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■Aランク(日本の100名城)
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71. 福山城
(広島県福山市) 重要文化財・国の史跡・復興天守
福山城は、備後国にあった城で、1615年の一国一城令発布後の1622年に竣工し、大規模な新規築城による近世城郭で最も新しい城となった。
形式は輪郭式の平山城だが、2重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持つために海城としても知られる。
築城は徳川家康の従兄弟である水野勝成で、関ヶ原の戦い以降、備後国・安芸国の2国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、 毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑えとして10万石を与えられ福山藩が成立した。城は10万石クラス大名の規模ではなく100万石レベルの規模と言われ、それだけ山陽と瀬戸内の要衝を守る城として重要視されたことがわかる。
水野氏が5代続いた後無嗣断絶し、奥平松平氏が山形藩より入封したが10年で桑名藩に移封したため、その後譜代であった阿部氏が宇都宮藩より入封し明治まで続いた。
明治の廃城令により施設は民間に払い下げられ、天守や伏見櫓など一部が残るだけとなり、堀も福山駅の建設等で完全に埋められた。昭和になると福山城の文化的価値が再評価され国宝に指定されたが、空襲により天守は焼失した。
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%82%99%E5%BE%8C%E5%9B%BD)
写真のコメントはWikipedia及び福山城博物館のホームページを参照しています。
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取材:文子
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福山城は山を造成し、本丸、二之丸、三之丸の三段の石垣で構成された平山城です。~城内看板のCG写真より~

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本丸マップ。 ~福山城博物館ホームページより~
(説明文中の数字はマップの番号)
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伏見櫓。(国の重要文化財)(2)
1601年頃京都伏見城に建てられたものを、水野勝成の福山城築城にあたって、2代将軍秀忠が移築させたものです。(伏見城は1619年廃城)
空襲による焼失を免れているため、現存する最古の櫓のひとつとなっています。
3重3階で初重と2重は総二階造といわれる同規模の構造を持ち、その上に独立した構造の小さな望楼部を乗せる慶長初期の建築様式を残した望楼型の櫓です。
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筋鉄御門(すじがねごもん)。(国の重要文化財)(3)
空襲による焼失を免れた現存の、本丸正面にそびえる正門です。
後代の枡型多門の型をとらない初期様式のもので、その名の通り扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられています。
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鐘櫓。(4)
明治時代以降、たびたび補修を繰り返していたが、原形を留めないほど荒廃が激しかったため、1979年修復しましたが、建物の大部分は模擬的なものです。
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月見櫓。(5)
2重2階の櫓で2階部分には高欄付きの廻り縁があり、城下の様子を一望することができます。
京都伏見城からの移築と伝わりますが、明治初期に取り壊され、1966年に天守とともに再建されました。
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御湯殿。(6)
建物の一部が石垣上にせり出す懸造(かけづくり)の建物で、座敷(物見の間)と湯殿で構成されていました。
戦前は国宝でしたが空襲で焼失し、1966年に天守とともに再建されましたが、戦前の詳細な記録がなかったため模擬的なものとなっています。
建物の一部が石垣上にせり出していることがわかります。
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鏡櫓。(7)
2重2階の櫓で、築城時に建てられましたが、廃城後の明治初期に取り壊されました。
現在の鏡櫓は1973年に市民の寄付により鉄筋コンクリートで建てられたもので、建物の形状や窓の配置など往時とは大きく異なっています。
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天守。(1)
空襲による焼失後、1966年に鉄筋コンクリートで再建されたが、古写真等の資料が比較的多く残っていたにもかかわらず、史実よりも現代的な美観が優先されたことや建築基準法に従ったことなどから窓の形状や配置など多くの点が元とは異なっています。そのため、復元天守ではなく「復興天守」の扱いとなっています。
5重6階地下1階(計6階)、2重3階の小天守を接合する複合式
層塔型天守です。
また、石垣は打込み接ぎという積み方です。
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防御上の弱点の北面は砲撃への対策として、厚さ3ミリメートル程度の鉄板が最上層を除いた壁面全体に張られていました。このため北側から見た天守は壁面が真っ黒で、他の天守にも例がなく福山城天守で最大の特徴でした。2022年に終わった大規模な改修工事で、この鉄板壁を再現しています。
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天守から見た、伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓。
新幹線ホームがすぐ傍です。
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72. 吉田郡山城
(広島県安芸高田市) 国の史跡
吉田郡山城は、安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった山城である。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛(たじひさるがけ)城と共に国の史跡に指定されている。
吉田郡山城の築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(現在の清神社)が1325年より以前の創建とされ、それより後に築城されたとされる。当初の郡山城は砦程度の小規模な城であったが、1523年に入城した毛利元就の晩年に郡山全域の城郭化が始まり、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。
しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、1591年に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住し実質的に廃城となった。
1615年に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、1637年に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、1863年に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれたが、明治に入り廃藩となった。
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及び郡山城跡パンフレットを参照しています。
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取材:文子
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郡山城マップ。(クリックして表示されたマップを拡大できます) ~郡山城跡パンフレットより~
(説明文中の数字はマップの番号)

