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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.012 名宰相・幸村と十勇士が駆けた大坂の陣

〜真田丸跡碑から真田の抜け穴まで〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.131

 

大阪城の南に位置する玉造・真田山界隈。ここは大坂の陣の激戦地で、豊臣方の武将で名宰相といわれた真田幸村が出城・真田丸を築き、押し寄せる徳川の大軍をことごとく撃破したといいます。その胸のすくような大活躍ぶりは後年、立川文庫『猿飛佐助』や、真田十勇士の伝説を産みました。

  

大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造」からスタートです。

   

@ 伏見橋旧跡

猫間川に流れ込む井路に架かっていた橋です。江戸時代から明治末まで井路を利用して荷物の運送などを行いました。戦前に建てられた旧碑は自動車事故で破損したので新しいものに建て替えられています。猫間川は大阪城東側を流れていて、大阪城の守りの要でもありました。現在は暗渠化されています。

 

マップ付近を探しましたが見当たらず。近くにいた地元のおばちゃんに聞いたら、「橋の跡〜?聞いたことあるような・・・もしかしたらアレとちゃうやろか・・・」ってことで。

   

A 玉造稲荷神社

社伝によれば垂仁天皇18(紀元前12)創建で、588年の蘇我・物部の争いのさいに蘇我氏側の聖徳太子が玉作岡で「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願すると枝葉が生じて勝利を収めたといいます。

戦国時代に兵火に遭い、その後も大坂の陣(16141615)、文久3(1863)の新町焼、昭和20(1945)の空襲の戦禍などをうけましたが戦後に社殿を再建して現在に至っています。豊臣秀頼と淀君を結ぶ胞衣(えな=胎盤のこと)塚大明神があり、子供の夜泣きに霊験あらたかとされています。また付近は清水谷といって玉造清水と呼ばれる名水処で、千利休が神社南側の禰宜町に屋敷を構えて茶の湯に愛用したので千利休居士顕彰碑が建立されています。

文化元年(1804)に玉造の唐弓弦師・松屋甚四郎が伊勢参りの便宜のために旅籠の組合「浪花組」(浪花講)を立ち上げてガイドブック『浪花講定宿帳』を発行すると、このシステムは全国的に広がり、現在の旅館・ホテル業のルーツとなりました。伊勢参りの玄関口として毎年1228日に玉造から伊勢まで歩く「初詣・伊勢迄歩講」が実施されています。

   

B 越中井(えっちゅうい)

この付近は細川越中守忠興の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれています。慶長5(1600)に関ケ原の戦いの直前、忠興は家康に従って上杉攻めに出陣。その最中に石田三成は諸大名の大坂屋敷にいる妻子を人質にしようとしましたが、忠興夫人の玉は従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じました。

玉は明智光秀の娘で忠興とは16歳で結婚しています。本能寺の変で忠興と離縁して丹後に幽閉されますが、秀吉の許しで、また夫婦として当地に住みました。その後、キリスト教に惹かれて改宗。洗礼名の細川ガラシャとして世に知られています。「ちりぬべき時しりてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」が辞世の句として伝えられています。

 

白光大神(神木)

白光とは白蛇のことで、この榎には神の使いの白蛇が棲みついているとされています。

 

C 大阪カテドラル聖マリア大聖堂( 大阪玉造カトリック教会)

明治27 (1894)創立。大阪空襲で滅失して昭和38(1963)に再建されました。建築家・長谷部鋭吉の作品です。敷地が細川家の屋敷跡という由縁で、聖堂内に細川ガラシャが描かれた画が掲げられています。「最後の日のガラシア夫人」「栄光の聖母マリア」「高山右近」などは日本画家・堂本印象(18911975)の作品で、印象はこの功績で、昭和38(1963)にローマ教皇ヨハネス23世から聖シルベストロ文化第一勲章を受章しました。

高山右近(15521615)は摂津出身のキリシタン大名です。父・友照(15271595)はキリシタン反対派でしたが、教えを知って改宗。右近は12歳のときに洗礼を受け、その後、信長、秀吉の下で武功をたてて明石6万石に封ぜられると、高槻、安土、京、大坂などで教会やセミナリオ(神学校)に寄進して布教を推進しました。小西行長、黒田孝高といったキリシタン大名は右近が信仰に導いたと言われます。

秀吉のバテレン追放令(1587)のさいは領地や全財産を放棄しても信仰を守り抜き、諸外国にも名を広げました。以後、加賀・前田家に庇護されていましたが、慶長19(1614)に幕府の命令でフィリピン・マニラに追放。現地で熱病に冒されて翌年、殉教しました。その死を悼み、マニラでは全市をあげて、9日間に渡って盛大なミサが執行されました。

 

D 善福寺(どんどろ大師)

創建当初は「鏡如庵大師堂」と称し、大坂の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝えられ、浄瑠璃「傾城阿波鳴門」に登場することで有名です。阿波の十郎兵衛・お弓の夫婦は主君の盗まれた刀を探し出すために盗賊として裏社会に紛れ込んでいますが、そこへ幼くして生き別れた娘・お鶴が徳島から父母を尋ねてきます。お弓は娘と分かりますが、いまは盗賊の身で一緒に暮らすことは出来ないと、何も告げずに別れる…という哀しい場面(どんどろ大師の場)です。また、大坂城代・土井利位(17891848)が深く帰依したので「土井殿」がなまって「どんどろ大師」と呼ばれたといわれています。

