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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.010 水の底に消えた蕪村のふるさと・毛馬村

〜春風や 堤長うして 家遠し〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.112

  

この「大阪あそ歩」のウォーキングマップから表題を見て、面白そうな場所を選んでいるつもりなのだが、「橋」が多いことに気付いた。

決して「橋」が好きなわけではないし、表題に「橋めぐり」と書いてあるわけでもないのだが、コース内容に「橋」が多い。

これは「水都・大阪」といわれるだけあっての事なのだろうか・・・それとも何か仕組まれているのだろうか・・・。

 

橋めぐりは飽きてきたので、今回は「淀川大堰」(知っているが行ったことが無い)が組み込んであるコースを選んでみた。

俳人・与謝蕪村は享保元年(1716)、毛馬村に生まれました。若き頃に江戸を出て、芭蕉の足跡をたどって東北を周遊。その後、京に居を構え、大坂にも何度も立ち寄りますが、なぜか自分の生まれ故郷には一度も帰ろうとしませんでした。 新淀川開削で消えてしまった蕪村のふるさと・毛馬界隈を歩きます。

 

大阪市営地下鉄谷町線「都島」からスタートです。

 

@ 駒つなぎの楠

平安中期、このあたり一帯は「善源寺荘」と呼ばれ、大江山の酒呑童子を退治した源頼光が支配する荘園でした。頼光は長徳年間(995999)、ここに武神・八幡大神を祀ったさいに自ら楠を植えました。

 

この地の管理を任されていた頼光四天王の筆頭、渡辺綱が、この楠に馬をつないで参詣したことから「駒つなぎの楠」と呼ばれました。

樹齢900年、周囲12m、高さ約30mもの大樹で、昭和初期、大阪府の天然記念物第一号に指定されましたが、戦災で枯死しました。しかし、その後も倒れず現在にいたっています。 

 

A 大川(旧淀川)

もともとは淀川の本流でしたが、明治後期の淀川改修工事で毛馬の洗堰、閘門が作られた際、そこから下流の大阪湾に注ぐ旧淀川13.83kmを大川と呼ぶようになりました。それぞれの時代の大阪の繁栄を担った河川で、現在は、中之島で堂島川、土佐堀川と分かれるなど、区間によってさまざまな通称で呼ばれています。

寝屋川と合流する地点のすぐ先は、江戸時代に京・伏見と大坂を往復した三十石船の大坂側のターミナル、八軒家浜船着場。飛鳥時代には難波津、平安時代には渡辺津と呼ばれた要衝です。弥次さん喜多さん、森の石松、幕末の志士たちまでが乗ったという三十石船(長さ約15m、幅1.9m、定員28)は、昼夜、上下便あわせて毎日320便、約9,000人が利用したといわれ、大変な賑わいでした。

 

B 毛馬桜之宮公園

大川の毛馬橋から天満橋までの両岸(延長4.2km)に広がるリバーサイドパークです。もともと「水辺より馬場の堤に至るまで一円の桜にして晩春の花の盛りには雲と見、雪と疑う光景なり。最上()花見の勝地といふべし」(『澱川両岸一覧』)といわれたように、江戸時代から桜の名所として親しまれてきました。

 

たびかさなる淀川の氾濫で桜も倒れたりしましたが、そのたびに植え替えられました。大正12(1923)に開園した桜之宮公園を中心とした大川両岸の公園整備が、明治100年記念事業として昭和42(1967)から始められ、南天満、桜之宮、毛馬を含んだ約23haの大公園が完成。両岸の桜は4,800本に達し、大阪城周辺(4,300)をしのぐ西日本有数の桜の名所としてよみがえりました。

 

C 春風(はるかぜ)

淀川にほぼ平行して伸びる城北運河の大川からの分岐点にかけられた歩行者自転車道路橋(3m、長さ105)で、昭和56(1981)3月に完成しました。

橋の名は、与謝蕪村の句「春風や堤長うして家遠し」にちなんでつけられました。この句は蕪村の最高傑作ともいえる抒情詩「春風馬堤曲」の発句で、「やぶ入りや浪花を出て長柄川」と並んで出てきます。

