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■Aランク(日本の100名城)
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47. 伊賀上野城
(三重県伊賀市) 国の史跡・模擬天守
上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184メートルほどの丘に建てられた平山城で、白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれる。北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。
かつて上野城の場所には要塞としても利用された平楽寺や仁木氏館があった。1585年に筒井定次によって改修を受け、1611年に徳川家康の命を負って藤堂高虎が大坂方に対抗するために拡張したが、大坂の陣によって豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。
高虎は大坂の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城とした。一国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、1825年に藤堂高猷(たかゆき)が最後の城主となるまで藤堂氏の世襲とした。
現在、城を含めた近隣一帯は上野公園として整備されており、松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁記念館があるほか、伊賀流忍者博物館があり、伊賀上野の観光地として利用され、天守台にある3重3階の天守は昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城という。
(Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipediaを参照しています。
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取材:文子
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上野城鳥瞰図。
この写真は出典さえ明記してあれば二次使用可ということで余湖くんのお城のページより拝借しました。
赤字は筆者が追記しています。
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本丸大手門跡。
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城代屋敷跡の石垣。
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城代屋敷跡の南側の桝形虎口。
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城代屋敷の表門跡。
上から見ると桝形虎口の先にあることがわかります。
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城代屋敷跡。
筒井氏の時代に本丸があった場所に、藤堂氏は城代屋敷を建てたそうです。
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城代屋敷の北側には、大納戸蔵や米蔵などがありました。
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城代屋敷の裏門跡。
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模擬天守と小天守。
筒井氏時代にこの位置ではないですが、3重の天守が建てられました。藤堂高虎は天守の位置を西のこの位置に移し5重5階の天守を建てましたが、完成目前の1612年9月に大嵐のため倒壊しました。大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、堅固な城が必要なくなり天守は再建されませんでした。
昭和初期に、木造で瓦葺き、白漆喰塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)の層塔型3重3階の大天守と、2重2階の小天守が建てられました。史的考証による設計はなされておらず、5重天守の天守台に3重天守を建てたために、天守台敷地の半分程度しか使用していないそうです。
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本丸の上から見た西南方面の高石垣。
写真を撮るにも足がすくみます。
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本丸の上から見た西側の高石垣。
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本丸北側土塁。
北側には石垣はないようです。本丸西側の強固な守りの石垣と比べると貧弱です。
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本丸西側の高石垣。
西北側からの写真です。
この高石垣は内堀の水面から約30mで大阪城に次ぐ高さです。
西と言うと大坂方面です。大坂城の豊臣方の攻撃に対応するためと言えます。
筒井氏時代の上野城は北に大手門があり、大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされています。
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本丸西側の高石垣。
西南側からの写真です。
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本丸南側の石垣。
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48. 松阪城
(三重県松阪市) 国の史跡
松阪城は伊勢国にあった平山城で、阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。江戸時代初期には松坂藩の居城となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が置かれた。
1584年近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ飯高郡松ヶ島城に入城したが、1588年氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の地に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させた。
城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が築かれた。
氏郷が会津へ移った後、服部一忠、古田重勝が入城したが、1619年古田氏が石見へ転封後は松阪藩は廃藩となり紀州藩となり、松坂城には当地を統括する城として城代が置かれた。城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置されていたため、1644年に天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった。1794年には二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。以後、紀州藩領として明治維新を迎えた。
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%9D%82%E5%9F%8E
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取材:文子
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戦国時代に用いられた、野面積み(のづらづみ)の石垣が素朴で美しかったです。
野面積みとは自然石をそのまま積み上げる方法です。江戸時代に入ると加工した石を積み上げる方法に変わっていきました。
