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〜〜〜 くらさんの大阪うぉーきんぐ 〜〜〜

No.001 皇都・難波長柄豊碕宮の謎を追う

〜豊崎神社から我が国初の火葬所・南浜墓地まで〜

大阪あそ歩 OSAKA ASOBO No.060

 

 

20169月、誕生日を迎えた日の朝にこう思った。

もうxx歳になってしまった…あと何年生きられるのだろう…毎日飲みっぱなしで、先は長くなさそうだなぁ。

タバコをやめて、酒の量を減らして、運動をして…多少は伸ばせるかもしれないなぁ。

うーん…ウォーキングでもやってみようかな。 でも目的もなく歩くって無理だなぁ。 ウォーキングマップみたいのないかな。  ってことで、見つけたのが「大阪あそ歩(OSAKA ASOBO)」だった。 

 

「大阪あそ歩(OSAKA ASOBO)」ってなんだ?

「大阪あそ歩」は、「大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会」(大阪観光局、大阪市、大阪商工会議所、一般社団法人大阪あそ歩委員会)と同時に発足したまちあるき事業で、総勢200名を超える市民ガイドが、1500年の歴史に彩られた町人のまち・大阪をご案内しています。これまで、大阪市民を始めとした多くの根強いリピーターに支えられ、2012年の秋には、まち歩き事業として初めて「第4回観光庁長官表彰」を受賞しました。

現在、ウォーキングマップは150コース揃っています。            https://www.osaka-asobo.jp/ 

 

さてさて、今回は記念すべき第一回ですので、ウォーミングアップということで近場を歩いてみることにします。

あ、その前にこのコンテンツの注意点です。

 @この記事の表題は「大阪あそ歩」のガイドマップ表題を使います。

 Aまた、表題の下にガイドマップ番号を記載します。

 Bこの記事内の説明に使うマーカー「」は、ガイドマップからの転載とします。

 Cガイドマップの著作権は「大阪あそ歩事務局」に属します。

 

第一回 「中津・豊崎」に行ってきま~す。

孝徳天皇の皇居で、日本初の本格的な首都の宮殿建築だったという難波長柄豊碕宮。現在は法円坂にある史跡難波宮がその跡とされていますが、長く豊崎神社にあったという「下町説」も有力でした。中津駅からレトロな商店街や中津芸術文化村ピエロハーバー、佐伯祐三の光徳寺、行基ゆかりの我が国初の火葬所・南浜墓地などを廻りながら、都のロマンに浸ってください!

 

@ 阪急中津駅

大正14(1925)に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の駅として開業しました。同名の駅である地下鉄御堂筋線の中津駅とは約300メートルも離れていて乗換駅にはなっていません。2007年の調査では、1日の平均利用客は約11,000人ほどです。

 

正面にみえるのが、知る人ぞ知る超有名店「大衆酒場いこい」です。

 

 

A 中津芸術文化村 ピエロハーバー

近年、中津界隈では使われなくなった長屋や、高架下スペースの倉庫群を利用して、映画撮影やアートイベントなど、新しい発想で活用する若者たちが増えています。そのランドマークが中津芸術文化村ピエロハーバーです。カフェ、小劇場を併設する文化と芸術の地域テーマパークです。

 

ということなので、ガイドマップに書いてある「チャップリンの壁画」を探しましたが・・・発見できませんでした。工事用の囲い塀の隙間から覗くと、ここが「中津芸術文化村 ピエロハーバー」の廃虚でした。

中津公園を抜けて中津商店街に向かいます。

 

 

B 中津商店街

コロッケ、豆腐、天ぷら、駄菓子、日用雑貨などの店が並び、いかにも昭和という感じのレトロな商店街です。中津は梅田近くで高層ビル群を間近に望んでいますが、意外なところに長屋や路地が残っていて、まち全体に懐かしい雰囲気が醸し出されています。

 

ということでしたが、ほとんどシャッターが下りて閉店中だったぞ!。

 

C カンテ・グランデ

「カンテ・グランデ」とは、スペイン語の「CANTE=歌」と「GRANDE=偉大」をくっつけた造語です。大阪のインド系喫茶の草分け的存在ともいわれています。緑あふれる開放的な空間で、チャイや中国茶、ケーキなどが楽しめます。ここでウルフルケイスケとトータス松本がバイト仲間として出会い、のちにロックバンド「ウルフルズ」が結成されました。

