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33 岡山県

 

日本100名城

67. 津山城

68. 備中松山城

69. 鬼ノ城

70. 岡山城

続日本100名城

171. 備中高松城

Aランク(日本の100名城)

67. 津山城 (岡山県津山市) 国の史跡・三大平山城

津山城は美作国苫田(とまた)郡にあった城で、別名・鶴山城(かくざんじょう)と呼ばれる。
城郭の形式は、城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御設備とした梯郭式の平山城で日本三大平山城のひとつである。
1603年に津山藩に入封した森忠政(森蘭丸の弟)が翌年築城に着手し13年かけて完成した城は、天守、櫓、城門などを合わせ80余棟が建ち並び、広島城や姫路城を凌ぐ大きさであった。
1873年の廃城令により取り壊され、現在は、遺構としては石垣が残っているだけであるが、備中櫓と土塀が復元されている。
森氏が四代95年にわたって美作国を治めたが、四代城主長成に跡継ぎがなく断絶し、その後徳川家康の次男結城(松平)秀康の曾孫松平宣富が入封し、松平氏が廃藩まで続いた。

(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E5%9F%8E

取材:文子

 


2005年に復元された備中櫓。

表中門跡。
これらの石垣に櫓が建っていたそうです。なかなか壮観。

見付櫓に上がる石段。

表鉄門跡。
本丸入口です。

備中櫓。
備中櫓は本丸御殿の南西端にありました。

備中櫓内部。
御座之間や茶室を備え、建具には唐紙を用いるなど、内部は完全に御殿建築だったそうで、それを復元しています。

天守台。
4重5階地下1階の層塔型天守で、小倉城を模して造られたともいわれていました。

天守台から見た備中櫓。

津山城が大きかったことがわかります。

裏鉄門跡。

裏中門に降りる石段。
裏中門を抜けると二の丸です。

二の丸。
二の丸は今はモミジの木が多く植えられていて、ちょうどもみじ祭りの期間でした。

68. 備中松山城 (岡山県高梁市) 重要文化財・国の史跡・現存天守・三大山城

松山城は備中国にあった山城で、松山市にある松山城を初め、各地の同名の城との混同を避けるために、一般的には「備中松山城」と呼ぶことが多い。現存天守12城の一つでもあり、この中で唯一の山城である。
4つの峰からなる標高約480mの臥牛山(がぎゅうざん)一帯に砦が造られ、そのうち一つである小松山(標高430m)の山頂に現在残っている天守がある。
備中松山城は鎌倉時代の1240年に秋庭氏が砦を築いたのが始まりで、戦国時代、三村元親の時代には臥牛山全域におよぶ一大要塞となった。しかし、1574年毛利氏との戦いで落城し毛利氏の所有となった。
江戸時代となってからは、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。
1642年、水谷氏が城主となると、城下の町割や城の修築などで藩の基礎を整備し、2代目の勝宗は1681年〜1683年にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし水谷氏は三代で跡継ぎがなくなり断絶し、赤穂藩主・浅野長矩(ながのり)が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となり約1年滞在した。
幕末、老中を務めていた板倉氏は朝敵とみなされ危機に陥ったが、備中松山藩に仕えていた漢学者・山田方谷(ほうこく)の決断で無血開城し城は守られた。
1873年の廃城令により全国の多くの城が取り壊され、備中松山城も麓にあった藩主の居宅は破壊されたが、天守や櫓、門などは不便な山の上にあったことが幸いし、そのまま放置された。
昭和初期、高梁中学校教諭の信野友春が城を調査し本を出版した。それをきっかけに建物の修復の機運が高まり、1939年に天守の解体修理と土塀の補修が行われ、1941年には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀の3棟が旧国宝に指定された。

(備中松山城HPより転載)  https://www.bitchumatsuyamacastle.jp/

(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%82%99%E4%B8%AD%E5%9B%BD)

取材:文子

 


