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47 沖縄県

 

日本100名城

98. 今帰仁城

99. 中城城

100. 首里城

続日本100名城

199. 座喜味城

200. 勝連城

その他の城

安慶名城

浦添城

南山城

糸数城

玉城城

知念城

佐敷上城

島添大里城

沖縄県の城の説明の前に、沖縄県の歴史について。
沖縄では新石器時代と言われる時代が10世紀頃まで続き、その後13世紀頃までは「按司(あじ、あんじ)」と呼ばれる地方豪族が各地で城(グスク)を構える「グスク時代」であった。14世紀に入ると争いの結果、按司を束ねる強力な王が現れ三つの国にまとまった。南部の南山(なんざん)王国、中部の中山(ちゅうざん)王国、北部の北山(ほくざん)王国で、「三山時代」と呼ばれ約100年続いた。
南部の佐敷按司であった尚巴志(しょう はし)が1405年に中山を、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして、初めて琉球を統一し琉球王国となった。なお、琉球王国は尚巴志の父を初代とし7代63年間続いた王統である「第一尚氏」と、1469年にクーデターにより王位についた尚円から始まり、1879年までの410年間統治した王統である「第二尚氏」の統治からなる。
そして1609年に薩摩藩の琉球侵攻によって保護国となったものの、1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまで独立した国家であった。 
〜Wikipediaより〜

Aランク(日本の100名城)

98. 今帰仁城 (沖縄県今帰仁村) 国の史跡  世界遺産

今帰仁城(なきじんぐすく・なきじんじょう)は、12〜13世紀頃に築かれたと言われる城で、14世紀琉球王国成立以前に存在した北山国王の居城だった。首里城に匹敵する面積を持ち、城の中でも最大級の規模を誇っている。
1416年、北山王国は中山王尚巴志(しょう はし)に滅ぼされるが、以後は北部地域の管理のために北山監守が置かれた。1665年の北山監守廃止後は具志川御殿十世今帰仁朝義と係累が琉球処分まで監守跡を管理し、拝所として残された。
今帰仁城内からは14〜15世紀頃の中国製陶磁器が多く出土しており、北山王国の明との朝貢貿易(※)の影響と見られる。
朝貢貿易:中国の王朝に対する周辺諸国の貢物の献上と、それに対する皇帝からの下賜という形態をとる貿易。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B8%B0%E4%BB%81%E5%9F%8E
写真のコメントはガイドの説明及び今帰仁城跡ホームページを参照しています。

取材:文子

 

今帰仁城の全体図。 〜パンフレットより〜

@外郭。(数字は全体図に記載されている番号)
高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いています。
発掘調査で屋敷跡が確認されました。

A平郎門。
本門になります。

B大隅(ウーシミ)。
戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられています。



大隅の石垣。

Fの御内原(ウーチバル)から見た大隅。万里の長城のように波打つ石垣が長々と伸びています。曲線の石垣とブルーの海の組合わせがとても美しい眺めです。

Cカーザフ。
カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味します。
柱状節理のような石がありました。

D旧道。
曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上から幅は狭く急なのぼり道となっています。

G主郭。
城内で最も中心的な建物があった場所です。

H志慶真門郭(しげまじょうかく)。
ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられてます。

99. 中城城 (沖縄県中城村) 国の史跡  世界遺産

中城城(なかぐすくじょう)は、当時貿易港であった屋宜(やぎ)港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とした城で、15世紀に琉球を統一した尚(しょう)氏の建国の功臣で尚氏6代の王に仕えた、護佐丸のグスク(城)として知られている。
創始は明らかではないが、14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、首里王府に対抗していた勝連城の阿麻和利をけん制するために王命により1440年に座喜味城から移ってきた護佐丸によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようである。
そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)で攻められ自害して滅びた。その後、「中城王子の居城」→1609年の薩摩藩の琉球侵攻後は「番所」→1879年の琉球処分後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。
1945年、沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。

護佐丸によって増築された部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。
日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、ここも訪ねた彼の一行は城を見て、城壁、アーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いている。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9F%8E%E5%9F%8E
写真のコメントはガイドの説明及び中城城跡ホームページを参照しています。

取材:文子

 

