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21 岐阜県

 

日本100名城

38. 岩村城

39. 岐阜城

続日本100名城

141. 郡上八幡城

142. 苗木城

143. 美濃金山城

144. 大垣城

その他の城

神岡城

Aランク(日本の100名城)

38. 岩村城 (岐阜県恵那市) 県の史跡・三大山城

岩村城は、大和の高取城(奈良県)、備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれている山城である。
1185年源頼朝の重臣・加藤景廉(かげかど)がこの地の地頭に命じられ、その子景朝(かげとも)が遠山氏を名乗り築いたとされ、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまで城主であった。
1572年遠山氏最後の城主・遠山景任(かげとう)が病没すると、織田信長は5男で幼少の御坊丸を岩村遠山氏の養子とした。そして景任の妻で信長の叔母のおつやの方が後見となり、女城主として差配を振るった。しかし、武田信玄の家臣・秋山信友に攻撃され、信長も他の戦で助けに来られず、おつやの方は3か月の籠城の後、秋山信友と婚姻するという条件で降伏した。信友は御坊丸を甲府の信玄のもとに人質として送ってしまった。これを聞いた信長は大いに怒り、岩村城を奪われたのを無念としていた。1575年の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行い、半年間の籠城後ついに陥落した。信長は信友をはじめおつやの方らを逆磔(さかさはりつけ)にして処刑した。これが女城主ものがたりである。
その後岩村城は信長の家臣らが城主となり、森蘭丸をはじめとする森家兄弟たちも城主となっている。この時に城代となった森家家老、各務元正は約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。
江戸時代に入ると松平家乗が城主となって岩村藩が立藩した。大給松平(おぎゅうまつだいら)家2代、丹羽家5代、大給松平家分家7代と譜代大名が藩主となり明治維新を迎え、1873年廃城令により城は解体され石垣のみとなった。

(岩村町観光協会ホームページより転載) https://iwamura.jp/
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9D%91%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及び岩村町観光協会ホームページやパンフレットを参照しています。

取材:文子

 


岩村城跡マップ。(マル数字は説明文で使用)
岩村町観光協会ホームページより〜
クリックするとマップが表示されます。

藩主邸跡に復元された太鼓櫓・表御門。
松平家乗が山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備しました。

移築された藩校「知新館」の正門。
信濃小諸城より岩村へ転封となった大給(おぎゅう)分家の松平乗紀は、全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けました。

藤坂(@)。
石畳の道です。登城口から本丸までは800m、約30分の道のりで、最初は急な登り坂が続きました。

初門(A)。
一直線に登ってきた道は、ここで大きく曲げられています。
敵がせめてきたときに一気に登れないようにする工夫です。有事の際に仮設の門を設ける計画だったと言われています。

一の門(B)。
最初の門で、櫓門と多門櫓、その両脇の曲輪により厳重に守られています。
下は案内板の絵図。


土岐門(C)。
一の門に続く第二の門です。
岩村遠山軍が土岐氏を破り、その城門をここに移したという伝説から土岐門の名があります。
岩村の徳祥寺には土岐門が移築され現在も残っているそうです。

畳橋・追手門・三重櫓(D)。
土岐門に続く第三の門です。
空堀に畳橋が架かっており、追手門の脇には天守に相当する三重櫓が建っていました。
下は案内板の絵図。

左の絵図でも想像がつかないということで、CG復元したサイトがありますので、そこから拝借した画像です。
http://shiro.hot-iwamura.com/tour/
今歩いている場所は空堀ということですね。

霧ヶ井(E)。
戦いのときに、この井戸に秘蔵の蛇骨を投入するとたちまち霧が湧き出し城をすっぽりと包み、敵の攻撃を阻んだという伝説がある霊泉で、岩村城は別名「霧ヶ城」ともよばれます。
この水は今も湧き出ています。

