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27 大阪府

 

日本100名城

54. 大坂城

55. 千早城

続日本100名城

159. 芥川山城

160. 飯盛城

161. 岸和田城

Aランク(日本の100名城)

54. 大坂城 (大阪府大阪市) 重要文化財・国の特別史跡・復興天守・三名城

通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものであることがわかっている。
大坂城は、上町台地の北端に位置する平城である。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。その跡に豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。名古屋城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。
昭和初期に建てられた復興天守は初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎のレリーフや鶴(絵図では白鷺)の絵を描いているという折衷様式である。しかし、30年で焼失した豊臣大坂城天守、39年で焼失した徳川大坂城天守に比べて、復興天守は最も長命の天守となっており、1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録された。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E

取材:大倉(文子による攻城記へ

 

取材:文子

 

一番櫓(国の重要文化財)と南外堀の高石垣。
一番櫓は1628年に建てられた現存する2重2階の櫓です。
また大阪城というと、単体では日本一高い石垣(32m)が有名です。南外堀の石垣は城中2番目の高さだそうです。

本丸東側の石垣。
こちらが城中で一番高い石垣です。

空堀。
本丸に入る桜門の所は当初から空堀でした。豊臣時代の大坂城でも本丸の南は空堀となっており、大坂の陣で徳川方が埋めたわけでもなく、なぜここだけ空堀としたのかは不明だそうです。

桜門。(国の重要文化財)
本丸の正門で1626年に創建されたが、1868年の戊辰戦争で焼失し、1887(明治20)年に陸軍が再建しました。
右側は本丸側から見た門です。

蛸石。
桜門の内側の桝形虎口は、備前岡山藩主池田忠雄によって築かれ、石材は備前産の花崗岩です。正面の蛸石とよばれる石は城内最大です。

「秀頼・淀ら自刃の地」記念碑。
本丸北側には山里丸と呼ばれる曲輪があります。秀頼らが自刃した場所には諸説あるが、山里曲輪の一角というのが有力だそうです。

55. 千早城 (大阪府千早赤阪村) 国の史跡

 

 

 

Bランク(続日本の100名城)

159. 芥川山城 (大阪府高槻市) 国の史跡

 

 

160. 飯盛城 (大阪府大東市) 国の史跡

 

 

161. 岸和田城 (大阪府岸和田市) 府の史跡・復興天守

岸和田城は、大阪府岸和田市岸城町にあった平城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれた。城跡は大阪府の史跡に指定されている。
1334年前後に、和田高家が現在の岸和田城跡から約500m東(野田町1丁目周辺)に岸和田古城を築城。「岸の城」とも言われた。その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている。
羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。1827年に天守を焼失。以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされまもなく破却された。

岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになった。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られている。桜の季節は花見の名所となる。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E

取材:杉浦(文子による攻城記へ

 

取材:文子

写真のコメントはWikipedia及びパンフレットを参照しています。

岸和田城マップ。
輪郭式の平城で海辺の城でした。

本丸の復興隅櫓と奥には復興天守。
桜が咲き始めていました。

横矢掛り(よこやがかり)の石垣。
石垣を登る敵を横から弓を射かけたり、鉄砲を撃ったりすることが可能になる「横矢掛り」を本丸の石垣は多用しています。

二の丸の積み足された石垣。
赤線から左が積み足されているそうです。

二の丸の北西のこの石垣の上に、伏見城から移築されたという伏見櫓が建っていたそうです。
二の丸は戦国時代までの本丸で、江戸時代も二の丸御殿がありました。

本丸の復興櫓門。

復興天守。
幕府へ提出された正保城絵図「泉州岸和田城図」では5層の天守が描かれていました。その天守は1827年落雷によって消失し、その後江戸幕府に復興願いを届出済みで、それによると3層の天守、2層の小天守とあるが結局は再建されなかったようです。
現在の天守は1954年に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより3層で再建されました。

八陣の庭。
1953年に竣工した砂庭式枯山水庭園で国の名勝に指定されています。

天守から見た八陣の庭。

天守入場券。
この写真の石垣と堀の間に設けられた狭い空き地が「犬走り」。
敵に侵入の足掛かりを与えてしまうなど、防御の面からは決して有利とはいえない構造ですが、石垣・土塁の崩落を防ぐための構造的理由で設けられたという見方があります。

 

Cランク