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〜〜〜 くらさんのふらっと散歩 〜〜〜

No.043 大分〜大分センター出張記・そのA  (2008.02)

 

大分センター出張記の後編です。大分2日目の早朝からのふらっと散歩です。

 

くらさんの朝は早い。ホテルを早々にチェックアウトし、フロントにあった市内ガイドで大分センター近辺を調査〜「始業時間までに、そのあたりを散歩する」という綿密な計画?に基づき、行動を開始しました。

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早朝とあって、人がほとんどいません。繁華街から官庁街にある「遊歩公園」に向かいました。

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ちょっと雑学

遊歩公園は大分城趾(府内城趾)から南にのびる道の中央に作られた幅約10m、長さ約500mほどの細長い公園である。この公園には瀧廉太郎の像と終焉の地やみどりのかげ像、伊東ドン・マンショ像、西洋医術発祥記念像など著名な彫刻家が作った多くの像や記念碑が並んでいます。大分市内にはここの他に大分駅前広場や街角に彫刻がたくさん立っています。まさに街中が美術館のようになっています。並木の木陰を彫刻を眺めながらの散策も良いものです。(観光ガイドより)

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瀧廉太郎の像(朝倉文夫作)と終焉之地の碑がありました。思わず「はるこぉろ〜の、はなのえん〜・・・」のフレーズをハミングしました。(アメニティの◆◆さんか?)

 

ちょっと雑学

天才作曲家として有名な瀧廉太郎は明治12年(1879)東京で誕生しました。明治24年(1891)には父が大分県の直入郡長となったので竹田に赴任してきました。そのとき廉太郎は12歳でした。その後14歳のときには最年少で東京音楽学校に入学しました。明治30年(1897)に「砧(きぬた)」を作歌したのをはじめとして、「春の海」作曲など多くの歌を作歌・作曲し明治34年(1901)には有名な「荒城の月」、「箱根八里」などを作曲しました。同年4月ドイツに向けた横浜を出航し10月ライプティヒ国立音楽学校に入学しました。しかし体調をくずし志半ばで翌年の8月に帰国しました。大分市内の遊歩公園にある「瀧廉太郎終焉之地」の記念碑付近にあった実家で療養していましたが、明治36年(1903)6月29日に結核で亡くなりました。23歳と10ヶ月の短い生涯でした。廉太郎の墓は市内の万寿寺にあります(観光ガイドより)

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朝の通勤ラッシュ?

右折車線が異常に感じるのは僕だけ?

 

大分センターの裏通り・・・スナック・バー・キャバレー?・飲み屋・・・表の中央通りと雰囲気がまったく違います。

定時前にセンターに入り、業務開始。

・・・足がジンジンしていました。

 

午後から大分県庁近くのお客さまを訪問しました。

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お客さまへの訪問は徒歩で往復、大分城址(府内城)を通っていきます。

 

「府内」とは大分の別称です。約400年前、石田三成の妹婿福原直高12万石の居城として築かれたそうです。天守閣のあった本丸周辺の水堀は埋められ、現在は大分城址公園として利用されています。

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大阪への帰路は19:20の最終便になりました。空港へはホーバークラフトで行くことにしました。(Matsudairaさんに乗り場まで送ってもらいました。ありがとうございました。)

大分〜大分空港 約30分 片道2,980

(今回はMidoくんと同伴なので、ドリーム2枚券 5,200円を買いました。高い!)

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ドリームアクアマリン号

大分ホバーフェリー株式会社において運行している4台のうち、平成2年に建造された一番古いホーバークラフトでした。

 

初めて乗りましたが、乗り心地は最高!?

轟音と振動と排気ガスの臭い・・・

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空港には定刻とおりに到着しました。最終便とあって、ロビーは閑散としていました。

飛行機はボンバルディア・・・搭乗口から歩いて行きました。

 

大分はこじんまりとした地方都市らしく、のんびりと静かな雰囲気でした。そこで勤務するメンバーは和気藹々と真面目に仕事に取り組んでいました。大分のみんな頑張れ〜!。

国体も成功するといいですね。

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