 

D 富島神社

速素盞嗚尊を主神に祀っています。創立年代は不詳ですが、社伝によると室町時代には既に存在していて、牛頭天王社・祇園社と称していたといいます。利島神社と呼ばれていた時期もあったようです。明治後期に付近にあった春日神社、天満宮、鷺島神社、八坂神社などを合祀しました。その後、この辺りを「富島の荘」と呼んでいた時代があったことから、社名を富島神社に改めました。節分には厄除けの土鈴「富の鈴」が授与されます。

 

 

E 光徳寺

寺伝によれば、天正8(1580)ごろに本願寺11世顕如の直弟子となった佐伯祐西が開山しました。かつては1万坪ともいわれる広大な寺域を持ち、淀川縁まで茶畑、梅林、竹薮が続き、本堂、庫裡、鐘楼、太鼓楼なども有した大伽藍であったそうですが戦災で全焼してしまいました。戦後に再建。佐伯祐三の顕彰碑、墓があります。

 

お寺らしき建物は見つかりませんでしたが、「宗教法人 光徳寺」の表札?がありました。 鉄柵で入ることができませんでした。 裏に寺があるのかな?と思い、周回してみましたが・・・コンクリート塀の隙間から墓地が見えるだけでした。

 

F 佐伯祐三生誕地・墓所

洋画家・佐伯祐三は明治31(1898)に、光徳寺住職13世裕哲の男4人女3人の兄弟の次男として生まれました。中津尋常小学校(現・中津小学校)から北野中学校(現・北野高校)に進み、東京美術学校(現・東京芸術大学)の油絵科を大正12(1923)に卒業。その間の大正6(1917)には、東京・小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入って、洋画家・藤島武二(与謝野晶子の詩集『みだれ髪』の表紙絵や、雑誌『明星』の挿絵などで有名。

 

のちに文化勲章受賞)に師事しています。大正13(1924)にさらなる研鑽を積むためにフランスへ。ここで自信作『裸婦』を持って野獣派の画家ブラマンクを訪ねたところ、1時間半にも渡って「このアカデミックめ!」と罵倒されました。この衝撃的な出会いで佐伯は自己の資質を開花させ、東洋的な視点によるパリ郊外の情景などを描いて独自の画風を確立しました。

 

健康を害したので昭和元年(1926)にいったん日本へ帰国しますが、翌年(1927)に再渡仏。鬼気迫るかのように絵を描きましたが、持病の結核が悪化したほか、精神的にも不安になり、自殺未遂を経てセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒んで昭和3(1928)816日にわずか30歳で衰弱死しました。短い創作期間でしたが『郵便配達夫』『ヴェルダン』『ノートルダム寺院』『サンタニス教会』など400点をこえる作品を残し、日本近代洋画の天才として、その名を刻みました。佐伯祐三の作品は大阪市立近代美術館建設準備室に多数所蔵されています。

 

ガイドマップ内で一番長い説明文なので、作った人の力の入れようは伝わりますが、コンクリート塀の隙間から覗き見するのが精一杯でした。 ですので、どれが該当のお墓なのかも分かりません。

 

G 森本薫文学碑(中津公園)

森本薫は日本の劇作家です。明治45(1912)に現在の中津6丁目で出生しました。旧制北野中学を経て第三高等学校文科、京都帝国大学文学部英文科を卒業しています。旧制高校在学中に発表した一幕ものの戯曲『ダムにて』が処女作で、京大時代に劇団エラン・ヴィタールに参加して作家、演出家、俳優として活動。昭和15(1940)には親交のあった獅子文六(文学座創立メンバー。のちに文化勲章受賞)に推されて文学座に参加しました。

 

文学座の座付き作家として活躍しながら、ラジオ・ドラマの台本や映画シナリオなど多彩な才能を発揮しましたが、大学時代より患っていた肺結核が戦時中に再発、悪化。昭和21(1946)34歳の若さで亡くなりました。代表作は北里柴三郎博士をモデルとする『怒濤』や、大富豪の虚栄と実存が見事に織り交ぜられた家庭劇『華麗なる一族』、明治・大正・昭和の3代にわたる一女性の苦難の足跡を描いた『女の一生』などです。とくに『女の一生』は主人公・布引けい役の杉村春子の名演によって、文学座の重要なレパートリーとなりました。

