←Back

〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.011 嗚呼、月も未練な法善寺

〜こいさんと歩いた道頓堀ウエスト〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.076

  

南地花街の情緒を残す法善寺。水を掛けると願いが叶うと伝わる水掛不動尊には、いまも参拝者が絶えません。 「月の法善寺横丁」で、こいさんに願いを掛けてもろうた板場はんが、みっちり修行を積んで、OCATにバスで帰ってきたとしたら?

再開発が進む湊町から、かつての南地花街・九郎右衛門町の出世地蔵尊を越えて法善寺へ。 二人の想い出にじむ道頓堀ウエストを歩いてみましょう。

大阪ウォーキングマップは「JR難波」が起点ですが、市営地下御堂筋線「なんば」から地下街(なんばウォーク)を歩いてスタート地点に到着。

 

@ JR難波駅(大阪シティエアターミナル・OCAT)

IMG_0003A

IMG_0002

明治22(1889)開業。かつては道頓堀開削とともに開町した道頓堀川八丁の一つ、道頓堀湊町でした。

 

平成6(1994) 、関西国際空港の開港を機に湊町駅からJR難波駅と改称。平成8(1996)、大阪シティエアターミナル(OCAT)が建設されて地下駅化しました。OCATは関西国際空港へのリムジンバスが運行し、全国各地への高速バスのターミナルとして機能しています。

IMG_0003

IMG_0004

 

A 湊町リバープレイス(浮庭橋)

IMG_0022

平成14(2002)、旧湊町駅の貨物ヤード跡地に開業。湊町地区の再開発「ルネッサなんば」の一環として建設されました。屋外イベントゾーン3箇所、56階部分のライブハウス「なんばHatch」、7階のエフエム大阪の本社及びスタジオなどで構成されています。

IMG_0007

IMG_0012

IMG_0021A

平成20(2008) 、当地と道頓堀川を挟んで対岸の「キャナルテラス堀江」を結ぶ人道橋「浮庭橋」が、道頓堀川水辺整備事業の一環として架橋。「浮かぶはらっぱ」をコンセプトとしてデザインされ、橋上は芝生や植栽、橋桁はツタにて緑化されています。

IMG_0019

IMG_0010

IMG_0016

IMG_0021

 

B 深里橋

IMG_0020A

明治41(1908)、大阪市電南北線の敷設事業の開通とともに架橋。西横堀線(現在の四つ橋筋)の拡張にともない、昭和5(1930)に現在の橋に架けかえられました。橋長約53.2メートル、幅員約23.7メートルです。

IMG_0023

IMG_0020

 MAPにはありませんが、「No.009 いまはなき西横堀川を心に思い描いて」で、消滅した西横堀川…ということでしたが、実は一部が残っているのです。

その川に架かる最後の橋、それが「金屋橋」なのだ。

 

西横堀川は、道頓堀川から北に分流し、金屋橋を少し越えた部分だけが残存し、ここから土佐堀川への合流部まで埋め立てられている。

IMG_0025

IMG_0024A

IMG_0029

左奥から先が埋め立てられた西横堀川です。

IMG_0028

右奥が道頓堀川、手前が西横堀川の残存部なのだ。

 

C 旧町名継承碑 九郎右衛門町

昭和57(1982)の住居表示変更まで、東は戎橋筋から西は難波新川まで道頓堀川の南通り両側町は、九郎右衛門町と呼ばれていました。

 

町名は、寛永年間(16241644)に京都から大坂に移って道頓堀で遊女歌舞伎や若衆歌舞伎を興行し、承応元年(1652)に中之芝居(中座)を落成した塩屋九郎右衛門に由来しています。

南地五花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)の中でも、宗右衛門町と並ぶ二大花街として賑わいました。

MAPの場所を探しましたが、見つかりませんでした。

帰ってWebで検索しましたが、出てきません・・・「九郎右衛門町の旧町名継承碑」ってホントにあるの?

