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日本100名城

62. 和歌山城

続日本100名城

167. 新宮城

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紀伊田辺城

Aランク(日本の100名城)

62. 和歌山城 (和歌山県和歌山市) 重要文化財・ 国の史跡・外観復元天守・三大連立式平山城

和歌山城は、徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。

徳川頼宣は1621年より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。後、数度の火災に遭ったが、その度に再建された。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である。
明治維新後も本丸の天守、櫓群は遺ったが太平洋戦争末期の和歌山大空襲で焼失する。 現在は、本丸と二の丸が和歌山城公園となっている。主に三の丸跡等には県庁、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所・和歌山家庭裁判所・和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。
遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存し、岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は県指定特別天然記念物に指定されている。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されている。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E

取材:大倉(文子による攻城記へ

 

取材:文子

写真のコメントはWikipedia及びパンフレットや和歌山城ホームページを参照しています。

1585年、紀州を平定した羽柴秀吉は、弟の秀長に命じて紀ノ川河口部の「岡山」(現在の虎伏山)に城を築かせた。これが和歌山城の始まりである。その後、秀長は郡山城に移り、家臣の桑山重晴が和歌山城代となった。
1600年、関ヶ原の戦いの後、浅野幸長(よしなが)が37万6千石で紀伊に入国し、和歌山城主となる。
1619年、浅野氏は広島城に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。

和歌山城マップ。(クリックして表示されたマップを拡大できます) 〜和歌山城パンフレットより〜

和歌山城鳥瞰図。
この写真は出典さえ明記してあれば二次使用可ということで余湖くんのお城のページより拝借しました。
上のマップとは南北が反対です。

浅野氏が連立式天守を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手門を岡口門から一の橋の方面に移し、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。

岡口門。(国の重要文化財)
1621年に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門が現存しています。
築城時は大手門でしたが、浅野期の途中から搦手門(裏門)となりました。

城内側から見た岡口門。

和歌山城の最も大きな特徴としては、時代によって異なる積み方の石垣が良好に残っていることです。

この石垣は切込みハギで、徳川期の17世紀後半から18世紀前半のものです。熊野の花崗斑岩が使われていることもあります。
この松の丸櫓台の石垣は角だけが花崗斑岩で他は和泉砂岩だそうです。

岡口門を入ったところから見た、上の写真の松の丸櫓台。
桜祭の真っ最中でした。

二の丸の一中門跡の枡形。
ここも切込みハギの石垣です。石垣が高い!

天守台の石垣は秀長の築城時に積まれた和歌山城のなかでも最も古い野面積みで、転用石もみられます。

野面積みの石垣。

刻印が多く見つかる石垣。
浅野期に積まれた和泉砂岩の打込みハギの石垣です。
和歌山城の石垣には刻印が2110個あり、このあたりの石垣に854個と4割が集中しているそうです。

刻印のデザインは多種多様で40種類以上が確認されており、家紋やその省略文字であったり、方位や日付、人名と考えられるものもあります。また刻印のある場所は石の正面だけでなく、側面や上下とあらゆる面にわたっていることが確認されています。
何のために刻印されたかについては、石材所有者の表示、石質チェック、鬼門除けなど呪術的使用など諸説が有り、はっきりとは分かっていません。〜城内案内板より〜

追廻(おいまわし)門。
江戸時代から残る門で、解体修理により、江戸時代には朱が塗られていたことが分かり、赤門であったと見られています。
赤門は三位以上の大名家に嫁いだ徳川将軍家の娘の住む御殿の門として建てられますが、和歌山城の場合は二の丸の「御座の間」(藩主の居所)から見たときに裏鬼門(南西)の方角に当たるため、魔除けのために赤く塗られたと推測されています。

天守。
桜に隠れていますが、大天守の横に小天守があります。
3重3階の連立式 層塔型になります。
1847年に焼失し1850年に再建した天守は明治に入っても残っており、国宝(旧国宝)に指定されていましたが、和歌山大空襲で焼失しました。その後、1958年に鉄筋コンクリートの外観復元天守が建てられました。

天守最上階からの眺め。
大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、二の門を多聞によって連結させているのが下の写真と合わせてわかります。

西の丸庭園。
江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所でした。
今回閉園時間を過ぎてしまい、見学できませんでした。

天守と御橋廊下。
御橋廊下は藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる斜めになった橋です。斜めに架かる廊下橋としては全国的にもめずらしい構造です。

二の丸の石垣。
奥に見えるのは大手門につながる一の橋です。

 

Bランク(続日本の100名城)

