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41 佐賀県

 

日本100名城

87. 名護屋城

88. 吉野ヶ里遺跡

89. 佐賀城

続日本100名城

184. 基肄城城

185. 唐津城

Aランク(日本の100名城)

87. 名護屋城 (佐賀県唐津市) 国の特別史跡

名護屋城は、肥前国松浦郡名護屋に、明の制服を目指した豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した文禄・慶長の役に際し築いた平山城である。
築城に際し、縄張りを黒田孝高(官兵衛)、そして黒田長政、加藤清正、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で約6ヶ月後の1592年3月に完成した。
当時の大坂城に次ぐ規模を誇り、全国から160家の戦国大名が集結し、名護屋城の周囲3キロメートル内に130ヵ所ほどの陣屋がおかれた。5重7階の大天守からは全国の160家の戦国大名の陣屋を望むことができ、城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には当時のロンドンを超える20万人以上の人口を誇り繁栄した。
1598年秀吉が没したために全軍撤収し、名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉がここに滞在したのは延べ1年2か月であった。

 (名護屋城HPより転載) http://www.hizen-nagoya.jp/

取材:文子

 


ガイドツアーを予約し、私1人だけでガイドさんの説明を聞きながら、そしてiPadを借りてバーチャルリアリティ(VR)による当時の風景を見ながら回りました。。
名護屋城跡マップ 〜名護屋城HPより〜
(説明文中のマル数字はマップの番号)

大手口(J)。
城の正面玄関口になります。

東出丸(I)。
大手口から登城坂を登ったところにある曲輪。
ここだけ、角の部分が算木積ではなく、石を縦方向に積んだ縦石積みになっています。

三ノ丸(G)。
石垣が崩れているのは、風雨によるものではなく、徳川家康が人為的に壊したものだそうです。

三ノ丸にある井戸の跡。

名護屋城で一番大きな石。

馬場(@)。
ニノ丸に続きます。

ニノ丸(B)。

本丸の石垣。

本丸大手門(F)。
三ノ丸から本丸への入口に、二重の豪壮な門が築かれており、後に、仙台城主伊達政宗が城の大手門に移したそうです。国宝であったが第2次世界大戦の空襲で焼失しました。

本丸御殿跡。

天守台(D)。
5重7階の天守が建っていました。
冬の天気のよい日には対馬まで望めたそうです。

本丸から見た二の丸。

本丸から見た遊撃丸(C)。
1593年に講和使節として来日した沈維敬(遊撃将軍の使者)の宿舎となったため、この名がつけられたそうです。

名護屋城博物館にあった復元模型の写真を博物館ホームページより拝借しました。
https://saga-museum.jp/nagoya/

諸大名の陣跡。
これも名護屋城博物館ホームページより拝借しました。

前田利家陣跡。
近くにあったので立ち寄りました。

88. 吉野ヶ里遺跡 (佐賀県吉野ヶ里町) 国の特別史跡

吉野ヶ里遺跡は、弥生時代(紀元前5世紀頃から紀元後3世紀頃)の大規模な環濠集落(周囲に堀をめぐらせた集落)跡で、1986年からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園である。
吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
そのことから日本の城郭のはじまりともいえるもので、日本100名城に選ばれている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1
写真のコメントは吉野ヶ里歴史公園ホームページを参照しています。

取材:文子

 


復元された外壕。
右手は「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる、先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐものです。

復元された門。
弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあり、それを復元しています。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられているそうです。

南内郭。
内壕に囲まれた南内郭は王や支配者層が住んでいた場所で、物見櫓があり兵士が侵入者を厳重に見張っていたと考えられています。

支配者層の住まいと物見櫓。

物見櫓から見た「倉と市」のエリア。
左手にこのエリアの入口で見張る櫓門が見えます。

倉と市。
市長(いちおさ)の住まいと奥に見えるのは倉庫群。
国内の他の地域や中国、朝鮮半島との交流、交易を示す遺物が数多く発見されており、「市」が開かれていたと考えられています。