中城城の全体模型。

城への道。琉球石灰岩の岩です。

こちらが本来の道。

正門横の南の郭の外壁。

正門。

南の郭。
向こうに見えるのが一の郭の城門。
首里の王を拝む首里遙拝所がある他、神の島・久高島を拝む久高遙拝所など場内には8つの拝所があります。

久高遙拝所。
拝所(うがんじゅ)とは沖縄・奄美では神を祀って拝む場所のことを言い、グスクは元は戦いの場ではなく、祈りの場でした。そのため、グスク内には必ず拝所があります。

一の郭への城門。

一の郭。
中城城で最も広く、正殿があった場所です。


正殿跡。

二の郭。

一の郭との境の石垣。
二の郭のこのアングルで見る石垣は芸術的な美しさです。
一の郭、二の郭の石垣は「布積み」という、直方形に加工した石を一段ごとに高さを揃えてブロック状に積み上げる方法です。

北の郭。
護佐丸が井戸を取り込み増築したとされる郭です。
下の写真が「大井戸(ウフガー)」と呼ばれるその井戸。

三の郭。
護佐丸が増築した郭で、最も進んだ石積み技法である「相方積み」という、石を多角形に加工し、互いに噛み合うように積む技法が取り入れられています。
上の写真の北の郭も「相方積み」です。

二の郭から見た三の郭。

ペリーが称賛したアーチ型の裏門。

馬場から見る三の郭の石垣。
中城城のホームページにも出てくるアングルです。
琉球のグスクの石垣は本土の城と違い曲線が特徴です。

100. 首里城 (沖縄県那覇市) 国の史跡  世界遺産

首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E

取材:大倉 (文子による攻城記へ

取材:文子 2024年1月の3回目に訪れた際の攻城記で、一部過去の写真も使用しています。

首里城の創建年代は明らかではないが、近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。
1429年尚巴志(しょう はし)が三山を統一し琉球王国を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。
首里城は三度焼失している。1715年に再建された建物は1879年の琉球処分後払い下げられ、女学校として利用されていたが、老朽化が激しく正殿の取り壊しも検討された。しかし、関係者の奔走により取り壊しは中止となり、1929年に国宝に指定されて保存されることとなった。
沖縄戦により四度目の焼失をし、戦後は首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、1979年琉球大学が首里城跡から移転すると本格的な復元がはじまり、1992年に正殿を中心とする建築物群の復元が完成した。
2019年10月31日未明に火災が発生、正殿と北殿、南殿が全焼し、歴史上五度目の焼失となった。正殿再建の起工式が2022年11月3日に行われ、2026年秋の完成を目指している。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipediaやガイドの説明及び首里城公園ホームページを参照しています。

首里城の全体図。 〜Wikipediaより〜

1-正殿 2-北殿 3-南殿 4-奉神門 5-番所 A-守礼門 B-歓会門 C-瑞泉門 D-漏刻門 E-広福門 F-久慶門 G-右掖門 H-木曳門

首里城は中国の城の影響を大きく受け、門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられている。

A-守礼門。
首里城へ入る門で、日本城郭でいう首里城の大手門になります。ここはまだ城内ではありません。

首里城は15世紀後半から16世紀前半にかけて建設された外郭と、15世紀前半ごろに建設された内郭という二重の城壁に囲まれています。(過去写真)

B-歓会門。
首里城の城郭内へ入る第一の正門です。
外郭には4つのアーチ門がありました。

F-久慶門(きゅうけいもん)。
外郭にある門で、通用門として使われました。

外郭の石垣と、歓会門(左)と久慶門を上から眺めたものです。(過去写真)

C-瑞泉門。別名「ひかわ御門」。
内郭の入り口となる門で、外郭にあるアーチ門とは異なり、双璧の門の上に直接櫓がのっている櫓門です。
瑞泉門には「龍樋(りゅうひ)」という名の泉があり、龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出しています。

D-漏刻門(ろうこくもん)。別名「かご居せ御門」。
「漏刻」とは中国語で「水時計」という意味で、櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったと言われています。
また、別名は高官がこの場所で駕籠から下りたということからそのように呼ばれています。

E-広福門。
第四の門で、建物そのものが門の機能をもっています。

4-奉神門。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門です。
ここから先が2019年の火災で消失し、復元工事中エリアになります。