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このあたりの石垣は打込み接ぎ(うちこみはぎ)。
表面に出る石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法で、関ヶ原の戦い以後用いられるようになりました。
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上へ登ると典型的な野面積み。
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■Bランク(続日本の100名城)
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152. 津城
(三重県津市) 県の史跡
津城は、現在の津市街の中心部に位置し、北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた平城である。
津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558年〜1569年)に、長野工藤氏の一族の細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。
1568年織田信長の伊勢侵攻により津田一安が入城。翌年には織田信長の弟・信包(のぶかね)が入城した。信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備した。1577年には5重天守と小天守が落成した。
豊臣家の時代になると、豊臣家家臣の富田一白が入城した。一白の子、信高は関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の軍勢に城を攻撃され、城内の建造物の大半を焼失した。
1608年信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%9F%8E
写真のコメントは城址内の案内板の説明を参照しています。
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取材:文子
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津城城郭図。 〜津市観光協会パンフレット「藤堂高虎」より〜
輪郭式だということがよくわかります。
現在は本丸と西の丸、そして東の丸の一部と内堀は本丸と西の丸のまわりに少し残っているだけです。
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西の丸の玉櫓台。
石垣と内堀の間には「犬走り」があります。

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西の丸への虎口。
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入徳門。
藩校有造館の講堂の正門を移築したもので、老朽化が激しくなり1986年から87年にかけて解体復元工事を行っています。
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西の丸跡。
現在は日本庭園になっています。
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戌亥(いぬい)櫓跡。
3重櫓が明治初期まで建っていました。丑寅(うしとら)櫓と共に天守に代わる津城のシンボル的な櫓でした。

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西の丸から本丸への西鉄門(にしくろがねもん)虎口。
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天守台。
織田信包が5重天守と小天守を建てましたが、関ヶ原の戦いに先立つ籠城戦で焼失したと考えられています。その後、3重の天守として再建されましたが、この天守も1662年に焼失したといわれます。
津城の天守台にはやや古い築造を示す石積みが残りますが、基本的には「打込み接ぎ」です。
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埋門。

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城址公園内にある藤堂高虎騎馬像。
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153. 北畠氏館
(三重県津市) 国の史跡
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154. 田丸城
(三重県玉城町) 県の史跡
田丸城は、南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる平山城である。
1342年、足利尊氏によって落城するが、その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建される。伊勢国司北畠家第5代政郷の四男顕晴が田丸城に入り田丸氏を名乗った。
戦国時代、田丸直昌は織田信長の伊勢侵攻に伴い、北畠具教の養嗣子となった信長の次男・信雄(のぶかつ)に田丸城を明け渡し信雄に仕えた。田丸城は信雄の居城として1575年に改築され、三層の天守を備えた石垣の近世城郭へと生まれ変わり、織田氏の伊勢支配の中心拠点となった。
1580年に火災で天守を焼失し、信雄は松阪にある松ヶ島城へと移った。1584年、小牧・長久手の戦いののち、松ヶ島城主となった蒲生氏郷の支配下で田丸直昌は田丸城主に返り咲いた。1590年に蒲生氏郷が陸奥国会津に移封されると、妹婿となっていた直昌も与力大名として陸奥に移動した。
江戸時代初頭には稲葉道通(みちとお/つねみち)が入り田丸藩となる。このとき岩出城を廃し、城郭の主要な建造物や石塁等を田丸に移し大改築をしたと伝えられている。稲葉氏転封ののち藤堂氏の支配地になるが、1619年、徳川御三家の紀州藩の所領となる。紀州徳川家の頼宣は付家老久野宗成に田丸城城主として田丸領6万石をおさめさせた。久野氏は、家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。久野氏はその後八代続き明治維新に至った。
江戸時代を通して、田丸城は老朽化はしつつも本丸、天守をはじめ稲葉氏が再建した城郭建造物が残っていたと推測されているが、久野氏時代の田丸城は中世の古城と呼ばれ長年の雨風や地震等によって石垣の各所が傷み、あるいは崩落しており3代、5代、8代と幾度か修復工事を行ったことがわかっている。
1871(明治4)年、田丸城の城門をはじめ全ての城郭建造物の解体・処分に至り、現在は石垣や堀、一部建物を残すのみである。
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%B8%E5%9F%8E (玉城町ホームページより転載) https://kizuna.town.tamaki.mie.jp/tamarujo/
写真のコメントはパンフレットを参照しています。
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取材:文子
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田丸縄張図。 〜パンフレットより〜
(マル数字は説明文で使用)
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内堀。(@)
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大手口跡。(A)
虎口は内桝形になっています。織田信雄が改修した際に、攻め手が容易に入ってこられないよう「桝形」の原型を採用しています。
また橋は当時は木橋でした。
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二の門跡。(B)
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二の門横の石垣。
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本丸への道。(C)
本丸の石垣が立派です。
