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36 徳島県

Aランク(日本の100名城)

76. 徳島城 (徳島県徳島市) 国の史跡

徳島城は1585年、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜り、築城した平山城である。以後、大坂の陣の戦功等により淡路7万1千石の加増がされ、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、明治維新を迎えた。
1873年に発布された廃城令により存城処分となり、1875年には鷲の門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。1905年の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放し、1941年には表御殿庭園が国の名勝に指定された。
明治以降の城地は石垣と堀、庭園、鷲の門のみが残ったが、1945年7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に唯一現存していた鷲の門も焼失した。1989年、鷲の門が復元された。

 (Wikipediaより転載)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及び城跡内の案内板の説明を参照しています。

取材:文子

 

縄張り図。
標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。

鷲(わし)の門。
徳島城の巽(南東)の方向に位置する場所にある門で、その造りは脇戸付きの薬医門です。
徳島市市制100周年を記念し復元されました。

下乗橋。
御殿の正面出入口にあたる橋で、元々は太鼓橋でしたが、1908年に現在のように水平な橋に改造されました。

下乗橋を渡ると、桝形が設けられた石垣や門で厳重に守られていました。

太鼓櫓跡。
居城に入る大手口の脇に構えられた櫓で、望楼型の3重4階であり、天守のような造りをした大型の櫓でした。

旧徳島城表御殿庭園。(国の名勝)
表御殿の書院と藩主が暮らす中奥に面して築かれた庭園で、枯山水、築山泉水を組み合わせています。
江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって造られたと伝えられています。
こちらは築山泉水庭園。

枯山水庭園。

西二の丸の帳(とばり)櫓跡

西二の丸跡。
なお、西三の丸の跡地は、現在水道水配水池になっています。

本丸西入口。

本丸跡。
本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番(じょうばん)の詰めた御留守番所のほか、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。

本丸東石垣。

東二の丸跡。
本丸から一段下がった東二の丸に天守代用の御三階櫓が建っていました。

数奇屋橋。
徳島城の鬼門(北東)にある数奇屋門に入る橋で、数奇屋門は別名「不明門」と呼ばれたように凶事以外には開けられませんでした。
当時は太鼓橋でした。

堀川と石垣。
堀川は城の東側に人工的に造られた川です。

舌石。
屏風折塀(びょうぶおれべい)の支柱石で舌石と呼ばれています。
屏風折塀は、塀の一部を屏風のように折り曲げて堀川の方向に突き出させたもので、この折塀に鉄砲や矢を撃つための穴を設けることによって正面のみならず側面方向への攻撃が可能となり、城の防御性を高めていました。徳島城跡の旧寺島川沿いには約32メートル間隔で6個の舌石が残っており、全国的にも類例の少ない貴重なものです。

助任川(すけとうがわ)から見た城山。

 

Bランク(続日本の100名城)

175. 勝瑞城 (徳島県藍住町) 国の史跡

 

 

176. 一宮城 (徳島県徳島市) 県の史跡

 

 

 

Cランク