在りし日の首里城正殿は大倉さんの記事の写真を見てください。
この写真は、私が前回行ったときに撮った正殿内部にあった玉座(復元)です。

復元工事現場。
今しか見ることができないものです。

東のアザナから見た正殿裏。
東のアザナは城郭の東端に築かれた物見台で、城外の町や城内の正殿裏の私的な生活空間に当たる御内原(おうちばら)一帯を展望することができます。
正殿裏部分は火災前は見学できない場所でした。

首里城の遺構はほとんど残っておらず、世界遺産に指定されている遺構は本殿の基壇(建物を支える土台)で見ることができません。。
写真の城壁の下の方の〇で囲んだところは旧来の城壁で、貴重な遺構です。

 

Bランク(続日本の100名城)

199. 座喜味城 (沖縄県読谷村) 国の史跡  世界遺産

座喜味城(ざきみぐすく・ざきみじょう)は、築城家として名高い読谷山按司(ゆんたんざあじ)、護佐丸(ごさまる)によって築かれたと言われる15世紀初頭の城である。アーチ門は、沖縄で現在残る石積みのアーチ門の中では最古のものとされている。
護佐丸は1422年に今帰仁城から移り、1440年首里王府の命で中城城に移るまでの18年間をここで過ごした。
座喜味城の貿易遺物は15世紀中期以後であり、護佐丸が座喜味城を離れた後の年代であるため、護佐丸の移封後もしばらく利用されていたと推定されている。

城の上から中頭(なかがみ)地方(沖縄本島中部地方)周囲を広く見渡せる高台にあり、海域や周辺離島まで見え、軍事上の要衝に存在した。そのため、大戦中は日本軍が高射砲陣地として使用し、十・十空襲と沖縄戦で壊滅的な被害をうけた。戦後は1974年まで米軍のレーダー基地となっていた。沖縄返還を機に米軍から返還され、調査と復旧が進められ、通信基地の退役軍人も驚嘆するほどの美しいグスクとしてよみがえった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E5%96%9C%E5%91%B3%E5%9F%8E
写真のコメントはガイドの説明及びパンフレットを参照しています。

取材:文子

 

座喜味城の全体図。

A二の郭のアーチ門。(数字は全体図に記載されている番号)
沖縄に現存する最も古い石造りの二の郭のアーチ門には三角形のくさび石がはめ込まれており、他の城では見られない珍しいものだそうです。

D拝所。
座喜味城には4つの拝所があったそうですが、現在はここにまとめられています。

E曲線の石垣。
本土の城の石垣と異なり、角部分も丸みをおびています。
座喜味城の石垣は主に「布積み」だそうです。

二の郭。
曲線の石垣が美しいです。

@一の郭のアーチ門。
こちらは復元したものです。

C一の郭の礎石建物跡。
屋根瓦は出土していないため、建物の屋根は茅葺か板葺きだったと考えられています。

200. 勝連城 (沖縄県うるま市) 国の史跡  世界遺産

勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあるグスク(城)である。阿麻和利の城として知られている。
城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。

13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。
城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。
城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。

1972年(昭和47年)5月15日、国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%80%A3%E5%9F%8E

取材:杉浦 (文子による攻城記へ

取材:文子  写真のコメントはガイドの説明やパンフレット及び勝連城跡ホームページを参照しています。

勝連城の全体図。 〜パンフレットより〜

一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と階段状に連なっています。

四の曲輪。
5つの井戸(全体図の「カー」と書かれた場所とDEの場所)があり、建物跡も見つかっています。
石垣の造り方は本土と違っていることがわかります。本土は土を土台にして裏込石を入れて石垣を積んでいますが、琉球では土は使わず内部には裏込め石が詰まっているだけです。これは、琉球の石垣に使われる石は琉球石灰岩で水はけがよく、降った雨は石を通って下に落ちていくからです。

勝連城のホームページにも出てくるアングルで撮った写真。

三の曲輪。
政治的な儀式などが行われていた場所です。
三の曲輪の入口の門は四箇所のくぼみが確認されたことから、四脚門(薬医門)と考えられています。

二の曲輪。
舎殿跡が見つかっており、勝連城で最も重要な建物であったと考えられています。

一の曲輪。
勝連城内で最も高い位置に築かれた曲輪で、周囲360度見渡すことができる軍事要塞です。
発掘調査より出土した遺物は、海外交易により得られた質の良い品々であったことから、ここには宝物殿のような建物があったと考えられています。