八幡神社(F)。
八幡曲輪の一番奥にあり、遠山氏が崇敬したという神社です。

八幡曲輪。

六段壁(J)。
元は案内板の絵図のように最上部のみの高石垣でしたが、江戸時代後期に崩落を防ぐために前面に石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿になりました。

六段壁横の階段を上がると東曲輪(K)。

さらにぐるっと曲がって上がると、長局埋門(L)。
本丸は上下2段の曲輪からなっており、門の内側の下段は長局(ながつぼね)と呼ばれています。
両側の石垣に多聞櫓を乗せ、石垣の間に門を設けた櫓門です。

東口門。
本丸の正門です。
本丸の下段から上段に入る門は三個所ありましたが、防御は重要視されておらず、本丸御殿の格式を整えることを重視していました。

本丸(O)。
天守はなく、本丸櫓と納戸櫓の二重櫓2棟と多聞櫓が石垣上にありました。
山の頂きにありながら、枯れることがなかった「昇竜の井戸」が奥に見えます。
城内には井戸が17ヶ所もあったそうで、籠城に強い城だと言えます。

出丸(P)。
現在は駐車場になっている出丸は城の南西の防御を担う重要な曲輪で、二重櫓2棟、多門櫓3棟で厳重に守られていました。

棚門。
本丸へ入る三個所の門の1つで、簡素な冠木門(かぶきもん)でした。

埋門(M)。
本丸の裏門にあたります。
野面積み・打込み接ぎ・切込み接ぎの石垣を一度に見ることができる珍しい場所です。
特に左手の石垣は、江戸時代初期の野面積みです。
右手の石垣には二重の納戸櫓が構えられていました。

39. 岐阜城 (岐阜県岐阜市) 国の史跡・模擬天守

岐阜城は、鎌倉時代初め二階堂行政(頼朝死後の鎌倉幕府の十三人の合議制のうちの1人)が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。その後、戦国時代に斎藤道三が居城として稲葉山城を修築して城下を整備した。1567年この城を攻め落とした織田信長は居城として大改修を実施し、「稲葉山城」と「井の口」という地名を中国の故事にちなんで岐阜と改めた。
信長が城主の時代は、金華山山頂に3重の天守が建ち金の鯱が輝き、居宅は「千畳敷」という曲輪に、4階の豪華絢爛たる楼閣があったというが、信長は1576年息子信忠に家督を譲り安土城に移った。
関ヶ原の戦いでは城主織田秀信(信長の孫)が西軍に属し、東軍の福島正則、池田輝政に包囲され攻め落とされ、翌年徳川家康によって廃城となり、天守や櫓等は加納城へ移された。
現在の岐阜城は、1956年に再建された鉄筋コンクリート造りのものであり、岐阜城跡として金華山が国の史跡に指定されている。

 (日本100名城ガイドより転載) https://www.100finecastles.com/castles/gifujo/

取材:文子

 


岐阜城にはロープウェイを使って登ることができますが、「七曲口」という岐阜城の大手道として岐阜城に用事がある際に使われ、信長や岐阜城を訪れたルイス・フロイスも登ったという道を登ることにしました。
「七曲口」が岐阜城の登山道の中では最もなだらかだそうです。

最初のうちは上の写真のような道が続いていており、最もなだらかで家族向け登山道ということで安心していたのですが、そのうち石段になり、3分の2登ったあたりから、足が重く息があがってきてしまいました(^_^;)

約50分ほど登り、岐阜城が見えてきました。

眼下に見える長良川。

下りは疲れてロープウェイで降りました。

山麓では、信長屋敷跡の発掘調査が行われています。

発掘調査の結果やルイス・フロイスの書簡などから作成した信長の屋敷の復元イメージCG。
広大で非常にりっぱな館です。

 

Bランク(続日本の100名城)

