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13 東京都

 

日本100名城

21. 江戸城

22. 八王子城

続日本100名城

123. 滝山城

124. 品川台場

Aランク(日本の100名城)

21. 江戸城 (東京都千代田区) 重要文化財・国の特別史跡

江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
現存遺構である桜田門、田安門、清水門が国の重要文化財に指定されている。

 (Wikipediaより転載) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E

取材:大倉(文子による攻城記へ

 

取材:文子

写真のコメントはWikipedia及び皇居外苑ホームページを参照しています。

皇居外苑マップ。
〜マップは皇居外苑ホームページより〜 ↓クリックするとマップと説明文のPDFが開きます。

桜田門(外桜田門)。(国の重要文化財)
1663年頃建築され、1923年の関東大震災で破損し、復元されました。
江戸城の大半の虎口は、一の門である高麗門と二の門の櫓門で構成されています。

桜田門 高麗門(左)と櫓門。

桜田門 櫓門。

田安門。(国の重要文化財)
1636年に建てられた門で、江戸城の総構えが完成した当時から残る唯一の遺構です。

大手門。
江戸城正門です。昭和まで現存していましたが空襲で焼け、1967年に復元されました。

大手門 高麗門(左)と櫓門。

大手門 櫓門。

桔梗門。
正式には、外桜田門に対し内桜田門と呼ばれますが、太田道灌時代、大手正門であったころから、瓦に施された家紋である「桔梗」にちなんで、桔梗門と呼ばれています。
大手門が大名などが登城するために使用していたのに対して、「桔梗門(内桜田門)」は旗本や商人たちが通行する虎口として使用していました。

坂下門。
左の坂を登ったところに西の丸御殿(現在は宮殿)がありました。西の丸の坂下にあったことから坂下門と言われています。
現在は宮内庁の通用門として使用されているため警備が厳重です。
右の写真は新年の一般参賀の際の坂下門です。

平川橋と平川門。
江戸城三の丸の正門であり、大奥に通じていたことから「お局門(おつぼねもん)」とも呼ばれていました。

不浄門。
平川門は高麗門と櫓門に加えてもうひとつ、帯郭門があります。「不浄門」と呼ばれる門で、城中で亡くなった人や罪人を出す際に使用されていました。
生きたままこの門を出たのは浅野内匠頭と絵島だけといわれているそうです。

伏見櫓。(現存ではあるが、関東大震災で損壊したため解体して復元)
左の写真は「皇居正門石橋」越し。この石橋が二重橋と思われているようですが、その奥にある橋「皇居正門鉄橋」を二重橋と言います。
手前にあるのが十四間多聞櫓です。

皇居正門鉄橋(二重橋)。
元々は、西の丸大手橋(石橋の位置)と下乗橋(鉄橋の位置)で、明治に入ってから架け替えられました。

富士見櫓。(現存ではあるが、関東大震災で損壊したため解体して復元)

1657年の明暦の大火で天守が消失した後、富士見櫓を実質の天守としていました。これ以降、諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになりました。
下の写真は皇居内(一般参賀時)から、右の写真は東御苑内から撮ったものです。

桜田巽櫓。(現存ではあるが、関東大震災で損壊したため解体して復元)
現存する唯一の「隅櫓」で、江戸城三の丸の東南(巽)側にあり全国でも最大級の二重櫓です。

江戸城には警備要員の詰所として多くの番所がありましたが、現在残っているのは3つだけです。
大番所。

百人番所。

同心番所。

北桔橋門(きたはねばしもん)の石垣。
このあたりの石垣は、江戸城の城壁の中で、最も高く(18.5m 内外)野面積みが用いられています。
また、北桔橋門の両袖には、白い築地塀が残されていて、高い石垣とともに、天守や本丸御殿を背後から守るために防御性を高めていました。

桜田門を入ったところの石垣。

天神濠の石垣。

22. 八王子城 (東京都八王子市) 国の史跡

八王子城は、小田原に本拠をおいた後北条氏の三代目・氏康の三男・北条氏照が築いた武蔵国にあった山城である。1582年頃に築城が開始され、1587年頃までにそれまでの滝山城(八王子市)から拠点を移したとされる。
一般的にこの時期は、山城の役割は終焉し築城は平城に移っているときであった。
豊臣秀吉の小田原征伐の一環で1590年7月24日、八王子城は豊臣軍の上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。一方当時八王子城は城主・氏照が小田原城に籠城中のため不在で、場内には城代や家臣および近隣の農民・婦女子ら約3千人が立てこもっていたとされるが一日で落城した。この八王子城の落城が決め手となって、本拠の小田原城は開城、氏照は兄の氏政とともに切腹し北条氏は滅亡した。
その後、新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%9F%8E
(八王子市HPの八王子城跡散策マッフ゜より転載) マップ@ マッフ゜A
写真のコメントは城跡内の案内板及び上記八王子城跡散策マッフ゜の説明を参照しています。

取材:文子

 


縄張り図。
城は大まかに、城下町に当たる「根小屋地区」、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる「要害地区」に分かれています。

松木曲輪跡。(要害地区)

松木曲輪からは八王子市街がよく見えます。

本丸跡。(要害地区)
山頂であまり広くないため、大きな建物はなかっと考えられています。

小宮曲輪跡。(要害地区)
背後から上杉軍に責められここが陥落し、松木曲輪、本丸と順に陥落していきました。

金子曲輪跡。(要害地区)

曳橋。(居館地区)
古道から御主殿へ入るためにかけられた橋で、復元ではありません。
当時はこの位置に簡単な木橋をかけ、その橋を壊すことで敵の侵入を防いだと考えられます。

曳橋から見た御主殿跡の石垣。

曳橋を渡ったところの石垣。

虎口。(居館地区)

石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元しているそうです。

御主殿跡。(居館地区)

発掘調査の結果、礎石や水路跡、多数の遺物が出土したそうです。
出土した遺跡は埋め戻され、位置がわかるように復元整備されています。
向こうに見える門は虎口からの入口で、当時の門をイメージして建てた冠木門(かぶきもん)です。

 

Bランク(続日本の100名城)

123. 滝山城 (東京都八王子市) 国の史跡

 

 

124. 品川台場 (東京都港区) 国の史跡

 

 

 

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