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復元模型。
標高390m、比高190mの山頂部にある本丸から放射線状に270以上もの郭が、複数の尾根を組み合わせ複雑に築かれています。
元就が拡張する前の本丸は右下部分にありました。
郡山城の郭構造は、航空レーザによる計測結果を赤色立体地図にすることでわかったそうです。
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本丸跡。(①)
元就の屋敷があったとみられています。
左奥の一段と高くなった部分が城の最高所です。
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本丸の最高所。(①)
櫓台がありました。
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二之丸跡。(①)
赤色立体地図です。

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三之丸に残る石垣。(③)
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釣井の壇の井戸跡。(④)
現在は枯れていますが、城内に残る石組の井戸としては唯一のものです。
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御蔵屋敷跡。(⑥)
幕命により江戸時代初期に崩された石垣がそのまま残っています。
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勢溜(せだまり)の壇。
御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させた大小10段の郭から成る壇です。
ここには本丸守備兵が滞在したことがうかがえます。
今は木が生えていますが、当時は木なんてありませんでした。
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尾崎丸の堀切。(⑧)
尾崎丸は毛利隆元の居館があったと推定されており、その背後の堀切です。
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清(すが)神社。(⑪)
1325年から残る棟札があり、それ以前の創建が確実な神社で、戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所でした。
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毛利元就墓所(洞春寺跡)。(⑰)
1571年に元就が亡くなった翌年、菩提寺洞春寺が建立され、境内に墓が建てられました。
樹木葬で、右の木の根元に納骨されているそうです。
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73. 広島城
(広島県広島市) 国の史跡・外観復元天守・三大平城
毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、松本城、二条城と共に日本三大平城(広島城、岡山城、名古屋城とする場合もあり)とも言われる。最も広かった時代の曲輪のうち内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、広さ約12万平方メートル。大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なものである。
別称は「鯉城(りじょう)」。広島城があった一体は昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われていることから、この名がついた。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。その他、「在間城(ざいまじょう)」、「当麻城(たいまじょう)」の別称がある
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』で知るところでは、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。1598年に毛利輝元によって創建された大天守は、1945年に倒壊するまで現存天守の中では岡山城天守に次ぐ古式を伝えるもので、下見板張りや最上階に高欄を持つ外観の仕様は国宝保存法下の国宝指定(1931年)の理由の一つとなった。
近代は軍都広島の中心施設であった。日清戦争時に、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っている。アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下の際には破壊目標地点となった。また天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく、建物の自重により自壊したことが近年の研究で判明している。
現在は広島市中央公園「広島城区域」(一般には広島城址公園と呼ばれる)となっており、復元された大天守は歴史博物館として利用されている。
(Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E
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取材:大倉(文子による攻城記へ)
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取材:文子
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写真のコメントはWikipedia及び広島城ホームページを参照しています。
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秀吉に臣従した毛利輝元は上洛し秀吉に謁見。その時に大坂城や聚楽第(じゅらくだい)を訪れ、郡山城がすでに時代遅れであることを悟り、新しい城づくりを決意したと言われています。
近世城郭は、水陸の交通の便がよい場所につくられたこともあり、1589年太田川河口のデルタ地帯に築城を開始しました。
1591年、本丸などの主要な部分ができていただけで石垣や堀は未完成でしたが輝元が入城し、落成したのは1599年でした。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて敗れた西軍の総大将であった輝元は周防・長門へ転封となり、その後に福島正則が入りました。
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福島正則は穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりを本格的に行いました。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の輪郭式の広大な平城となったのはこの頃です。
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現在の広島城跡のマップ。
本丸と二の丸が残っています。
二の丸は秀吉の聚楽第に倣い、角馬出構造になっています。馬出は曲輪への出入口である「虎口」を敵の攻撃から守り、味方の兵士の出入りを確保するためのものです。
どのように守るかはお城情報サイト城びとを参考にしてください。
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内堀越に見る二の丸。
二の丸は復元されており、見えるのは太鼓櫓です。
そして石垣は防御を高めるために「横矢掛り(よこやがかり)」となっていて折れ曲がっています。
横矢についての詳しい説明はお城情報サイト城びとを参考にしてください。
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表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓。

