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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.009 いまはなき西横堀川を心に思い描いて

〜ありし日の西船場が見えてくる〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.118

  

前回は「東横堀川」を歩いたが、東があるんだったら西(西横堀川)もあるだろう・・・と思って地図を見渡したが、そのような川は見つけられなかった。 調べてみました。

1962(昭和37)に阪神高速を「西横堀川」の上に建設するために埋立てられてしまったとのことでした。

・・・そっかぁ、無いのなら仕方がないので、他のウォーキングマップを探そうとしてたら、ありました!

 

かつて開削者の名から七郎右衛門堀と呼ばれた西横堀川。

今から400年程前に開削された川は阪神高速道路の建設により埋め立てられてしまい、今ではいくつか残る橋跡にのみその名残をとどめています。

川と橋と、まちを思い描きながら、土佐堀から長堀の四ツ橋まで参ります。

大阪市営地下鉄御堂筋線「淀屋橋」から歩きました。

 

昔の肥後橋は、この辺りに架かっていたそうです。

 

 

@ 西横堀川跡碑

西横堀川の開削時期は、慶長5(1600)頃、または元和35(16171619)頃とされています。

豊臣秀吉が東横堀川以西〜現・御堂筋以東までの「船場」を開発し始めたのは慶長3(1598)。秀吉はその年に亡くなりましたが、大坂冬の陣、夏の陣の戦乱を経て、元和5(1619)に大坂は幕府直轄地となり、西横堀川以西の西船場エリアが本格的に開発されました。

西横堀川は土佐堀川から南に、永瀬七郎右衛門(肥後出身の材木商)によって開削されたので当初は七郎右衛門堀と呼ばれ、川の東側は七郎右衛門町という地名が付いていました。永瀬家は材木商であったことから木屋を名乗り、西横堀川沿いには多数の材木商が軒を並べていました。

 

土佐堀通には西横堀川に架かる一番北の橋、西国橋が架かり、付近に船着き場がありました。西国橋の西詰には、鴻池、三井とともに並び称せられた両替商・加島屋(広岡)久右衛門の店舗があり、加島屋(広岡家)は明治・大正期には広岡財閥として名を馳せ、加島銀行を設立。現在の大同生命につながります。 

 

A 阪神高速道路開通記念碑

阪神高速道路公団が発足したのは昭和37(1962)51日のことです。その頃すでに船も通らずドブ川と化していた西横堀川が埋め立てられて行きながら、昭和39(1964)628日に土佐堀から湊町までの区間、つまり阪神高速1号環状線の一部が開通しました。

 

当初は、現在と反対に北から南に進む一方通行でした。1号環状線は昭和42(1967)3月に全線開通し、この記念碑は阪神高速道路公団創立20周年を記念して、昭和57(1982)628日に建てられました。

 

 

B 梅花社跡

篠崎三島(しのざきさんとう17371813)は、伊予から大坂に出て、玉水町で紙屋と両替屋をしていましたが後に儒者となり、安永5(1776)に私塾・梅花社を開きました。

マップではこの辺りなのですが・・・わかりませんでした。

  

加藤金吾少年は9歳から梅花社で学び、13歳のときに乞われて三島の養子となり、篠崎小竹(しのざきしょうちく17811851)と名乗りました。小竹は、頼山陽から刺激を受けて江戸に遊学するなどして見聞を広め、天保2(1831)に、養父と同じ名前の梅花社を開きました。小竹は詩書に優れていたので揮毫依頼が絶えず、潤筆料で1年に67万両も稼いだので、「儒者の鴻池」と呼ばれました。

また、門下生は1,500名を擁し、小竹が亡くなった際、葬儀の前方は天満・天徳寺に着いていたのに後方は小竹邸を出られなかったと言い伝えられています。

   

C 筋違橋(すじかいばし)

元々は元和3(1617)に掘られた江戸堀川に南北に架けた橋の真ん中から東に(西横堀川に)架けた撞木形の橋がありました。京町堀生まれの暁鐘成『摂津名所図会大成』には、撞木橋の形が尋常でない形であるために架け替え時の普請料が嵩み、江戸堀川の川幅を狭めて橋が二つに分けられた経緯が記されています。その際、江戸堀川の南北に架けられた橋とは別に、高麗橋筋から江戸堀川南岸へ筋違いに斜めに架けられた橋が筋違橋(すじかいばし)と命名されました。

 

小鯛雀鮨で有名な「すし萬」の系譜を遡れば、17世紀半ば頃には西横堀川から一本東の筋である魚の棚筋で魚屋を営業する傍ら、雀鮨を販売していたようです。すし萬は江戸堀から筋違橋を渡ってすぐの所にあったので、筋違橋は、すしを買いに行く(すしかい)橋であったとも言えます。

 

D 呉服橋

豊臣秀吉の大坂築城に際し、天正12(1584)頃、京・伏見の呉服商人らは玉造に居住させられました。天正18(1590)には伏見呉服町の町名が許可され、黄金の恵美須像と秀吉の朱印が与えられました。

江戸時代になっても伏見呉服町の商人らが大坂城内や蔵屋敷で必要とする呉服の用達をし続け、呉服商人も増えたために玉造の土地が狭くなり、元禄時代に伏見町に移転し、伏見呉服町と称しました。

