←Back

〜〜〜 くらさんのふらっと散歩 〜〜〜

No.091  ディープな参道散歩 〜石切さん(石切劔箭神社/いしきりつるぎやじんじゃ) (2017.04)

 

以前からずっと気になっていた場所があった。

「ディープな参道散歩が楽しい!、大阪や関西在住の方なら一度は行ったことがあるかも!、でんぼの神様やお百度参りで有名な東大阪にある石切劔箭神社(石切さん)への参拝が脚光を浴びています。

大阪でも珍しいディープなパワースポットになっている商店街は不思議な世界が拡がっており、必見です。」

・・・どうです、なんだか面白そうでしょ。 あなたも行ってみたくなってきたでしょ。 

えっ、行ったことがあるって? そんな人はあっち行け! ・・・ということで、東大阪の石切さんへ

 

 

 

石切神社の最寄駅の「近鉄石切」

 

生駒山麓の駅で、大阪平野が見渡せます

石切駅前からなだらかな下り坂を下っていきます

「歓迎・ようこそ石切へ」の大看板が出迎えてくれる

またまた手厚い歓迎だね〜

参道は坂道なので、杖の無料貸出しサービスがある

写真ではわかりづらいけど勾配がきつめの坂道なのだ

参道の雑貨屋

 

石切大仏

 

石碑には日本で三番目 (三大仏だそうだが・・・)

さて、ここでクイズです。 

三大仏といえば、一番は奈良の大仏、二番は鎌倉の大仏、それでは三番目は?

・・・実は決まっていないそうなんです。

 

江戸時代

1. 奈良の大仏(大和国添上郡(現奈良県奈良市)、東大寺)

2. 鎌倉大仏(相模国鎌倉郡(現神奈川県鎌倉市)、高徳院)

3. 京の大仏(山城国紀伊郡(現京都府京都市)、方広寺)

奈良の大仏と鎌倉大仏は江戸時代以前から存在するが、当時三大大仏の概念があったという話は伝わっていない。初めて三大大仏の概念が大衆に普及した形で現れることを史実として確かめられるのは江戸時代に入ってからである。豊臣秀吉による京の大仏は慶長元年713(159695)の慶長伏見地震によって開眼法要前に倒壊し、遺志を継いだ豊臣秀頼による2代目の京の大仏は、造営中の事故で溶解した。江戸時代の京の人々に長く親しまれることになる京の大仏は改めて造営された3代目のものである。

しかし、3代目の京の大仏も寛文251(1662616)の近江・山城地震によって損壊、解体され、銅は溶かされて貨幣(寛永通宝)に変えられた。新しく造営されたのは木造の大仏であったが、寛政10(1798)に落雷によって大仏殿もろとも焼失。その後天保年間に再建されるまでの間、京の大仏は姿を消した。

なお、再建された大仏は非常に規模が小さいものであり、三大大仏に挙げられるようなものではなくなっていた。この大仏も昭和時代中期に火災によって焼失している。

 

戦前

1. 奈良の大仏(奈良県奈良市、東大寺)

2. 鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市、高徳院)

3. 兵庫大仏(兵庫県神戸市、能福寺)

京の大仏が焼失したあと3尊目に挙げられたのは明治24(1891)に造営された兵庫大仏であった。その規模はかつての京の大仏には及ばないが、長らく空いていた3尊目の座を埋めるには十分であった。しかし、兵庫大仏は太平洋戦争中の昭和19(1944)に出された金属類回収令によって供出される。

その後兵庫大仏は平成3(1991)になってようやく再建されたが、歴史の浅い2代目の兵庫大仏が三大大仏に挙げられるかどうかは異論がある。

 

戦後以降

1. 奈良の大仏(奈良県奈良市、東大寺)

2. 鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市、高徳院)

3. 現状定説なし

兵庫大仏が供出された昭和時代中期以降、三大大仏の3尊目に富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏などが挙げられることがあるが、現状定説はない。

 

Wikipediaでは以上のように述べてあります。

事実はともあれ、少なくも「石切大仏」が三番目ってことはないだろ〜(東大阪市のみなさん、ごめんね)

 

大仏さんの向かいに展望台のような奇抜な建物がありました。

 

イタリア料理レストラン「REGALD

落ちてこないのかしら、ちょっと怖そう

石切不動  中に不動明王の石像があります

手前にひしゃくが有り、水を掛けるようです

 

大黒殿・・・何のお店だろう?

