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22 静岡県

 

日本100名城

40. 山中城

41. 駿府城

42. 掛川城

続日本100名城

145. 興国寺城

146. 諏訪原城

147. 高天神城

148. 浜松城

Aランク(日本の100名城)

40. 山中城 (静岡県三島市) 国の史跡

山中城は、伊豆国田方郡にあった中世の山城である。
永禄年間(1558年〜1570年)に小田原城の支城として、北条氏康によって築城されたが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に豊臣秀次率いる軍勢に攻撃され、わずか半日で落城し廃城となった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%9F%8E
写真のコメントは城址内の案内板の説明を参照しています。

取材:文子

 

以下説明文にあるマル数字は上のマップの番号です。

三の丸堀(C)。
他の堀と違い、自然の谷を利用した堀です。

西櫓堀。
空堀の堀底に土手を造って区画した畝堀です。

西櫓(H)からは富士山がきれいに見えました。

西ノ丸堀。
山中城の見所の「障子堀」。畝堀を複雑にし、ワッフルの網目のような形にした堀です。
これは守備のためのものです。堀の内部に敵が侵入した場合、堀に仕切りをつけると、敵兵は仕切りを伝いながら移動するか、仕切りを上り下りしながら移動するしかないため、そこを狙い撃てばよいというわけです。

西ノ丸(I)。
奥に見える高くなっている場所は見張台。

元西櫓(J)
奥に見える橋は二の丸の入口。

二の丸(K)

本丸(N)

天守台(M)

北ノ丸(L)

北ノ丸堀。
当時から2m以上埋まってしまっているそうなので、深い堀だったことがわかります。

岱崎(だいざき)出丸。
1588年、豊臣秀吉との戦いに備えて、急きょ造られた出丸ですが、未完成のうちに戦いが始まり半日で落城してしまいました。

一ノ堀(A)。
こちらもきれいな畝堀です。

41. 駿府城 (静岡県静岡市)

駿府城は、駿河国安倍郡にあった平城で、別名府中城とも言われる。
1582年に織田・徳川勢力により武田氏が滅亡し、駿河は徳川家康が領有した。1585年から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直され、1586年に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った。その後1590年、家康の関東移封が行われ、駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城した。
江戸時代に入ると家康の異母弟ともいわれる内藤信成が駿府城主となった。1607年駿府城の拡張工事を開始し、将軍を秀忠に譲り大御所となった家康が移り住んだ。
家康の第十子・徳川頼宣(後の紀伊藩主)や秀忠の第二子・徳川忠長が駿河藩主となったが、1632年忠長が乱心自刃後は幕府直轄領となり、幕末まで駿府城代が置かれた。
明治に入り城内の建物が破却され、戦前は軍隊が置かれ内堀が埋められた。戦後、本丸と二の丸は駿府城公園として整備されている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E5%BA%9C%E5%9F%8E
写真のコメントは上記Wikipedia以外に、公園内の案内板の説明を参照しています。

取材:文子

 

巽(たつみ)櫓と東御門(復元)。

東御門(復元)。
二の丸の東側に位置する、中堀に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される「桝形門」です。

本丸堀。
内堀にあたりますが、明治時代に埋められたものが発掘され、保存されています。
石垣は打ち込みはぎと呼ばれる積み方。

坤(ひつじさる)櫓(復元)。

石垣の刻印。
家康が大御所として駿府へ移り住む際の駿府城の拡張工事は天下普請で行われ、石垣の工事を担当した大名や職人の印が刻まれています。その刻印の数と種類は300以上あり、150種類を数えることができるそうです。

駿河城の天守は1635年に焼失した後は天守台だけが残っていましたが、1896年に天守台は取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられました。2016年より地中に埋没している天守台石垣の残存状況などを調べるために「天守台発掘調査」が行われています。

駿河城の天守は3回建てられました。
1回目は家康が浜松から移った天正期の1589年で、2回目は家康が大御所となって江戸から駿河に移り住んだ慶長期です。慶長期に建てられた天守は完成後まもなく焼失したため、1608年すぐに再建されました。
慶長期の天守は南北68mX東西61mの日本一の大きさの天守台です。