写真の真ん中の石の部分は、「玉ノミウヂ御嶽(うたき)」という、勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。

 

Cランク

三山時代の主なグスク 
  〜今帰仁城跡ホームページより〜

日本100名城及び続日本100名城に選ばれているグスク以外の三山時代のグスクのいくつかを訪れたので紹介します。
訪れたグスクの中で、右の地図に載っていないグスクの場所は以下です。
・安慶名グスク:中山の喜屋武グスクの近く
・南山グスク:別名 島尻大里グスク

安慶名城 (沖縄県うるま市) 国の史跡

安慶名城(あげなぐすく・あげなじょう)は、15世紀から16世紀にかけて沖縄本島中部一帯を三代にわたり支配した安慶名按司の拠点となった城である。
築城自体は旧城主の手によって1360年頃に行われたとされ、1453年に安慶名按司一世によって改築城された。しかし1526年琉球王国第二尚氏によって落城させられ安慶名按司は滅亡した。

天願川の平地に隆起した珊瑚性石灰岩の岩塊の断崖と傾斜を利用した山城で、自然の岩と岩との間に石垣や城門を構えている。また中心部に主郭を置き、それを取り囲むように中腹に郭を巡らした、沖縄では珍しい輪郭式と呼ばれる様式である。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%85%B6%E5%90%8D%E5%9F%8E
写真のコメントはガイドの説明を参照しています。

取材:文子

 

下から見上げた城の外壁。

自然石を使って積み上げる「野面積み」です。

登って行きます。
安慶名城は遺構をよく残しているグスクで、琉球石灰岩の石段も原型を保っており、ガタガタとしていて慎重に歩かないと危なかったです。
右は主郭へ入る城門。奥が石段で郭側から撮っています。自然の洞窟のようですが、一部に切石をはめ込んでいます。

主郭。

上から見た城の外壁。

浦添城 (沖縄県浦添市) 国の史跡

浦添城は、王宮が首里城に移される以前の、舜天(しゅんてん)王統、英祖(えいそ)王統、察度(さっと)王統の居城として13世紀〜15世紀の200年余りに渡り琉球国中山の歴史の舞台となった城である。
1609年の薩摩軍の琉球侵攻で焼き討ちされ廃城となった。

 (沖縄観光コンベンションビューローHPより転載) https://www.okinawastory.jp/spot/30000094
写真のコメントは城跡内の案内板及びガイドの説明を参照しています。

取材:文子

 

城の石垣は一番上の部分で、下の要塞のような部分は「浦添ようどれ」という琉球王国の陵墓の石垣の囲いです。

下の写真は「ようどれ」内部にある琉球王国第二尚氏王統の第7代国王「尚寧王陵」。

復元した城壁。
浦添城のある丘陵は沖縄戦では前田高地と呼ばれ、日本軍の防衛拠点だったそうです。写真下部のフェンスで囲まれている部分は当時のは塹壕です。

第二尚氏の第3代国王尚真王の長男を祖とする浦添家の屋敷跡では?と考えられている場所。

発掘調査の結果、岩盤の上に14世紀〜15世紀始め頃の布積みの城壁が見つかったそうです。

城の展望台からは浦添の街がよく見えます。そのため日本軍の防衛拠点になったのでしょう。
この海からアメリカ軍が上陸し、約3週間に渡る攻防戦が行われました。
アメリカでは「ハクソー・リッジ」と呼ばれ、アメリカ軍衛生兵を主人公にした映画があるそうで、アメリカ人が結構多く見学に来ていました。

南山城 (沖縄県糸満市) 市の史跡

南山城は、14世紀頃、南山王によって創建されたとされ、南山王国の王城であった。
国王が代々城主を継いだが、1429年に尚巴志(しょう はし)により南山王国が滅ぼされ琉球王国ができると、尚巴志が城主となった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD)
写真のコメントはガイドの説明を参照しています。

取材:文子

 

現在は神社と小学校になっており、遺構は写真の城壁の一部しか残っていません。
しかし、この野面積みの石垣は14世紀頃のもので、本土で石垣が使われるようになった200年以上も前に、琉球では石垣が使われていました。