利位は古河藩主から大坂城代となり、大塩平八郎の乱(1837)を鎮圧して、その功績で天保10(1839)には老中に。天保改革の失敗で水野忠邦が失脚すると主席老中に就き、幕府財政を赤字脱却させましたが、天保15(1844)に江戸城本丸が焼失して、その再建資金が捻出できず、12代将軍・家慶の不興を買い、老中を辞任しました。日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察した人物として知られ、自然科学書『雪華図説』は高く評価されています。

 

E 心眼寺(真田丸跡碑)

元和8(1622)に僧・白牟が創建。真田幸村父子の冥福を願って建立されました。門扉に真田家の家紋の六文銭が刻まれています。この六文銭は死者が三途の川を越えるさいの渡し賃を意味しています。

境内には「まん直し地蔵」があって、まん(げん)の悪いときに祈願すると効験があると言われています。また真田幸村出丸城跡の石碑があります。真田幸村(信繁)は武田信玄の家臣・真田幸隆の孫で、大坂の陣で豊臣方として活躍。夏の陣では徳川本陣まで攻め込み、家康をあと一歩のところまで追いつめましたが、安居神社で討ち死にしました。

 

寛文12(1672)の軍記物語『難波戦記』や元禄期の小説『真田三代記』などで天才宰相として登場して人気を博し、大正期の立川文庫『猿飛佐助』が大ベストセラーとなり、真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介)が生まれました。

 

興徳寺  大きな観音様がありました。

 

F 大応寺(木村蒹葭堂墓)けんかどう

寛永元年(1624) 、僧・証誉の創建。木村蒹葭堂(17361802)の墓所です。蒹葭堂は文人、画家、本草学者、蔵書家、コレクターで、北堀江瓶橋北詰の造酒屋の長子として生まれ、通称は坪井屋(壺井屋)吉右衛門。書斎庭に井戸を掘ったときに葦(蒹葭)が出て、それを愛でて号としました。

 

幼少の頃から好学多芸で、文学、絵画、本草学、篆刻、物産など万物に精通し、蘭語も得意で、蘭学者番付に名が載るほどでした。交友も広く『蒹葭堂日記』には延べ9 万人もの来訪者が著されています。

寛政2 (1790)、酒造統制違反で町年寄役を罷免されて伊勢に転居しますが、寛政改革で大坂商人の勢力を弾圧しようという幕府の意図があったといわれています。しかし2年後に帰坂し、船場呉服町で文具商を営むと稼業は栄え、以前にも増して隆盛となりました。

 

享和2(1802)に没。膨大な蔵書は幕命で昌平坂学問所に納められ、現在は内閣文庫に引き継がれています。木村蒹葭堂邸跡の石碑が西区北堀江4丁目市立中央図書館南東角にあります。

  

G 伝長寺(『絵本太閤記』戯作者・武内確斎墓)

江戸期の文学者で『絵本太閤記』作者・武内確斎の墓所です。確斎は明和2(1765)大坂生まれで通称西右衛門。篠崎三島に師事して梅花社で学びました。

寛政9(1797)に挿絵・岡田玉山と組んで『絵本太閤記』を執筆するとこれが大ヒット。確斎は余技に過ぎないと直ぐに辞めるつもりが人気に押されて辞められずに784冊を刊行。しかし文化元年(1804)、豊臣家の人気が高まることに恐れをなした幕府によって絶版されました。岡田玉山とのコンビでは他に『絵本玉藻譚』『阿世可之譚』なども出版しています。

  

H 旧陸軍墓地

明治4(1871)、兵部省が設置。わが国最初の陸軍墓地で、近代日本の戦争と軍のありようを現在に伝える貴重な歴史的遺跡です。5,000基以上の墓石群と43千余の遺骨を納めた納骨堂があります。中には第一次世界大戦で日本軍と戦って捕虜となって死去したドイツ人兵士の墓碑などもあります。

  

I 三光神社(真田の抜け穴)

社伝によれば、反正天皇の時代の創建で、以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職して現在は86代目と伝わります。古代は河内湖に面して、かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていたといいます。中風封じの神として有名な宮城県仙台市の三光宮(現・青麻神社)を勧請して有名になり、明治41(1908)、社名を三光神社としました。鎮座地は宰相山とも真田山ともいい、かつては大坂城の出城が置かれました。

「真田の抜け穴」と呼ばれる遺構がありますが、これは大坂の陣のときに真田幸村が大坂城から当地まで掘ったといわれ、幸村は抜け穴を利用して大坂城を脱出して、島津を頼って鹿児島に落ち延びたという伝説があります。また秋田県大館市の一心院には、島津家が徳川に恭順したため、幸村は再び、鹿児島を脱出して、寛永2(1625)に幸村の四女・御田姫が嫁いだ佐竹家に密かに庇護され、寛永18(1641)75歳で没したという言い伝えがあり、墓なども残っています。

 

大阪市営地下鉄四つ橋線「肥後橋」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:11,788歩 距離:7.8km 移動階数:11階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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