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御門橋と表御門・平櫓。

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防御の工夫があります。
左の穴から御門橋を渡って来た敵に横矢を掛けます。
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窓の戸は突上戸で、鉄砲が打てるようになっています。
太平の世の城(福山城等)は引戸です。
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二の丸内には門や櫓のほかには御殿など重要な施設はなく、その東側に番所・馬小屋・井戸などがあるのみでした。そのため、戦時において出陣する兵の集合場所であったと思われます。
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本丸の虎口である中御門跡。

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桝形になっています。

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中御門跡。
原爆により中御門は消失しました。そして石垣が割れて赤く焼けています。
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天守は5重5階の複連結式望楼型です。
複連結式というように江戸時代までは3重3階の小天守が南と東に配置され、それらが大天守と渡櫓で結ばれていました。
ちょうど写真を撮るために立っている場所に南小天守がありました。
小天守は明治に入り破却されましたが、大天守は残っていました。原爆により大天守は炎上はしませんでしたが天守台の上に崩れ落ちました。
現在の大天守は1958年に外観復元で建てられたものです。

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崩れかけた石垣。
福島正則が広島城の無断修復を幕府にとがめられ、修復した石垣を取り壊した跡と考えられています。しかし幕府が取り壊しを命じたのは別の場所だったとされ、従わなかったとして1619年福島氏は信濃国川中島へ大幅な減転封となりました。
その後紀伊和歌山城主の浅野長晟(ながあきら)が城主となり、浅野氏が明治まで12代続きました。
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東小天守台と大天守。
手前の石垣の上に東小天守が建っていました。
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裏御門跡。
三の丸と本丸を直接結んだ橋から入る門です。
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■Bランク(続日本の100名城)
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172. 三原城
(広島県三原市) 国の史跡
三原城は、備後国御調郡(みつぎぐん)にあった、天守台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南側に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた梯郭式の平城である。三原湾に浮かぶ大島と小島を石垣でつないで築き、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから「浮城」とも呼ばれる海城でもあった。
毛利元就の三男の小早川隆景によって1567年に整備が始められ、1582年には居城を新高山城から移している。
その後1587年に筑前(福岡県)の名島城に居城を移したが、1595年家督を養子の小早川秀秋に譲り三原城に戻り隠居した。翌年隆景が亡くなった後は、福島正則、広島藩の家老の三原浅野氏が入り、広島藩の支城として幕末まで利用された。
本丸北側の先端部に一段高く天守台が設けられ、江戸城天守台と同規模の面積があったが、実際に天守が建築されたことはない。
明治維新後、建築物は移築されたり用材として処分された。1894年、山陽鉄道三原駅建設の際に、城地は駅用地に使用され、また石垣も糸崎港建設の用材として大部分が撤去された。
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%9F%8E
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取材:文子
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縄張り図。
Wikipediaに掲載されていた国立公文書館所蔵の正保城絵図『備後国之内三原城所絵図』を拝借しています。
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遺構として残る天守台とそれを取り巻く3方の堀。
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山陽新幹線開業およびその後の三原駅高架化により、高架が本丸および天守台跡を貫いており、天守台へは駅のコンコースから登るという、全国でここだけの珍しい光景です。
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新幹線下に石垣が。。。遺構を壊すなんて今では考えられないことです。
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173. 新高山城
(広島県三原市) 国の史跡
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■Cランク
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