恵美須町、渡辺橋~大阪駅前間)を開業。当時、唯一の交差点がこの四ツ橋交差点で「線路も交差点、水は十字に流れたり・・・」と「電車唱歌」に歌われ、見物人が押しかけたといいます。

 

四ツ橋より西の長堀川川岸は「材木浜」と呼ばれ、材木問屋が軒を連ねました。

  

② 旧町名継承碑 北炭屋町

もとは三津寺村の一部で、元和年間(16151624)に大坂三郷の南組に編入されました。明暦元年(1655)の水帳には、炭屋町の町名が見受けられます。

三方を西横堀川、長堀川、道頓堀川に囲まれて水運がよく、西横堀川沿いに銅吹屋や炭・薪問屋が集積し、炭仲仕の寄場が立地したことが、町名の由来といわれています。

 18世紀に入ると鉱山埋蔵量の減少から銅産業は斜陽化し、次第に材木屋などの倉庫街、島之内中心街の居住地街としての性格を強めていきます。 

  

③ 大坂屋銅吹所跡

17世紀、日本は世界有数の産銅国となり、銅は最も主要な輸出品でした。その銅の生産と流通を独占したのが長堀川・西横堀川沿いに集中していた大坂の銅吹商で、生産量は鰻谷の住友銅吹所が一位、炭屋町の大坂屋銅吹所が二位を占めていました。

 

大坂屋が独占した秋田阿仁銅山の銅は、宝永年間(17041710)には全国一の生産量を誇り、北前船で越前国敦賀まで運ばれ、いったん陸揚げされて、その後再び舟で琵琶湖から淀川を南下して、大坂屋まで運送されました。

住友財閥の礎となる別子銅山は、大坂屋経営の伊予国立川銅山で働いていた大坂屋使用人の切場長兵衛が、立川銅山に隣接する別子山に銅鉱が連鎖しているのを住友家に告げて、幕府の開坑認可を住友家が請け負ったことから始まります。 慶応3(1867) 、徳川幕府終焉と共に、大坂屋はすべての事業から撤退しました。 

  

④ ヴァンヂャケット創業の地

東京オリンピックの日本代表選手団の赤い公式ブレザーや、サンケイアトムズ、国鉄、警視庁、日本航空のユニフォームをデザインするなど、メンズファッションの神様とまで呼ばれたヴァンヂャケット創業者の石津謙介が、その前身である石津商店を昭和26(1951)に創業した地が、この大阪市南区北炭屋町14番地です。

1960年代には、若者達の間に「アイビーブーム」と呼ばれた爆発的なブームを起こし、「みゆき族」や「アイビー族」といった流行現象にとどまらず、その後の若者のライフスタイルや思想にまで大きな影響を与えました。「アイビー」とは、アメリカ東海岸の名門8大学グループ「アイビー・リーグ」の精神やファッションのことで、アメリカのライフスタイルを日本に普及させたヴァンヂャケットがこの地に創業したことは、その後炭屋町がアメリカ村と呼ばれることになる過程に、少なからず影響を与えています。

  

⑤ 喫茶店「LOOP」跡

昭和44(1969)、後に「アメリカ村のママ」と呼ばれた日限萬里子が、「夜遅くにおいしく熱いコーヒーが飲めるところが欲しい」と開店。当時の炭屋町は、まだまだ木材加工業の倉庫が並び、夕方を過ぎると汐が引くように閑散となるまちでしたが、「LOOP」開店後はサーファーやデザイナーなど、ファッションに敏感な若者が多く出入りするようになり、次第にアメリカ、特に西海岸から持ち帰った古着や中古レコードなどを商品として、倉庫を改造したアメリカ輸入雑貨店や、サーファーショップが三角公園を中心に増え始めました。1976年、閉店しました。

  

⑥ 御津公園(三角公園)

北堀江通と周防町筋の食い違いを矯正するために、明治以降に斜行道路が通されて、三角形のスペースが生まれました。戦時中は防火水槽や飯場が設置されていましたが、戦後には児童公園となった後、周辺のまちの雰囲気に合わせて改修され、現在のデザインになりました。

 

ミュージシャンやアーティストなど若者のパフォーマンスイベントが催されるなど、大阪一有名な街区公園と言えるでしょう。

 

⑦ パームス跡(浅尾ビル)

昭和53(1978)、日限萬里子が開業。地下は「パームス・ディスコ」、1階は「パームス・カフェ」、2階は「パームス・バー」で、大阪のディスコブームの火付け役となり、日本全国のカフェバーブームの先駆にもなりました。

 

パームスの成功でアメリカ村の来街者数も大幅に増加しましたが、日限萬里子はクラブ「LIFE(南堀江二丁目・1987年開店)など、アメリカ村より更に西の、堀江に店を構えていきます。 

 

⑧ ミュゼ大阪

平成10(1998)、日限萬里子が開店しました。近世の堀江界隈は水運の便から材木業が発達して、家具の製造・販売業者が多く集積していましたが、高度成長期以降は、市民の郊外転居や郊外の大型家具店の登場で寂れていました。

 

しかし「ミュゼ大阪」の出店を契機にして、周辺の家具屋や倉庫がブティックやカフェに変貌、お洒落な大人のまちとして賑わうようになりました。

  

⑨ 心斎橋BIG STEP

大阪市立南中学校(廃校)跡地です。大阪市の土地信託事業として1993年に建設。衣料店・レストラン・ライブハウスから映画館・スポーツクラブまで備える複合商業施設です。

 

2007年に不動産投資会社「パシフィックマネジメント」へ売却、現在は阪神電鉄子会社の大阪ダイヤモンド地下街が運営しています。

地階から7Fまでが吹き抜けで、巨大階段が若者達の休憩スポットとして利用され、またこの階段をアレンジして、ライブやファッションショーといったイベントが催されるなど、アメリカ村のランドマークとして賑わっています。

  

⑩ ピース・オン・アース(壁画)

道頓堀出身のイラストレーター黒田征太郎と、阿倍野出身のグラフィックデザイナー長友啓典が、1983年に制作。いま、まさに羽ばたこうとしている翼を広げた鳥人と“地球に平和を(PEACE ON EARTH)”という言葉が壁一面に描かれています。

 

⑪ 御津八幡宮

島之内西半分の産土神です。宮の正門前の東西の道は「八幡筋」といわれています。創始については、仁徳天皇が難波に都をおいた頃に味原の郷にあったのを後世ここに奉祀した説、天平21(749)の大仏殿建立で宇佐八幡の神輿が平城京に遷幸されるさいに難波の御津に上陸して祀った説、石清水八幡宮の荘園が難波の地におかれた時代(10691220)に創建された説などがあります。

また遣唐使船が船出をしたという難波津が当社付近という謂われや、織田信長の「石山本願寺」攻めで攻撃を受けるなど、古くから交通の要所であったことは間違いありません。昭和20(1945) の大阪大空襲で社殿が焼失し、現在の社殿は昭和35(1960)に再建されたものです。

  

ちょっと寄り道

大阪市営地下鉄御堂筋線「心斎橋」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:9,243歩 距離:6.6km 移動階数:10階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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