車で行ける標高約290mのふいご峠から標高430mにある天守まで約20分歩いて登るしかありません。

大手門跡。
天然の岩盤の上に石垣を築き、更に土塀を建てているこの城郭は大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像に使用されました。直接真田丸には関係ないが、真田氏の居城のイメージに近かったことから、NHKのディレクターの目に留まり、ロケ地に選ばれたそうです。

三の平櫓東土塀。(国の重要文化財)
土塀の一部が現存のもので、残り半分は復元されたものです。

三の丸。
大手門の上部に位置し、大手門に侵入した敵をこの三の丸から攻撃できるようにしています。

本丸。
本丸東御門は復元されたもので、本丸の勝手口に当たります。本丸内で唯一の引戸です。

天守が見えてきました。
登城まであと少し。

天守。(国の重要文化財)
2重2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下・現在は入口になっている)が附属する複合式 望楼型天守です。

1階には籠城時に城主の食事の準備や暖房に使う囲炉裏、2階には城の守護神を祭る「御社壇(ごしゃだん)」と呼ばれる部屋がありました。
囲炉裏がある天守は初めて見ました。珍しいそうです。

二の丸を後曲輪の方へ廻ってみました。
思わず「かっこいい!」と口に出てしまった石垣です。

紅葉が美しい!。

二重櫓。(国の重要文化財)
この櫓も江戸時代からの現存櫓です。

69. 鬼ノ城 (岡山県総社市) 国の史跡

 

 

70. 岡山城 (岡山県岡山市) 重要文化財・国の史跡・外観復元天守

岡山城は備前国御野(みの)郡にあった平山城で、外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。
今の岡山城付近には旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘があり、石山にあった城を本拠地としたのが宇喜多直家で、その子秀家が岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭を建造したのが岡山城である(1597年天守完成という)。
城郭の形式は梯郭式で、旭川の流れを変更し、天然の堀として北や東を守るようにしている。
関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は西軍で敗戦したため小早川秀秋が城主となり、岡山城の改築を始めたが1602年に急死し、世継ぎがいなかったため断絶した。その後、姫路城主池田輝政と徳川家康の娘との間の子の忠継が岡山城主となったが、幼少(5歳)のため兄の利隆が国政を代行した。忠継は岡山城入城後まもなく死去し、同母弟の忠雄が岡山城主になった。忠雄死後は嫡男・光仲が幼少ということで、姫路から鳥取に転封されていた利隆の嫡男・光政と入れ替えられて光政が城主となり、幕末まで光政系池田氏の居城となった。
1873年の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。残ったこれらは旧国宝に指定されたが、岡山空襲で天守・石山門を焼失した。
1964〜1966年に外観復元天守として鉄筋コンクリートにて再建した。

(岡山城HPより転載)  https://okayama-castle.jp/

(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E

取材:文子

 


後楽園側から見た天守。
天守台が不等辺五角形をしているのが特徴で、後楽園側からだとその形がわかります。

廊下門と渡り廊下。
搦め手の櫓門で、本段(城主の住居)と中の段(政治の場)を結ぶ城主専用の廊下としても使用されており、廊下門と呼ばれていました。
1966年に再建されました。

月見櫓。(国の重要文化財)
唯一の現存建築物です。
外から見ると二階建。

城内から見ると三階建。
正式には二重二階地下付だそうです。

宇喜多秀家による築城時の石垣。
発掘調査で見つかった石です。

中の段。
藩政庁兼藩主公邸がありました。

本丸全景。

不明門(あかずのもん)。
本段に上がる入口で、本段には限られた人しか入れず普段閉ざされていたため、こう呼ばれています。
1966年に再建されました。

天守の礎石。
天守は空襲で消失し、元の位置に再建されました。消失前の柱を支えていた礎石を移して、元通りに並べています。

天守。
1966年に外観復元天守として再建され、2021年6月から2022年10月にリニューアル工事が行われ、再オープンしたばかりです。

天守からの眺め(後楽園側)。

天守からの眺め(県庁側)。
天守内部の展示物は、最新ということもあって見やすく楽しめました。

 

Bランク(続日本の100名城)

171. 備中高松城 (岡山県岡山市) 国の史跡

 

 

 

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