167. 新宮城 (和歌山県新宮市) 国の史跡

新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原(たづはら)と呼ばれたあたりの小高い丘である丹鶴山(たんかくやま)に築かれた平山城で、別名丹鶴城とも呼ばれます。
1601年紀州藩初代藩主となった浅野幸長(よしなが)の重臣・浅野忠吉が築城を開始したが、1615年の一国一城令により廃城となった。その後、1618年に再び築城が認められると、浅野忠吉は熊野川沿岸の新宮城の再築に着手した。
1619年完成を前に、浅野氏は備後三原の三原城(現在の広島県三原市)へ転封し、徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩主として入国して以後、付家老・水野重仲(重央・しげなか)が城主となった。重仲は浅野氏の築城を継続し、2代重良の時代の1628年に城下の田地であった伊佐田(いさだ)に堀を設け、城は1633年に完成を見たが、その後も3代重上が石塁などを造築し、1667年現在に見られる近世城郭が完成した。
水野氏の居城として明治維新を迎え、1873年の廃城令により天守などの建物を払い下げ、1875年までにすべて取り壊された。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及びパンフレットを参照しています。

取材:文子

 

新宮城マップ。(クリックして表示されたマップを拡大できます) 〜新宮城パンフレットより〜
(説明文中の数字はマップの番号)
正保城絵図「紀伊国新宮城之図」によると、城山には、天守台と本丸、分離した出丸、鐘ノ丸、松ノ丸があり、西側の山麓には二ノ丸、また、水ノ手の船着き場まで上下連郭式に配置され、現状とほぼ同様の構造が描かれています。

大手道。(D)
途中から江戸時代からの大手道が残っています。現在は下からまっすぐに登ってきましたが、元々はマップ(28)の二ノ丸側から登ってきてクランクしてこの道につながります。

松ノ丸西門。(G)
山上の曲輪の入口で桝形虎口になっています。

松ノ丸西門から見える櫓の石垣。

鐘ノ丸渡櫓門。(I)
ここも桝形虎口です。
切込みハギ 布積みの石垣が残っています。

鐘ノ丸。(K)

本丸の石垣。(M)
本丸北西側の石垣で切込みハギですが、斜面下には浅野期の野面積みの石垣も残っています。
犬走りもあります。

本丸渡櫓門。(P)
本丸の入口の門で、巨石を使用した切込みハギの石垣です。

亀甲積み。(Q)
本丸渡櫓門の正面には当時としては最高難度の技法を使って積まれた亀甲積みが残っています。

出丸。(S)
橋で繋がっていた独立した曲輪でした。
熊野川が見えます。

搦手門。(21)
石垣は面取りし当時最高の石垣の化粧加工をしているそうです。

本丸の石垣。
本丸南西側の鐘ノ丸から見た石垣です。

天守台。(22)
3重5階と推定される天守があったといわれます。

天守台の西側の石垣は昭和20年代に崩壊し、修復されずにそのままになっています。 また江戸時代にはなかった階段が付けられています。
鐘ノ丸には戦後民間の旅館が開業し、その旅館が下からケーブルカーを作ったりして、1985年に新宮市が買取し、丹鶴城公園として整備するまでに改変が行われている場所がいくつもあることは今から思えば残念です。

横矢掛り(よこやがかり)の高石垣。(24)
横矢についての詳しい説明はお城情報サイト城びとを参考にしてください。
きれいな屏風折です。
なお、石垣上直線部には多聞が、横矢部には櫓が建っていました。

排水桶。(N)
切込みハギの石垣では雨水を流すために必要な設備です。

水ノ手曲輪を見下ろして。

水ノ手曲輪(27)。
水ノ手には、熊野川に面して船着き場が置かれました。
1994年、水ノ手で行なわれた調査において、13棟の炭納屋群跡が発掘され、水野氏の時代に備長炭を江戸の市場に送り財源を得る拠点であったことが認められました。

水ノ手曲輪から見る本丸の石垣。

水ノ手曲輪から見る鐘ノ丸の石垣。

元々はこちらに大手道があり、こちら側から登城しました。
屋根の右に高石垣(C)が残っています。
見上げると、左手に松ノ丸西門、そして松ノ丸、鐘ノ丸の石垣が見えます。

わかりずらいですが、写真の真ん中に紀勢本線の線路があり、駐車場の下にあるトンネルに入ります。

トンネルを抜け鉄橋になります。
つまり、城の下を線路が通っているということです。
この城を築城した浅野忠吉の転封後の城は三原城ですが、ここも新幹線の高架が本丸および天守台跡を貫いています。何の因果か。。。

 

Cランク

紀伊田辺城 (和歌山県田辺市)

田辺城は1606年に紀州藩初代藩主浅野幸長(よしなが)の家老・浅野知近によって築かれた城である。1615年の一国一城令の後は改築して陣屋とされた。
1619年に徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が紀州藩主になると付家老の安藤直次が3万石を受領して田辺に入城した。その際には城がなく、旧家を宿としたともいう。以降は明治時代まで安藤氏が城主を務めた。
本丸には平屋造の表御殿、奥御殿、対面所など数十棟があり、二の丸には家老や用人、留役、奉行などの詰所などがあったと言われる。
当時は会津川の河口左岸と海に隣接しており、現在は一部の石垣と水門が残るだけである。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)
写真のコメントはWikipedia及びパンフレットを参照しています。

取材:文子

 

現存する埋門型の水門とそこに続く石垣。

台場跡。
1854年護国海防のため、砲台を築いた台場跡です。