糸数城 (沖縄県南城市) 国の史跡

糸数城は、14世紀前半に建てられた野面積み切石積みと双方用いた城壁をめぐらした城で、玉城城の玉城按司の三男の糸数按司の居城であったという。
一部戦火で破壊されているが、石垣の積み方や遺構の大部分が残っている古城として重要な遺跡である。

 (文化遺産オンラインより転載) https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140057

取材:文子

 

大手門。
切石積みの門の横は野面積み。


野面積みの石垣。

南北のアザナ(物見台)。
奥のアザナは切石積みですが、手前のアザナは下の方は切石積みだけど上の方は野面積みになっています。



こちらも切石積みと野面積みが混在している石垣です。

玉城城 (沖縄県南城市) 国の史跡

玉城城(たまぐすくぐすく・たまぐすくじょう)は、琉球の神話で琉球の島々をつくったと伝わる「アマミキヨ」という神が築き、その子孫の天孫氏が城主であったと言われている。その後、中山王国の英祖(えいそ)王統4代目の玉城王が王子時代に居城していたが、後に王位につくと自分の弟を玉城按司として城を守らせ、修築拡大を行ったと伝えられている。

 (沖縄観光コンベンションビューローHPより転載) https://www.okinawastory.jp/spot/30000054
写真のコメントはガイドの説明を参照しています。

取材:文子

 

戦後、米軍が建築材料として持ち出し破壊され、かろうじて一の郭の石門と拝所だけが残っています。

一ノ郭の石門。

一ノ郭に入ったところにある拝所。
左手に御嶽があります。


米軍が石を持ち出した跡。

知念城 (沖縄県南城市) 国の史跡

知念城は、知念按司の居城であると伝えられ、東西に連なる二つの郭からなり、東側を古城(クーグスク)、西側を新城(ミーグスク)と呼んでいる。
創建については不明だが、13世紀から利用されたグスクとみられている。

 (沖縄観光コンベンションビューローHPより転載) https://www.okinawastory.jp/spot/30000004

取材:文子

 

ミーグスクは二つの門と石垣で囲まれた郭です。正門(左)と裏門(右)が復元されています。

拝所からは、アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島・久高島を望むことができます。
久高島を望む写真は、ここからではなく、知念城入口近くの駐車場から撮ったものです。

佐敷上城 (沖縄県南城市) 市の史跡

佐敷上城(さしきうぃぐすく・さしきじょう)は、琉球三山統一を果たした尚巴志(しょうはし)とその父である尚思招(しょうししょう)の居城で、島添大里城を攻め落とす前に築いたグスクである。

 (沖縄観光コンベンションビューローHPより転載) https://www.okinawastory.jp/spot/600011790

取材:文子

 

現在は尚巴志一族を祀る神社「月代宮」になっています。
沖縄のグスクに見られるような石積みの城壁は発見されていませんが、尚巴志とその父がここから琉球統一へ向けての一歩を踏み出し たという歴史的には重要なグスクです。

島添大里城 (沖縄県南城市) 国の史跡

島添大里城(しましーうふざとぐすく・しましーおおざとじょう)は、島尻地域(沖縄本島南部)の東半分を支配下においた島添大里按司の居城であったが、佐敷グスクにあった尚巴志(しょうはし)によって1402年に落城した。尚氏時代は離宮として少なくとも15世紀中ごろまで使用されており、首里城と並ぶ壮麗な宮殿であったという。
沖縄戦では城内に陣地が置かれて建築資材に城壁が転用され、米軍の攻撃も相まって、大きな被害を受けた。戦後も復興資材に使われた結果、大半の遺跡は消失した。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B7%BB%E5%A4%A7%E9%87%8C%E5%9F%8E
写真のコメントはガイドの説明を参照しています。

取材:文子

 

尚思招・巴志親子が、ここ大里グスクを攻め落としてから中山へ兵を進め、琉球統一のきっかけになったとも言われるグスクです。

内郭に入って行きます。

物見台への道。

一の郭。
少し高くなったところからは正殿の礎石が見つかり、一段下がったところは御庭と考えられています。
下の写真は、残っている内郭の石垣。