南西隅の石垣は地震で崩れ、積み直していると思われるそうです。
一方上の写真の北面石垣は積み直しの跡が見られないため、築城当時の石垣である可能性が高いそうです。

緑のコーン部分は慶長期の石垣で、赤のコーン部分は天正期の石垣。
天正期の野面積みから、慶長期は打ち込みはぎへと進歩しているのがわかるそうです。

天正期の左手前の赤のコーンの場所あたりからは、金箔瓦が大量に出土したそうです。
また天正期の天守台内部からは今川期の遺構や遺物も発見されています。

清水御門跡。
二の丸へ入る西側の出入口です。

清水御門発掘調査が行われていました。

中堀。
中堀と東辺以外の外堀はほぼ江戸期の姿を残しています。

42. 掛川城 (静岡県掛川市) 重要文化財・県の史跡・木造復元天守

掛川城は、遠江国佐野郡にあった平山城である。
室町時代中期に今川氏配下の朝比奈氏によって築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は、徳川家康が関東移封後に同地に入封した山内一豊によるものであり、天守も建てられた。
1568年朝比奈氏の主君今川氏真が武田信玄と徳川家康の挟み撃ちにあい、駿府から掛川城に逃げ延びた。翌年朝比奈氏は氏真の身の安全を家康に保証してもらうことで開城し、掛川城は徳川氏の領有となった。今川氏の戦国大名としての終焉の舞台となった城でもある。
江戸時代に入ると、一豊は土佐へ移封され、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り、何度か城の修築も行われている。ところが、幕末の1854年末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。このとき、政務所である二の丸御殿は1861年までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。
明治に入り廃城となり建物は撤去された。1861年に再建された二の丸御殿は移築されたが、後に元の場所に移され、江戸時代の御殿がそのまま城址に残っている4つの城のうちの1つとなっている。また天守が1994年に戦後初となる木造で復元されている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%9B%E5%B7%9D%E5%9F%8E
写真のコメントは上記Wikipedia以外に、入城時のパンフレット及び掛川城ホームページを参照しています。

取材:文子

 


復元大手門。
当時の位置より50m北側に復元されています。

大手門番所。
幕末に建てられた建物を移築しています。

大手橋から見た掛川城天守。
左手に見えるのは太鼓櫓。
この逆川(さかがわ)は外堀の役目を担っていたそうです。

正保城絵図の掛川城。
正保城絵図は17世紀半ばに徳川幕府が各地の城持ち大名に命じて提出させた、統一的な描写の城絵図です。
本丸とは別に天守曲輪があり、天守が建てられています。

〜画像はパンフレットより〜

絵図を元に作成された主要部模型。

四足門(よつあしもん)。
絵図に描かれている門を復元したものです。

天守。
3重4階の望楼型天守です。
掛川城に初めて天守を築いたのは山内一豊でしたが、1604年の大地震で倒壊し1621年に再建されました。しかし、1854年の地震により再び倒壊し、その後は再建されませんでした。
1994年に市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、日本初の木造復元天守として再建されました。
しかし絵図の残っている1621年の再建天守ではなく、資料のない初代天守を復元ということで、山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせた高知城を参考にした外観になっているそうです。

 

太鼓櫓。
1854年の大地震以後に建てられた、城下に時を知らせるための大太鼓が納めてあった櫓で、三の丸から本丸に移築されていますが現存です。

天守から見た二の丸御殿。

二の丸御殿。(国の重要文化財)
二の丸御殿が残っているのは二条城と掛川城のみです。なお、高知城川越城は本丸御殿が現存しています

掛川城御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設です。

〜画像はパンフレットより〜

掛川城御殿は七棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています。
写真は藩の公的式典の場である書院棟です。

藩主の居間として使われた長囲炉裏の間の天井。
藩主太田家の桔梗紋と替紋の鏑矢(かぶらや)紋が彫られています。

二の丸御殿の庭から見上げた天守。

 

Bランク(続日本の100名城)

145. 興国寺城 (静岡県沼津市) 国の史跡

 

 