 

占い屋さんのようだ

古くからある狭い参道の両側に、昔ながらのお店がずらーっと…、と、思って歩いていると、どんどん目に入ってくるのは占いの看板!

石切の参道には数多くの占い店あり、少し怪しい雰囲気に見えるかもしれませんがここは、絶対に日本一の占いの密集地なんだって。 手相から、四柱推命、家相やタロットなんでもあり!です。

 

石切神社の絵馬殿と呼ばれる建物。

 

屋根の上に「剣」があります。

この絵馬殿には、仁王像のように、左右に饒速日尊(にぎはやひのみこと)と可美真手命(うましまでのみこと)の像が祀られています。

 

入って左が、饒速日尊(にぎはやひのみこと)です。 手に持っているのが天の羽羽矢(あめのははや)と呼ばれる石をも貫く矢です。 羽羽(はは)とは蛇という意味があり、天の羽羽矢が、蛇の呪力を持った矢とされたことから、おそらく、毒蛇の毒を塗った毒矢だったのかもしれません。

 

そして、向かって右が、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の息子の可美真手命(うましまでのみこと)です。 手に持っているのは、饒速日尊(にぎはやひのみこと)より譲り受けた布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)で、石をも貫く剣です。

 

この剣は、別名を十束剣(とつかのつるぎ)とも呼び、イザナギがカグツチを斬った時に使い、カグツチの血と十束剣から八人の神様が生まれたり、天照大神と、素戔嗚尊が誓約をする時に、天照大神が十束剣を真名井の水ですすぎ、噛んで口から霧のように吐いたら、宗像三女神が生まれたり、山幸彦が、海幸彦の釣り針を失くした時に、十束剣を砕いて無数の釣り針を作って海幸彦に渡したり、海人族にも、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の血が入ったことを表し、十束剣が、たくさんの神々を生んだ象徴的な剣とされ、饒速日尊(にぎはやひのみこと)そのものを神格化した剣と言えそうです。 (日本神話.comから転載)

饒速日尊(にぎはやひのみこと)

可美真手命(うましまでのみこと)

 

親しみを込めて“さん”づけで呼ばれる石切さんの正式名は石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

でんぼ(関西方言で、腫れ物のこと)の神様として、がん封じの願掛けに来られる方がとても多い神社であり、石を切り裂くほどの強い神通力を信じて各地からお参りされる人が絶えないそうです。

神社に到着して、まず驚くのが、本殿と三の鳥居の間を多くの人がぐるぐると回っています。何かと思えば、「お百度参り」をされているのです。お百度参りといえば、人知れずひっそりと…というイメージなのですが、大勢の方が、一緒にお百度参りをされている様子を見たのは初めてでした。

この神社のお百度参りは有名らしく、みんな熱心に無言で回っています。

 

神社のHPによると、「必ずしも百回まわらなければならなということはなく、歳の数だけまわったり、気候や体調に合わせて無理をせず参拝してください」だそうです。

 

百度石を基点として本殿までの参詣を百回繰り返すらしく、数を数えやすいようにと同神社では紙で作られたこよりのような「お百度紐」が用意されていました。

何度回ったかを数える紐束、販売品ではなく、「お気持ちをお賽銭で・・・」というシステムなんだ。

 

石切神社は、がん封じに関して信仰している人が多く、治ったと喜ばれている人も多いそうです。

また、関西のB級パワースポットと呼ばれるほど、参道の占いの店の多さに驚いたり、レトロな食堂・雑貨屋・漬物屋・煎餅屋・土産物屋などなど立ち止まることの多い参道だったなぁと思います。

ただ、石切駅への戻り坂道は辛かった。 

Back No.090

Next No.092

 ←Back