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46 鹿児島県

Aランク(日本の100名城)

97. 鹿児島城 (鹿児島県鹿児島市) 国の史跡

鹿児島城は、薩摩国鹿児島郡に築かれた江戸時代の日本の城で、鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。
標高107mの中世上山城跡(城山)の東麓に島津家久が1601年に築城を開始し、約10年かけて完成させた平城である。中世以来の館造りを踏襲し、華麗な御殿建築が建つ本丸と二の丸の二つの曲輪から構成され、御楼門以外に天守も櫓もないシンプルな城であった。
代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。
城は1696年焼失、1707年再建されたが、1873(明治6)年再び本丸焼失、1877(明治10)年の西南戦争で二の丸も炎上し建物は焼失してしまい、現在、城跡には石垣と水掘りが残るだけとなっている。

 (日本100名城ガイドより転載) https://www.100finecastles.com/castles/kagoshimajo/

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%9F%8E

取材:文子

 

大手門あたる御楼門が2020年4月に復元完成しました。
御楼門復元にあたっては古写真や礎石を元に行ったそうです。
〜写真は城跡内の案内板より〜

 

御楼門の左手の石垣はやや荒い割石を横に並べる布積みです。

御楼門を入ったところの枡形虎口。
この石垣に西南戦争時の砲弾跡が残っています。

石垣と水堀。
御楼門の右手の石垣は、横に並べようとしたが乱れてしまった布崩し積みだそうです。

再訪したので、追記します。
写真のコメントは城跡内の案内板の説明やパンフレットを参照しています。


鹿児島城の範囲。
築城当初は、背後の城山に本丸、二之丸を置き、麓には屋形を置いて藩主の居所としていました。また、平城の三方は堀に囲まれていました。これは、島津氏が鎌倉時代からの守護として、山城と屋形で構成される城館という武家の伝統や格式を重んじて築城したものです。江戸時代の後半になると、本丸、二之丸は麓の居所を指すようになります。

本丸模型図。

二ノ丸跡。
苔が生えているこの場所は水堀だったところで、石垣の向こうが本丸です。

本丸と二ノ丸の石垣の境。
二ノ丸側に中の水堀からの排水口があります。

火山の多い鹿児島には、火砕流堆積物が固まってできた溶結凝灰岩が広く分布しており、この石は比較的加工がしやすいため、古くから様々な石造物に用いられてきました。
鹿児島城の石垣にも溶結凝灰岩が用いられており、切込み接ぎで積まれています。
御楼門脇の石垣は石材の縁を削る「金場取残積み」という繊細な技術を要する石垣です。

隅欠(すみおとし)。
鹿児島城の石垣の最大の特徴で、鬼門となる北東の方角の隅が欠けて積んであります。
これは鬼(災い)が入ってこないようにするためだと考えられます。
また右手の赤丸あたりの石垣が鹿児島城で一番古い築城時のものだそうです。

北御門前の土橋と北側石垣。
北側石垣はきれいな布積みです。
土橋は布崩し積みです。

 

Bランク(続日本の100名城)

197. 志布志城 (鹿児島県志布志市) 国の史跡

 

 

198. 知覧城 (鹿児島県南九州市) 国の史跡

 

 

 

Cランク