やぶ入りで大坂の町なかの奉公先から実家へ帰る娘に託し、わが生誕の地・毛馬村への望郷の念を18首の歌に詠み込んだ、蕪村62歳の作品です。最初に短い詞書があり、発句二つ、続いて漢詩、また句がくるという当時としては大胆不敵な構成で、最後は俳句仲間の句「藪入の寝るやひとりの親の側」というやぶ入りの句で締めくくっています。

 

10代後半には両親ともなくなり、家は没落、そして出奔。20歳のころには江戸にあり、京都で68歳の生涯を閉じるまで、二度と毛馬の地を踏まなかった蕪村ですが、失意のうちに幼い日々を過ごした淀川べりの村を終生忘れることはなかった、といえるでしょう。

 

D 淀川神社

いい伝えによれば、淀川河口の海賊取り締まりのため配備された武士が、当時有名だった15の神社の神様を守護神としてまつったのが起こりで、名前も十五神社と呼ばれていました。

 

明治42(1909)、毛馬村の氏神、八幡大神宮が櫻宮に、友渕村の氏神、十五神社が大宮神社に合祀されましたが、これによって心のよりどころを失った毛馬、友渕、大東3町の人たちの熱心な働きかけで昭和28(1953)10月、旧十五神社の神殿と境内をそのまま利用した形で復活。現在の名で呼ばれるようになりました。

 

E 蕪村公園

平成21(2009)3月に開園したばかりの蕪村を顕彰する公園(1ha)です。「春風馬堤曲」に詠われている毛馬の堤を再現し、淀川原ののびやかな広がりのある風景が表現されています。

 

園内には、蕪村自筆の13句を刻んだ句碑が並べられています。松尾芭蕉、小林一茶とともに近世俳諧史を彩った蕪村は、浪漫的、抒情的な俳風を築き、生涯で3,000近い句を詠んでいます。13句はその代表作ともいえ、多くは生まれ故郷、毛馬を詠んだ作品が連ねられています。

 

F 蕪村生誕地の石碑

江戸・天明期の俳壇革新者であり、南宋画の開拓者、俳画の創始者といえる与謝蕪村は享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれました。20歳のころには江戸にあり、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。

 

寛保2(1742)27歳のとき、師の死にあって江戸を去り、下総国結城(茨城県結城市)を拠点にあこがれていた松尾芭蕉の足跡をたどって東北を周遊するなど、俳諧の道と画技を磨きました。その後、丹後・与謝地方で4年余を過ごし、42歳で京都に居を構え、画業に専念します。

 

45歳のころ結婚。娘くのの誕生からしばらくして讃岐へと旅立ち、55歳で師を継ぎ、夜半亭二世に推戴されました。このあたりから、「春風馬堤曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」の三部作を刊行した62歳ごろが蕪村の絶頂期といえます。

 

天明3(1783)12月、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」の辞世句を残し、68歳でなくなりました。墓は芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺、金福(こんぷく)寺にあります。

 

G 新淀川

かつての淀川は、蕪村の故郷・毛馬村付近で中津川と分岐、南へ大きく湾曲していました。その豊かな水量で農作物には恵まれたものの、一方でたびたび洪水に見舞われ、有史以来といわれる明治18(1885)の大洪水、さらに22年、29年の洪水が大きな被害をもたらしました。

 

18年の洪水の惨禍を目の当たりにした東成郡榎本村放出(現在の大阪市鶴見区)生まれの大橋房太郎(18601935)が淀川治水事業に取り組み始め、その努力で明治29(1896)には河川法が制定されるとともに、淀川改修経費が国会を通過。オランダ人技師、デ・レーケが計画立案、内務省土木監督署の技師、沖野忠雄の指導のもと、新淀川開削を含む改修工事がスタートしました。

新淀川は毛馬付近から下流を、旧中津川の一部を利用する形で開削、大阪湾に直線的に注ぐようにし、旧川(現在の大川)には必要な水量を流す洗堰と船舶航行のための閘門を設けるという大規模なもの。完成までに10年余を要しました。

