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29 奈良県

 

日本100名城

61. 高取城

続日本100名城

165. 大和郡山城

166. 宇陀松山城

Aランク(日本の100名城)

61. 高取城 (奈良県高取町) 国の史跡・三大山城

高取城は、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城であり、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。
南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が1332年に築城したのが始まりと伝えられている。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。しかし織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は1580年に一旦は廃城となり、1583年に筒井順慶の配下となっていた越智氏は殺害され滅亡した。
織田信長が殺害された後、筒井順慶は高取城を本格的城塞へと改めた。1585年、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。1589年、利久は新しい縄張りをもって築造した。
秀吉没後の混乱期に、利久の子・俊政は徳川家康についた。1600年、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。
本多氏が跡継ぎがなく断絶後、1640年旗本の植村家政が2万5千石の大名に取り立てられ新たな城主となった。以後、明治維新まで植村氏が14代にわたって城主となった。
明治の廃城後、天守以下の建物全ての取り壊しが行われたが、人里離れた山頂にあることが幸いし、石垣、堀といった遺構はほぼ完全な状態をとどめている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%96%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及びパンフレットを参照しています。

取材:文子

 

高取城縄張図。  〜パンフレットより〜

高取城AR。
山城にもかかわらず、石垣に囲まれ天守や多くの櫓が建っていたそうです。

縄張図の〇で囲んである壺坂口から登ったのですが、途中は足場が悪い坂だったので、登るのに必死で写真を撮る余裕もありませんでした。
壺坂口郭に入ってやっと撮った石垣。野面積みです。

国見櫓からの眺め。
大阪方面にはあべのハルカスも見えました。
かつて国見櫓と呼ばれる二層の櫓が建っていた場所からは、その名の通り大和が一望できました。

水堀。
二ノ門の脇に、山城には珍しい石垣造りの水堀がありました。

猿石。
明日香村で見つかっている吉備姫王墓の石像と類似していることから、そこから高取城へ運ぶ途中に置かれたのではないかと考えられていますが、詳細は謎のままです。

大手門。

二ノ丸と十五間多門跡。

太鼓櫓(階段右)と新櫓。
本丸の手前に配置されていました。
右手の紅葉の下が十五間多門です。

天守台の高石垣。
12mあり、織豊時代の石垣としてはもっとも高いそうです。

本丸虎口。

本丸の奥は急峻な崖になっており、簡単には攻められません。

天守台穴蔵入口の転用石。
古墳の石棺が石垣に使われているそうです。

本丸には本丸御殿がありました。

わかりずらいですが、石垣が壮観です。

 

Bランク(続日本の100名城)

165. 大和郡山城 (奈良県大和郡山市) 国の史跡

大和郡山城は、豊臣政権の中初期には秀吉の弟・豊臣秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。
10世紀後半、郡山衆が雁陣(がんじん)の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。1580年筒井順慶が織田信長の援助を得て大和国守護となると、郡山城を本城とする改修を開始し1583年に「天守」が完成する。
筒井順慶死去後の1585年、豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている。
秀長が没しその養子豊臣秀保も死去すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了し、五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城した。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され、郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。関ヶ原の戦い後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物のほとんどは徳川家康により伏見城に移築された。しかし、天守は二条城に移されたという。
大坂夏の陣の後、家康の従弟である水野勝成の入封時に徳川幕府によって荒廃した城郭の改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、1724年に柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。
1873年の廃城令によって郡山城は破却され、建築物は入札によって売却され運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD)
写真のコメントはWikipedia及びパンフレットを参照しています。

取材:文子

 

郡山城マップ。  〜パンフレットより〜
(説明文中の数字はマップの番号)
本丸を二の丸、三の丸が囲む輪郭式の平山城です。
現在は本丸と毘沙門曲輪が整備、再建されています。

鉄御門(くろがねごもん)址。(@)

追手向櫓(再建)。(B)

追手門(梅林門)(再建)。(A)

極楽橋(再建)。(F)
内堀に架かる本丸へ通じる橋です。

極楽橋から見た本丸を囲む高石垣。

天守台(H)と左手に初代郡山藩主・柳沢吉里の父であり、5代将軍・徳川綱吉に重宝された側用人の柳沢吉保を祀る柳沢神社(G)。

筒井順慶の時代に望楼型3重の天守がありました。その後豊臣時代に5重6階の天守が建てられたと伝えられていますが、天守台の大きさから建築学上不可能とされています。

2013年から2017年にかけて調査・整備事業が行われ、礎石が確認されました。この調査で、豊臣秀長時代あるいは増田長盛時代には天守が存在したことが確実となりましたが、大きさは不明のままです。
写真は展示されている礎石。

天守台。
天守台の野面積みの石垣には多くの転用石が積まれており、中でも地蔵が逆さまに積まれている「逆さ地蔵」が有名です。

右が「逆さ地蔵」。暗くてわからないです。

天守台からの眺め。
毘沙門曲輪跡を眺めています。

天守台からの眺め。
厩跡を眺めています。

天守台からの眺め。
北には平城宮跡や薬師寺の塔が見えました。

166. 宇陀松山城 (奈良県宇陀市) 国の史跡

 

 

 

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