31 鳥取県

Aランク(日本の100名城)

63. 鳥取城 (鳥取県鳥取市) 国の史跡

 

 

 

Bランク(続日本の100名城)

168. 若桜鬼ヶ城 (鳥取県若桜町) 国の史跡

 

 

169. 米子城 (鳥取県米子市) 国の史跡

米子城は、伯耆国(ほうきのくに)にあった平山城で海城である。
応仁の乱(1467-1477年)の頃、山名宗之によって砦として飯山(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられ、現在、「城山」と呼ばれている湊山の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家 が1591年に築城を開始した。しかし、完成した城を見ることなく、関ヶ原の戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなった。
1601年、伯耆国18万石の領主として 中村一忠が封せられ、1602年頃、米子城は完成したといわれている。
1609年に一忠が急死、中村氏が断絶し、翌年に加藤貞泰が入城したが、1617年加藤氏は伊予大洲へ国替えとなった。米子藩は廃藩となり鳥取藩池田光政の所領となって、米子城には家老の池田由成が城代として駐在した。
1632年には、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るまで米子城は家老の荒尾但馬家が城代として駐在した。

(米子城ホームページより転載) https://yonagocastle.com/
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%AD%90%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及び米子城ホームページやパンフレットを参照しています。

取材:文子

 

現在の米子城跡図。(マル数字は説明文で使用)
〜米子城ホームページより〜

江戸時代に新たに湊山に城が築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二の丸(C)、その下に三の丸(D)を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸(H)として利用された、梯郭式の平山城です。

現在は駐車場等になっている三の丸から見た二の丸。
高石垣で囲われた二段の郭です。
上段の郭には城主の御殿と武器庫、侍部屋等の重要な建物が置かれていました。

枡形虎口(F)。
二の丸の入口です。

内膳丸入口。

内膳丸(@)。
湊山と峰続きの丸山に築かれた出丸で、この郭から本丸に向けて登り石垣を築き、米子城の中海側の防衛線が設けられていました。

登り石垣(A)。
草に覆われてわかりづらいですが、登り石垣があります。
登り石垣とは、斜面の横方向の移動ができないようにするため、斜面を登るように築かれた石垣で、竪石垣とも呼びます。大規模な登り石垣は、朝鮮出兵に際して倭城の防備を固めるために新たに考案された石垣構築の一つの手法です。城びとより〜

番所跡。
本丸の番所がありました。

本丸(天守台)。
番所跡から見上げた本丸の石垣が圧巻。

左手には2段目、3段目に接続する四重櫓台があります。

本丸跡図。
〜米子城ホームページより〜

天守台(N)。
中村一忠が築いた独立式望楼型4重5階の天守があったことが、1878年に撮影された古写真でわかっています。
高さは21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守(2重2階)をしのいでいました。

伯耆富士と呼ばれる「大山」が見えます。

天守台の石垣。
打込み接ぎの石垣です。

四重櫓台(M)。
吉川広家が建てた初代の天守があった場所で、新天守が建てられた後も、「四重櫓」と呼んで存続させたと言われます。
この石垣は幕末に補修された切込み接ぎの石垣です。

VRで復元した天守と四重櫓。
〜パンフレットより〜

水手御門(K)。
中海側に張り出した郭から深浦側へ下る道に続きます。

本丸から眺める中海。

パンフレットの写真。

1863年に描かれた米子城絵図

 

Cランク