 

D 大黒橋

IMG_0032A

元和元年(1615)に道頓堀川が開削されて間もない頃に架橋。江戸初期には「難波橋」「下橋」と呼ばれましたが、元禄16(1703) の『公私要覧』に「大黒橋」とあり、木津の大国主神社の参道にあたることから、この名が定着したようです。

IMG_0030

当時は木橋で、橋長42.7メートル、幅員2.4メートルと記録されています。嘉永7(1854) に大地震が起きた際、大津波が道頓堀川を逆流、西道頓堀川に架かっていた橋は全て壊され、河口から押し流されてきた船や橋の残骸が、大黒橋で横転した舟を下敷きに岸へ乗り上げたため、周辺の家屋を破壊、甚大な被害を被ったと伝えられています。

昭和5(1930) に鉄筋コンクリートアーチ橋に架替。 翌年、上流側に河川浄化のための可動堰が併設されましたが、平成13(2001)に道頓堀川水門が完成、可動堰は役割を終えて平成21(2009)に撤去されました。

IMG_0033

 

E オムライス発祥の店(北極星)

IMG_0037A

日本の代表的な洋食としておなじみのオムライスが生まれたのが、北極星の前身「パンヤの食堂」(浪速区・汐見橋)です。

IMG_0036

IMG_0035

当時、雨具屋の小高さんというご常連のお客様がおり胃の具合が悪い方で、いつもオムレツと白ごはんを食べておられました。

1925(大正14)年のある日、当時20代半ばだったアイディアマンの北橋茂男は「くる日もくる日も同じものではかわいそうだ」と、マッシュルームと玉ねぎを炒めてケチャップライスにしたものを、薄焼き卵で包んだ特製料理を小高さんにお出ししました。

 「おいしいやん!なんやこれ?」と大変気に入られ、「オムレツとライスをあわせてオムライスでんな」と、とっさに答えたのがオムライスの始まりとされています。

000無題■t

 

F 出世地蔵尊(新戎橋)

IMG_0043

町の発展に伴い、多くの人が出世を願って、地蔵尊に願掛けに訪れるようになります。昭和20(1945)の大阪大空襲で周辺は焼け野原となり、地蔵尊の行方も分からなくなっていましたが、終戦して数年後、土の中から見つかり、新たに「出世地蔵尊」と命名されて祀られました。 出世や栄達にご利益があるとされ、住民や商売人をはじめ、多くの人々が参詣に訪れています。

IMG_0045

IMG_0046

新戎橋は明治26(1893)に架橋、当時は新蛭子橋と記されていました。現在の橋は昭和38(1963)に架けられ、平成20(2008)に歩道拡幅、橋面整備、耐震対策、修景整備されました。

IMG_0042

IMG_0049A

道頓堀ホテル前のモアイです。

IMG_0049

IMG_0047 

IMG_0052A

IMG_0050

道頓堀

一般的に日本橋 - 大黒橋間において、道頓堀川南岸の道頓堀通沿いに広がる繁華街を指す。なかでも戎橋以東は道頓堀五座(後述)が立地した芝居町にあたる。道頓堀通の南側に芝居小屋、北側に芝居茶屋が並ぶ構造だったため、現在も通の南側に娯楽施設、北側に飲食店が多い。

大阪ミナミの東西基軸となる道頓堀通の両側町で、南は難波新地と千日前、北は道頓堀川を挟んで島之内の宗右衛門町や久左衛門町に接する。飲食店が集中し、道頓堀グリコサイン、かに道楽本店、づぼらや、中座くいだおれビル、金龍ラーメン、なんば道頓堀ホテルなど、多種多様な看板・建物の店舗であふれている。

 

G 道頓堀橋

IMG_0040A

御堂筋拡張工事に合わせて昭和11(1936)に完成しました。橋長38.2メートル、幅員は43.6メートルあり、大阪市内で最も幅が広い橋です。

IMG_0055

IMG_0041

 

