▲ページトップ

45 宮崎県

Aランク(日本の100名城)

96. 飫肥城 (宮崎県日南市) 市の史跡

飫肥(おび)城は、日向国南部の酒谷川北岸、シラス台地の地形を利用して曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。
飫肥城は南北朝時代に、土持氏が築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。
室町時代末期の1458年、九州制覇を狙う薩摩国の戦国大名島津氏が、日向の中・北部で鎌倉時代から勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、島津氏の一族で志布志城主だった新納忠続を飫肥城に入城させた。1484年、伊東氏が飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死してしまうと、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は飫肥城の城主を分家である島津豊州家に交代させた。伊東祐国の孫・義祐は1544年に飫肥城攻めを始め、1562年には飫肥城を手に入れた。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いに敗れて衰退し始めると、島津氏は日向で勢力を拡大し、1576年に飫肥城を再び支配下に収めた。
島津氏が豊臣政権の九州平定で降伏したため、伊東氏は1588年に飫肥城主に返り咲いた。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。
このように伊東氏と島津氏の飫肥城争奪戦は100年以上の長きにわたった。
なお、日向伊東氏は「曾我兄弟の仇討ち」で殺された工藤祐経の子が日向の地頭職を与えられたことにより始まる。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AB%E8%82%A5%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及び城跡内の案内板やガイドの説明を参照しています。

取材:文子

 

承応年間(1652〜1655年)の飫肥城下図。
〜写真は案内板より〜
飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷となっています。

現在の飫肥地区。
〜写真は案内板より〜
酒谷川で囲まれた飫肥城下のほとんどの街路は江戸時代前期と変わっていないことがわかります。

空堀。
大手門前に堀がありますが、シラス台地のため水がたまらず空堀でした。当時はもっと深い堀だったそうです。

大手門。(復元)

大手門の復元工事中に発見された正徳3年(1713年)と書かれた碑文。
当時の大手門建設に関わった人の名が書かれています。

城内マップ。
〜写真は資料館の入場券より〜
曲輪を幾つも並べていることがわかります。各曲輪はシラス台地を空堀で区切っていました。

大手門の桝形。

左を城内側から撮った写真

大手門を入ったところの犬馬場の石垣。向こうが本丸。

真ん中の見えない位置に、本丸からの虎口があります。

本丸からの虎口が見えました。

犬馬場全景。

大手門西側は今は飫肥杉林になっています。
飫肥杉は吸水性が低く、軽量で強度が高いことから造船用として盛んに利用されました。飫肥藩は植林を奨励し、江戸後期から藩の専売品となりました。
復元された大手門も飫肥杉で造られています。
奥には土塁が残っています。

本丸への登城口。
石垣は切込接ぎで、本丸への登城口のせいか、下の写真のようにデザインされているのがありました。

本丸跡。
現在は小学校になっています。

本丸から旧本丸への虎口。
江戸時代前期には三度の大きな地震に見舞われて大規模な改修が行なわれました。
この過程で本丸を現在地に移してその前に桝形の役目を担う石垣を築くなど、近世城郭となりました。

旧本丸跡。
ここも現在は飫肥杉林になっています。

旧本丸北門。
ここから出ると当時は西ノ丸、北ノ丸などの曲輪がありました。

飫肥城下町は1977年に九州では初めて「重要伝統的建造物群保存地区」となりました。
上級家臣の屋敷があった場所。

この交差点から先は中級家臣の屋敷へ続きます。
川へ向かっ下がっていっています。つまり、川が氾濫すると、下級家臣の屋敷が最初に被害を受けます。

蛇足ですが、この交差点は日本一小さいスクランブル交差点だとガイドさんが言っていました。

中級家臣の屋敷があった場所。

飫肥は石垣のまちと呼ばれているほど、城下町にも石垣が多く残っています。

 

Bランク(続日本の100名城)

195. 延岡城 (宮崎県延岡市) 市の史跡

 

 

196. 佐土原城 (宮崎県宮崎市) 国の史跡

 

 

 

Cランク