 

呉服商人や呉服に関係する商人らが居住した呉服町は、各店の暖簾の色が異なり、「呉服町の五色暖簾」として有名でした。西横堀川の東に広がる呉服町につながる橋が呉服橋です。戎橋、大黒橋と呉服(五福)橋を合わせて七福神の橋という洒落もありました。

 

E 墨屋作兵衛

寛政4(1792)に亡くなった墨屋作兵衛は、呉服橋の架け替えや修繕費用に充ててもらうために遺産を町内に託しました。墨屋の宅地は町内保管、家屋は町会所となっていましたが、明治に入り、恵美須神社の敷地となり、遺産を使って本殿、拝殿、社務所が新築されました。

 

恵美須神社は御霊神社に合祀されましたが、昭和27(1952)に伏見町の町人の手によって、旧呉服橋東詰に伏見町呉服町の発展と墨屋の偉業を記した碑が建てられました。

 

F 京町堀川跡

京町堀川は、元和3(1617)に京・伏見から移住してきた町人によって掘られたので、伏見堀とも呼ばれました。京町堀には伏見町人らの商家が多く、京町堀川の両岸には各藩の蔵屋敷、船宿などが並んでいました。

 

京町堀川は、西横堀川から分流した長さ約1,080m、幅約30mの川で、海部堀川と合流し、百間堀川に注ぎ、物資の運搬などに利用されました。昭和36(1961)に防波堤工事のために埋め立てられました。

 

G 信濃橋

元は富田町橋、後に問橋と名前を変え、元禄年間(16881704)の記録には信濃橋の名が見えます。

昭和40(1965)に地下鉄3号線(四つ橋線)の西梅田〜大国町間が開通した際、橋名から信濃橋駅という駅名が付けられ、後に地下鉄4号線(中央線)本町駅の開業に伴って信濃橋駅は本町駅に改められました。

 

H 火防陶器神社(ひぶせとうきじんじゃ)

信濃橋西詰の瀬戸物町に祀られていた地蔵は甲冑を付けて馬に乗り、火除地蔵尊として信仰されていました。毎年724日の地蔵会は、暁鐘成『摂津名所図会大成』によれば浪花における地蔵会の魁たるものと記され、この地蔵会目当ての人々を相手に、西横堀川に沿って筋違橋から新町橋まで軒を並べていた陶器商らが陶器を並べて大売り出しを行い、陶器で飾られた人形を出す陶器祭として有名でした。

明治時代の神仏分離によって火除秋葉神社となりましたが、陶器商人たちによって陶器神社と名が改められました。しかし、現四つ橋筋に市電の南北線が通ることとなり、明治40(1907)に坐摩神社に合祀されました。火防(ひぶせ)は、陶磁器を保護するために藁を扱っていた陶器商らが火災を極端に恐れ、火除地蔵を祀ったことから付けられています。

灯篭が陶器でできています。

狛犬も陶器製です。

坐摩神社(いすりじんじゃ)

一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多いそうで、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれるそうです。

桂文治(初代)寄席を開いた故事に則り、坐摩神社境内に「上方落語寄席発祥の地」の顕彰記念石碑があります。現在の「天満・繁昌亭」のルーツです。

I 瀬戸物町

かつては北富田町という町名でしたが、筋違橋から新町橋までは陶器商が多く、全国各地の陶磁器が瀬戸物町で売買されました。北富田町という町名はほかにもあったので、延宝8(1680)に瀬戸物町と改称され、この町名は明治5(1872)に改称されるまで使われました。

 

落語「壷算」の舞台がここなのだ!

 

J 立売堀川跡

立売堀は、元和6(1620)に開削され始めたものの一時中断され、寛永3(1626)に大坂三郷・南組惣年寄を務めた宍喰屋次郎右衛門によって開削が再開されて完成しました。立売堀川には、かつて宍喰屋橋などが架かっていました。

 

 

K 新町橋

寛文12(1672)、新町の遊郭を繁盛させるため、船場側の通路として西横堀川に新町橋が架けられました。遊郭の中心である瓢箪町筋に通じていたため、「ひょうたん橋」とも称されました。

 

L 四ツ橋町

長堀川と交差する西横堀川に架かっていたのは上繋橋、下繋橋でした。上繋橋は市電南北線の工事によって銅桁となりましたが、昭和46(1971)の西横堀川埋め立て完了、昭和38(1963)に長堀川の四ツ橋から東、昭和48(1973)に四ツ橋から西が埋め立てられたことにより、四ツ橋すべてが姿を消しました。また、四ツ橋に日本初の電気科学館が誕生したのは昭和12(1937)のことで、平成元年(1989)までありました。

産経新聞社発行の 「昭和の大阪」 昭和35年の四ツ橋の空撮写真。長堀川と西横堀川とが交差するかつての大阪の名所。北西の角には旧電気科学館。

(産経新聞社・アーカイブから借用しました)

電気科学館があったビルです。

 

帰りは地下鉄鶴見緑地線かな?と思いましたが、地下に降りると「御堂筋線・心斎橋」への案内表示があったので、歩きました。

~ん…、今回のコースも イ・マ・イ・チ ・・・でした。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:10,255歩 距離:7.2km 移動階数:8階 

  

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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