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18 福井県

 

日本100名城

36. 丸岡城

37. 一乗谷城

続日本100名城

137. 福井城

138. 越前大野城

139. 国吉城

140. 玄蕃尾城

その他の城

北ノ庄城

Aランク(日本の100名城)

36. 丸岡城 (福井県坂井市) 重要文化財・現存天守

丸岡城は、越前国坂井郡にあった城で、別名霞ヶ城と呼ばれる。江戸時代には丸岡藩の藩庁となった。

福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市の興善寺および、あわら市の蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。
「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B2%A1%E5%9F%8E

取材:大倉 (文子による攻城記へ

取材:文子

丸岡城は1576年柴田勝家の甥である勝豊により築城された。
1583年、柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝を置いた。1600年、関ヶ原の戦いで西軍についた青山氏は改易され、越前国には徳川家康の次男結城秀康が入封し、丸岡城は秀康家臣の今村盛次に与えられたが失脚し、福井藩2代目の松平忠直の附家老・本多成重が新たな城主となった。
1624年、松平忠直が不行跡を理由に豊後配流となり福井藩が減封されると、本多成重は福井藩より独立し大名となり丸岡藩が成立した。
その後1695年、4代目の時代に本多家はお家騒動で改易され、有馬清純が越後国糸魚川藩より入城した。以後、有馬氏が6代続き明治維新を迎えた。


丸岡城は桜の名所でもあります。桜が満開の季節に行きました。

丸岡城ジオラマ。
本丸・二の丸は五角形をした広大な内堀に囲まれていたことがわかります。そして内堀の外に囲むように三の丸がありました。
しかし、明治以降内堀はすべて埋められてしまいました。

天守は2重3階の望楼型です。
初期望楼型の天守から建造は戦国末期で、現存する最古の天守と言われてきましたが、江戸時代の寛永年間(1624年〜1644年)に入ってからの建造だということが2019年に判明し、市民はがっがりしたそうです。
現在のところ、建築材の年輪から現存最古は犬山城になります。

丸岡城は1948年の福井大地震で天守は倒壊し、1955年に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものです。
福井地震で落下した、福井市の足羽山で採掘される笏谷石(しゃくだにいし)でできた鯱が現在、天守登り口の階段脇に置かれています。現在の鯱は創建当時の材質の木彫銅板張に戻されています。

城内の階段は60度以上の傾斜があり、観光用のロープが取り付けられているのでロープ使って登りました。

瓦は石瓦です。
築城時は柿葺き(こけらぶき)であったが、寒冷地であるため石瓦に変更されたと言われます。

37. 一乗谷城 (福井県福井市) 国の特別史跡

一乗谷城(いちじょうだにじょう)は、越前国にあった戦国時代の城で、朝倉氏によって当主の館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世の山城であるが、一度も戦闘に使用されることなく廃城となった。
一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる遺跡全体が、国の特別史跡に選ばれている。

 

応仁の乱(1467年〜1477年)により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
1573年、戦国5代朝倉義景が織田信長との一乗谷城の戦いで大敗し、一乗谷は信長によって焼き払われた。
その後越前を治めた柴田勝家は、本居地を北ノ庄(福井市中心部)に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F%E9%81%BA%E8%B7%A1#%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E5%9F%8E

取材:文子

 

今回は、一乗谷城跡自体は山の頂上で登山になるため行かず、山麓の城下町を見学してきました。

唐門。
朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門。朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わり、現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものです。

朝倉館跡。
最後の当主であった義景の館跡。非常に広大で17棟の建築物があったそうです。

花壇跡。
緑の部分は花壇の遺構で、花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明しています。花壇としては現在のところ、日本最古の遺構だそうです。

朝倉義景墓。
1663年、福井藩主松平光通が墓塔を建立しました。

湯殿跡庭園。
遺跡内には4つの庭園があり、国の特別名勝に指定されています。
この湯殿跡庭園は4つの庭園の中で最も古いものだと考えられています。

諏訪館跡庭園。

復原町並。
発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元されています。

 

Bランク(続日本の100名城)

137. 福井城 (福井県福井市)

福井城(ふくいじょう)は、越前国足羽郡北ノ庄(改め福居)のち福井にあった平城である。本丸の石垣と堀が残るが、二の丸、三の丸はほぼ消滅して市街地化している。

 

1601年に家康の次男である結城秀康が築城に着手し、6年の歳月をかけて完成した。
本丸には4重5階の天守が建てられたが、1669年に天守が焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9F%8E

取材:文子

 

内堀が残っており、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあります。

大手門(瓦御門)跡を入ると結城秀康像がありました。

天守台。

復元された山里口御門。

復元された御廊下橋。
藩主が登城する際の専用橋として使われていたそうです。

138. 越前大野城 (福井県大野市) 県の史跡・復興天守

 

 

139. 国吉城 (福井県美浜町) 町の史跡

 

 

140. 玄蕃尾城 (福井県敦賀市、滋賀県長浜市) 国の史跡

 

 

 

Cランク

北ノ庄城 (福井県福井市)

北ノ庄城は柴田勝家の居城で1575年に築城が開始され、天守は7重(一説には9重)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。北ノ庄城の本丸は現在の福井城と比較するとやや南側に位置する。

 

1583年4月の北ノ庄城の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9F%8E#%E6%9F%B4%E7%94%B0%E6%B0%8F_%E5%8C%97%E3%83%8E%E5%BA%84%E5%9F%8E

取材:文子

 

跡地には勝家を祀る柴田神社があります。

柴田勝家像。

お市の方と3人の娘の像。