大阪市営地下鉄新御堂筋線を渡ります。

 

 

H 豊崎神社

主祭神は孝徳天皇です。明和9(1772)の火災で惜しくも記録一切を失っていますが、社伝によれば、かつては難波長柄豊碕宮(652686)の廃墟で、荒地の松林となって八本松とよばれていたとあります。その後、藤原重治なる人物が、この地を開墾するさいに宮地が埋滅していくのを痛み、正暦年間(990995)に小社を建てたのが神社のはじまりといいます。

 

明治以降、八幡神社、東照宮、鹿島神社などを合祀しています。東照宮は慶長19(1614)の大坂冬の陣のさいに徳川家康が足立市兵衛宅へ立ち寄り、そこの麦飯に喜んで家紋と家名を賜ったという故事があり、その足立邸に勧請されていたものです。また境内に「神石」があり、これは「孝徳天皇の御沓脱石」と伝わっています。

豊崎神社本殿

鹿島神社

東照宮社

 

恵美須神社

稲荷神社

 

I 難波長柄豊碕宮下町説

難波長柄豊碕宮は、孝徳天皇の皇居で、日本初の本格的な首都の宮殿建築だったといわれています。かつて長い間、宮跡が見つからず、「幻の皇都」でした。色んな説が唱えられましたが、とくに以下の3つの説が有名でした。

 

1つは法円坂一帯にあるという「上町説」。

2つめは豊崎神社附近から長柄へかけてあったという「下町説」。

3つめが「垂水の庄から水を引いた」という記録から、新淀川の右岸一体にあったという「宮原説」です。

 

しかし、昭和28(1953)に法円坂付近から巨大な鴟尾が発見され、昭和36(1961)に山根徳太郎博士の手によって大極殿跡が発見。これが難波長柄豊碕宮であると考えられるようになり、他説は否定されました。しかし、いまでも「下町説」「宮原説」を強く主張する人はいます。

神石

 

 

J 南浜墓地

奈良時代の大僧正・行基(668749)によって、当地に天平19(747)、阿弥陀如来六観音六地蔵尊が安置され、荼毘開闢の供養が行われました。我が国最初の墓所であり、火葬所のはじまりともいわれています。源光寺記には「聖武帝天平勝寶年中、大僧正行基三昧火坑を始むるの古蹟なり。今濱の墓所と云ふ。」と記されています。

 

江戸時代には、「濱」(南浜墓地のことです)「梅田」「葭原」「千日」「蒲生」「鳶田」「小橋」の7つの墓所は「大坂七墓」と呼ばれていました。大塩平八郎が建立した先祖の墓があり、その墓石の文字は平八郎の筆跡です。

地蔵堂の横にある細道に入ると墓所です。

おそらく、この墓石…だと思う。そんな気がする。

 

K 源光寺

山号は清淨瑠璃山といいます。寺伝によれば、入江長者が娘の病を治した行基に土地が寄進され、天平19(747)に聖武天皇の勅願で、行基の手によって開山されたといいます。創建当時は八町四方に七堂伽藍が揃った大寺院でしたが、中世には荒廃していました。

 

建永元年(1206)に法然上人が勝尾寺から四天王寺へ日想観を修するために赴く途中に立ち寄り、「源をはづねてぞ知るこの寺の光あまねき法のともしび」と詠んで再興に尽力して、浄土宗の念仏弘法道場にしました。現在は浄土宗知恩院派の寺院となっています。

 

ということで、ガイドマップに沿って周回してきましたが、なんだかイマイチだったなぁ…初回ということで会社周辺にしたのだが、神社とお寺と墓地めぐりばっかりだったよなぁ・・・歩いていても面白くなかったなぁ。 早くも挫折気味です。

 

おまけ

会社近くのJR貨物線の下、貨物線といっても特急「はるか」が走っています。

けた下1.4mです。 タクシーが通行時に頭に付けている提灯を壊してしまう事から「提灯殺し」と呼ばれているそうです。

 

【今日のアクティビティデータ】  歩数:9,148歩 距離:9.9km 移動階数:5階 

 

※この記事のマーカー「」以降は、ガイドマップからの転載です。

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