H 松竹座

大正12(1923) に泊茶屋「大七」の跡地にできたのが、ネオ・ルネッサンス様式の正面大玄関のアーチが特徴的な日本初の洋式劇場・大阪松竹座です。

 

洋画の殿堂として優秀な外国映画を封切してきましたが、平成9(1997)に新築開場してからは、芝居街・道頓堀の伝統を今に伝える劇場として、歌舞伎公演をはじめ、松竹新喜劇やミュージカル、レビューやコンサートなどを上演しています。 また、大阪松竹少女歌劇団(後のOSK日本歌劇団)の本拠地としても知られています。

IMG_0056

IMG_0057

 

I 戎橋

IMG_0054

道頓堀川の開削とほぼ同時期に架けられ、橋筋が今宮戎神社への参道だったことから、戎橋と名付けられたと考えられています。橋南側に操り芝居の小屋があったことから、古くは操橋とも呼ばれました。 慶応3(1867)、徳川慶喜が大坂城で外交使節と引見する際、攘夷の風潮に気を遣い(戎=夷)、永成橋と改名されましたが長くは続きませんでした。

周辺の町人たちが維持管理してきた町人橋で、大芝居街・道頓堀へ向かう多くの人々が往来したため、元禄7(1694)から明治11(1878)の鉄橋に架替までに、計13回の修理および架替工事が行われています。平成19(2007)に現在の橋が完成しました。

IMG_0063 

IMG_0060

IMG_0059

IMG_0065

IMG_0066

 

J 法善寺横丁

IMG_0083A

東西の門に掲げられた「法善寺横丁」の文字は、西は藤山寛美、東は3代目桂春団治によるものです。

 

古くは法善寺の境内で「法善寺裏」「極楽小路」などと呼ばれていましたが、織田作之助の『夫婦善哉』、長谷川幸延の『法善寺横町』が発表された頃から、「法善寺横丁」という名前が定着していきました。

IMG_0082

 

戦前は上方落語の桂派の拠点である「南地金沢亭」(吉本興業の買収後「南地花月」)や浪花三友派の拠点「紅梅亭」(同・「西花月亭」) が浮世小路を挟んですぐ近くに並び、寄席文化の中心地でした。

 

「和食さと」などを展開するサトレストランシステムズの創業店「すし半」や「夫婦善哉」なども法善寺横丁にあります。平成14 (2002)、平成15(2003)2度の火災で再建が危ぶまれましたが、地元をはじめ多くの市民が復興の声や寄付を寄せて、見事復興しました。

IMG_0084

IMG_0085

浮世小路

IMG_0069

 

IMG_0076

IMG_0075

IMG_0072

IMG_0073

昔話の物語、道頓堀川からおわんの船に箸のカイ、京都で悪い事ばかりしていた鬼たちを退治、手に入れた打ち出の小槌をふると美青年になり、良き姫をめとり、子孫代々まで反映したと伝わる「一寸法師大明神」として祀る。楽しい良くあたる「おみくじ」が人気です。

・・・だそうです。

 

K 法善寺

IMG_0081

山号は天龍山。戦前は「神仏のデパート」「信仰の流行地帯」(織田作之助・『大阪発見』)と記されるほど、様々な神仏が祀られていましたが、戦災後、本尊は阿弥陀如来で、西向不動明王、金毘羅天王、お初大神も祀られています。

 

ある時より西向不動明王にお供えの水を掛けて願い事を掛けるようになり、水掛不動さんと呼ばれて有名になりました。

IMG_0077

IMG_0078

IMG_0080

法善寺や隣接していた竹林寺(平成20年移転)が、処刑された人や墓地に埋葬された人たちの霊を慰める千日念仏回向を行ったことから、千日寺と呼ばれ、南の墓所へ通じる道が千日前と呼ばれるようになりました。

 

IMG_0086

大阪市営地下鉄「なんば」から帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:16,558歩 距離:11.4km 移動階数:14階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

←Back No.010

Next No.012

 ←Back