141. 郡上八幡城 (岐阜県郡上市) 県の史跡・模擬天守

戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後東氏は郡上八幡の町を挟んで反対側にある東殿山(とうどやま)に東殿山城を構えたが、永禄2年(1559年)八幡山の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。遠藤氏は東殿山城を奪って郡上一円を支配したもののこの城を好まず、東殿山城を攻撃した時の砦跡に城を築いた。これが郡上八幡城の起源である。
その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後一時稲葉貞通が城主となり、この際に天守や二の丸などが建造されている。その後関ヶ原の戦いの功により再び慶隆が城主となり、以来廃藩置県まで郡上藩の藩庁となる。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以下井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となる。廃城の翌年、石垣のみを残し取り壊された。
現在の天守は、大垣城(当時)を参考に1933年(昭和8年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた。石垣が岐阜県史跡に、天守が郡上市有形文化財に指定され、内部は歴史資料館などとして利用されている。山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しい。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。
日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%9F%8E

取材:大倉

 

142. 苗木城 (岐阜県中津川市) 国の史跡

 

 

143. 美濃金山城 (岐阜県可児市) 国の史跡

 

 

144. 大垣城 (岐阜県大垣市) 市の史跡・外観復元天守

大垣城は別名麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれ、1535年に宮川安定が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない。当時は、市内を流れる水門川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったという。戦国時代になると美濃斎藤氏の家臣・氏家直元が大規模な改修をして本格的な城郭として整備された。戦国時代は大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わった。
この地域の支配権を獲得した豊臣秀吉は大垣城を「かなめの所、大柿の城」と語り、池田恒興、輝政父子を始め秀吉と関わりの深い一門が歴代の城主を務め、大垣城は近世城郭としての整備が進み4重4階建ての天守も建てられた。
秀吉の死後、関ケ原の戦いでは城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成の本拠地となった。
関ケ原の戦い後は譜代大名が城主となり、1635年に戸田氏鉄(うじかね)が城主となって以降は明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった。松平忠良(久松松平氏)の時代の1620年には複合式層塔型3重4階(4重4階の説もあり)の天守に改修された。
明治の廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし1945年の大垣空襲により天守や艮(うしとら)櫓などが焼失した。
天守は1959年に、乾櫓は1967年に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた。2011年、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事を行った際、改変された外観が、史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修された。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9E%A3%E5%9F%8E

取材:文子

 

大垣城鳥瞰図。
この写真は出典さえ明記してあれば二次使用可ということで余湖くんのお城のページより拝借しました。「正保城絵図」を元に作成した鳥観図だそうです。
戸田氏の改修後は、並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていました。
本丸には北西隅に天守、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられていたそうです。
現在では大半が市街地化して失われ、面影があるのは本丸だけです。


現在の大垣城の正門として使われている東門。
柳口門を復元したものですが、本来はここに門はありませんでした。

天守。
内部は関ケ原の戦いをテーマにした展示が行われてますが、関ケ原で記念館に入ってきたのでここはパス。

天守は外観復元されていますが、石垣も当時の物が残っておらず、見所はありませんでした。
第二次世界大戦では廃城令で破却されなかった天守もいくつか空襲で焼け落ちてしまい残念です。

桜の季節に再訪しました。

天守と美濃大垣藩・初代藩主である戸田氏鉄(とだうじかね)の騎馬像。

天守と乾隅櫓(復興)。

 

Cランク

神岡城 (岐阜県飛騨市) 模擬天守

越中国への侵攻拠点とする事を目的に、永禄7年(1564年)に武田信玄の命令で江馬時盛が築城し、高原諏訪城の支城となった。その後の天正13年(1585年)の金森長近による飛騨攻略の結果、その家臣・山田小十郎が城代となった。元和元年(1615年)に江戸幕府の命令で破却され、遺構は石垣と堀のみが残った。
1970年に神岡鉱山を所有する三井金属鉱業神岡鉱業所の創業100周年記念として、模擬天守と模擬城門が建築されている。現在は郷土館、鉱山資料館などがある。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B2%A1%E5%9F%8E

取材:大倉