 

その後も改修は続けられ、戦後は洗堰部分に淀川大堰も建設されました。残念なのは、新淀川工事で、淀川が南へ大きく湾曲する部分の左岸に位置した蕪村の故郷・毛馬村の大半が水没してしまったことです。蕪村生誕地の石碑のあたりから見下ろす北側がその地です。

 

H 毛馬洗堰(あらいぜき)、毛馬閘門(こうもん)

新淀川開削を含む淀川改修工事で計画され、明治40(1907)8月、普段の川の水を流すための「毛馬洗堰」と、水位が違う大川、新淀川間の船舶の通過をスムーズにする「毛馬閘門」とが完成しました。

 

閘門は沖野忠雄の指導で作られ、両岸はレンガ造り。水路の前後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、両岸からハンドルを回して開け閉めしました。しかし、その後の大川しゅんせつ工事で水位が大きく下がり、淀川との水位差が広がって役に立たなくなったため、大正7(1918)、この閘門下流に二つ目の閘門が作られました。現在使用されている閘門は3代目で、昭和49(1974)に完成しました。

 

旧毛馬洗堰と初代閘門は貴重な近代産業遺産として平成20(2008)6月、国の重要文化財に指定されました。

 

I 毛馬橋

蕪村の生まれた毛馬村は淀川の左岸。対岸は北長柄村で、両地点を毛馬渡しが結んでいました。長さ190(365)

蕪村が門人に送った手紙の中で「堤ニは往来の客あり」としたのは、この渡し舟に急ぐ人々の姿でした。この下流には源八渡し、川崎渡しが続きます。ここに初めて橋が架けられたのは大正3(1914)。地元の熱心な運動が実りました。長さ155m、幅3.6mの木橋で、毛馬橋第1号です。現在の姿になったのは昭和36(1961)です。

 

J 淀川大堰(おおぜき)

毛馬水門に面し淀川大堰(よどがわおおぜき)が淀川本流に建設されています。

大阪府と兵庫県への上水道と工業用水道の供給と淀川下流部の水害に対応する治水を目的にしている淀川大堰は、必要な水を使えるように水の高さを調節したり、海の水が流れ込まないようにする可動堰で、長さは330m、55mの主ゲート4門と40mの調節ゲート2門で構成されています。

 

K旧・毛馬閘門

「淀川旧分流施設」の名称で以下の建造物等が国の重要文化財に指定されています。

毛馬洗堰

毛馬第一閘門(鉄製門扉、扉開閉装置、アーチ橋)

第一閘門は、内務省土木監督署の技師沖野忠雄の指導による淀川治水計画の一環として設計施行されたもので、両岸がレンガ造りとなっており、水路前後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、両岸からハンドルを回して開け閉めした。

 

現在は使われておらず、貴重な産業遺産として一部が淀川河川公園の一施設として整備保存されている。2008年(平成20年)6月に旧毛馬洗堰とともに国の重要文化財に指定された。

・水路長さ:約80m

・水路幅員:約10m

・側壁高さ:約8m

淀川改修紀功碑

旧第一閘門東の一角に「淀川改修紀功碑」がある。明治43年(1910年)に淀川改修工事完了を記念して建てられた。その横に毛馬北向き地蔵の祠がある。その周囲に「毛馬の残念石」という大きな石が数個転がっており、江戸時代に大坂城を再建するときに伏見城から運ばれた石垣の石がその途中で運搬船から転落し、淀川改修工事の際に引き上げられたものとされる。

 

第一閘門西側にはかつて長柄運河が流れており、閘門下流側門そばに「眼鏡橋」が設置された。現在は運河は埋め立てられたが、眼鏡橋は修復のうえ保存されている。

毛馬北向き地蔵

ベンチではありません。「残念石」です。

眼鏡橋

 

帰りは大阪市営バス「毛馬橋」から梅田へ、ドキドキしながら乗って帰りました。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:12,626歩 距離:8.4km 移動階数:17階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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