146. 諏訪原城 (静岡県島田市) 国の史跡

諏訪原城は、遠江国榛原郡(はいばらぐん)にあった戦国時代の山城である。
戦国大名今川氏の滅亡後、駿河は武田氏に、遠江は徳川氏の所領となった。しかし、間もなく両氏は争うようになり、1573年信玄の後を継いだ武田勝頼が遠江の獲得の一環として、牧之原台地の先端に諏訪原城を築城した。
1574年武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた高天神城を武田氏が手中にしたが、1575年長篠・設楽ヶ原の戦いで武田氏が敗れると徳川家康は反転に転じて、1ヶ月余りの攻防戦の上落城し、諏訪原城は徳川氏のものとなった。その際、家康は牧野城と呼称を改め、城主として今川氏真を入れたが1年で解任され、その後は城番を置き牧野城を改修した。
1582年武田氏が滅亡すると、その存在意義が薄れ、1590年に廃城となった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%8E%9F%E5%9F%8E
写真のコメントは上記Wikipedia以外に、公園内の案内板の説明を参照しています。

取材:文子

 

家康時代の諏訪原城。(推定復元図)
諏訪原城址の現在は、建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残っています。
特に、出入口である「虎口」の外側に堀を隔てて設けられた小さな曲輪である馬出は、武田氏の城に多く見られる半月型の「丸馬出」で「丸馬出を見るなら諏訪原城」と言われるほどしっかり残っています。ただ、諏訪原城の丸馬出は、武田氏の築城時ではなく、後に徳川氏の大改修時に築造されたものだそうです。
〜お城情報サイト城びと参照〜

 

ガイダンスセンターに展示してあったジオラマ。
馬出に徳川軍がいて、三日月堀を間に武田軍と対峙しています。

大手曲輪。
元将軍の徳川慶喜が駿府に配されると慶喜を慕って随従した旧幕臣たちが、自活のために荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾し主に茶畑としたため、現在も城址一帯は茶畑となっています。

大手北外堀。

二の曲輪中馬出。
半月型だということがわかります。
ここが一番よく丸馬出がわかる場所なのですが、整備工事が今週から始まり、三日月堀側から見ることができなかったのが残念。

↓パンフレットの写真より

二の曲輪中馬出から土橋で続く北馬出を撮っています。

二の曲輪北馬出の門。
発掘調査で確認された門の礎石から復元したそうです。

二の曲輪。
南北315m、東西75mありました。

二の曲輪を仕切る土塁。
草むらの向こうの盛り上がったところです。

本曲輪。

本曲輪の背面は大井川で、大井川を超えると駿河の国です。
左手に富士山が見えます。

内堀。

147. 高天神城 (静岡県掛川市) 国の史跡

 

 

148. 浜松城 (静岡県浜松市) 市の史跡・模擬天守

浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明である。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。徳川家康が1570年に武田信玄の侵攻に備えるため、本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移し、浜松城と改称して城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。
1573年の「三方ヶ原の戦い」は、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして家康を挑発したことがきっかけになった。家康は浜松城から打って出たが、武田軍に大敗を喫し家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、浜松城へ逃げ帰った。
1586年家康は浜松から駿府に本拠を移し、秀吉の家臣堀尾氏が在城したが、江戸時代に入ると譜代大名が次々と城主となり、多くが後に江戸幕府の重職についたことから「出世城」といわれた。
明治に入り廃城となり破壊され、城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の模擬天守が建てられている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%9F%8E
写真のコメントは上記Wikipedia以外に、浜松城公園ホームページを参照しています。

取材:文子

 


浜松城は西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、梯郭式の平山城です。
天守曲輪は完全に残っており、本丸の半分は浜松城公園となり、残りは浜松市役所になっています。二の丸、三の丸は市街地化しています。
写真は本丸から眺めた天守曲輪。

天守門。
16世紀末に建てられた櫓門で、廃城時まで存続し、2014年に復元しました。
野面積みの石垣がかっこいい。

こちらは搦め手側にある埋門。

模擬天守。
堀尾氏時代の16世紀末に天守台が造られたため、天守も建てられたと推察されるが、江戸時代には既に天守はなかったので天守があったかは明らかになっていません。そのため、復興天守と浜松市の案内にはありますが、模擬天守と区分されます。
野面積みによる天守台は創建当時の姿がよく残されているそうです。

天守から見た天守門。

天守から見た本丸。

富士見櫓から見た天守曲輪。

曳馬城跡。
現在は家康を祀る東照宮になっています。
曳馬城は豊臣秀吉にもゆかりがあり、秀吉は曳馬城を整備した飯尾氏の配下である松下氏に16歳から3年間仕え、浜松で過ごしていたそうです。

 

Cランク