北内郭の入口。
鍵形に折れ曲がった構造をしています。古代中国の城郭都市に多く見られ、吉野ヶ里が大きな影響を受けていることを示しています。

北内郭。
まつりごとの場所と考えられています。

主祭殿。
重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられています。

89. 佐賀城 (佐賀県佐賀市) 重要文化財・県の史跡

佐賀城は、肥前国佐賀郡にあった輪郭梯郭複合式の平城である。
肥前の戦国大名龍造寺氏によって築かれた村中城が、江戸時代に入り外様大名の鍋島氏による拡張・改修により、現在の佐賀城の姿になった。
幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際には多布施川より送り込んだ大量の水によって本丸以外を水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。
明治時代初期に起こった佐賀の乱により鯱の門、鯱の門続櫓、本丸御殿以外の全ての建造物は焼失し、鯱の門と続櫓のみが今も残っており1957年に国の重要文化財に指定されている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及び城跡内の案内板やボランティアガイドの説明を参照しています。

取材:文子

 


1614年頃作成された絵図。
本丸には消失した天守が描かれています。本丸の北と東に二の丸を接して配置し、この2つの曲輪を水堀で囲んでいます。西側と北側に三の丸、西の丸、重臣屋敷がありました。
南・北・西側の水堀は現在も残っており、東側の堀も復元計画があるそうです。
佐賀城跡は本丸を除いて、現在は県庁や学校等の公共施設が建てられています。

北側の外堀。
ずいぶん幅の広いお堀です。

鯱の門と鯱の門続櫓。(国の重要文化財)
1838年に建てられた現存遺構で、屋根の両端に青銅製の鯱が載っていることから「鯱の門」と呼ばれています。

本丸側から見たもの。

天守台。
1611年に小倉城天守を参考にした4重5階の破風のない天守が完成しました。大きさは姫路城大天守よりも大きかったそうです。
しかし1726年の大火で、本丸、二の丸、三の丸が消失し、その後天守は再建されませんでした。
この天守台、本丸から登れませんでした。本丸から出て、二の丸側に登り口があるようでした。これは元々の構造だそうです。


例年なら桜が咲いているはずですが、今年はちらほら状態でした。

復元された本丸御殿。
1726年の大火後、二の丸を再建し藩政は二の丸を中心に行われました。しかしまたもや1835年の火災で二の丸が消失しました。
時の藩主鍋島直正が本丸を再建することとし、本丸御殿、鯱の門、続櫓が建てられました。これらの建物は明治に入ってからの士族氾濫である佐賀の乱でも消失を免れましたが、本丸御殿は老朽化のため1957年までに解体されました。
その後2004年に本丸御殿の一部を忠実に復元し、「佐賀城本丸歴史館」となっています。

復元されなかった建物の位置が平面表示されています。それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿であったため、名古屋城の本丸御殿よりも大きい日本一の広さの御殿だったそうです。

45mもつづく畳敷きの長い廊下。

御座間。
藩主鍋島直正の執務室でした。
別の場所で使われていましたが、本丸御殿の復元を機に本丸御殿内に再移築されたため、建設された当時の部材の建物です。

本丸南側の土塁。
取り壊されてされていたのを復元したそうです。

 

Bランク(続日本の100名城)

184. 基肄城城 (佐賀県基山町・福岡県筑紫野市) 国の特別史跡

 

 

185. 唐津城 (佐賀県唐津市) 模擬天守

唐津城は、唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式平山城で、北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれる。
1595年豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は関ヶ原の戦いでは東軍方につき、外様大名となり、1602年より本格的な築城を行い1608年に完成した。秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。
広高の子の堅高は、島原の乱の責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は、江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。以後は九州の外様大名を監視する役目もあり、譜代大名5家が入れ替わり城主となった。
天守の存在を示す資料は確認されておらず、天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して1966年に造られた模擬天守である。
廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化している。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%B4%A5%E5%9F%8E

取材:文子

 


天守台に建つ模擬天守。

本丸から見る唐津湾。
奥は虹の松原です。

満島山と本丸。

市街地に残る石垣。

 

Cランク