本丸へは真っ直ぐに登らせず、直角に曲がったりしています。
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野面積みの石垣を見ながら本丸へ登って行きます。
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本丸虎口。(D)
本丸の入口の1つです。
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本丸跡と天守台。(E)
天守台は内部に穴蔵をもつ古い形式のもので、手前の付櫓台の石垣と階段は近世以降の改変が加えられています。
稲葉氏の建てた天守は1649年に激しい雨風に見舞われ、崩落したと考えられます。
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天守台から見た玉城町の景色。
左手本丸のは櫓台です。
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本丸門跡。(F)
二の丸からの入口です。
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二の丸跡。(G)
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本丸と二の丸の間の堀切。(H)
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二の丸虎口。(I)
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下から見た本丸石垣。
一番上が天守台です。
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富士見門。
田丸城が廃城になった明治維新当時、城内には8つの門が残っていました。富士見門は江戸中期に建てられたもので、城址公園内に移築し保存しています。
かつては門の両側に長屋が付いた長屋門でした。
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帯曲輪から見た北の丸の石垣。
こちらは本丸の石垣と比べると、整備されていませんでした。
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旧三の丸御殿 奥書院。(復元)
江戸時代二百数十年間に渡り田丸を支配した久野家は、代々紀州藩の家老職にあったため、田丸には城代家老がおかれ、一代のうち数度入城するに過ぎませんでした。この御書院は、久野城主が田丸入城の際、居間、寝所の間として使われたものです。
城址公園すぐ傍の村山龍平記念館内に復元されていました。
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155. 赤木城
(三重県熊野市) 国の史跡
赤木城は、紀伊国牟婁郡北山郷(現在の三重県熊野市紀和町赤木)の丘陵(標高約230メートル)に築かれた平山城である。
1589年頃、一揆勢力を抑える目的で、豊臣秀吉の弟の秀長の家臣であった藤堂高虎によって築城されたといわれる。主郭を中心とした三方の尾根に郭群が設けられ、その尾根を利用した郭配置は中世山城の形態をもつが、一方では高い石垣や発達した虎口など近世城郭の要素も見られ、築城における過渡期の様相が認められる。
その後、赤木城は1615年の一国一城令により廃城となったといわれる。
1989年に「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」の名称で国の史跡に指定されている。
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及びパンフレットを参照しています。
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取材:文子
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赤木城縄張図。(クリックして表示されたマップを拡大できます) 〜赤木城跡パンフレットより〜
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入口から見た東郭の石垣。
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東郭の石垣。
東郭は門を挟んで2つの郭からなっており、最初に敵を迎え撃つ場所です。そのため石垣は高く険しく積まれています。
赤木城の石垣は野面積みになっています。
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東郭の門。
門跡では礎石が残っており、間口2.4メートル、奥行1.8メートルの四脚の門があったと推定されます。
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石垣の隅角は既に算木積みが取り入れられています。
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主郭の石垣。
右に行くと主郭の虎口です。
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主郭の虎口。
敵をふさぐために何度も折れ曲がって二重の虎口を設けています。
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主郭の門。
大きな石で立派に見せています。
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主郭から見た虎口と東郭。
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主郭の石垣には敵を側面から攻撃する「横矢掛り(よこやがかり)」があります。
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主郭から見た北郭。
こちらは石垣が低かったり、積まれていないところがあったりと簡素にできていますが、奥の尾根に堀切があり、敵の侵入を防ぐようになっているそうです。
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主郭から見た西郭。
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主郭から見た南郭。
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西郭。
西郭は4つの郭からなっており、礎石が見つかり建物があったと考えられます。
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西郭の石垣。
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南郭。
山裾にあります。これは他の郭が防御の役割を担っていたのに対し、南郭は主に生活の場であったためと考えられています。
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田平子峠(たびらことうげ)刑場跡。
高虎が赤木城の落成披露の際、一揆に関係した人も来てもいいよと言ってだまして、一揆の残党が捕らえられ、160人が赤木城の西約1キロメートルにあるここ田平子峠で斬首されました。
慶長年間(1596-1615年)の領主であった浅野氏(新宮藩主・浅野忠吉)に対して、再び北山一揆が起こり、総勢およそ3000人が新宮城に侵攻しようとしたが壊滅し、363人が処刑されました。
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ここでは「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っています。
天正の一揆、慶長の一揆で処刑された人を供養する塔が1968年に建てられており、赤木城とともに国の史跡に指定されています。
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■Cランク
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