▲ページトップ

12 千葉県

Aランク(日本の100名城)

20. 佐倉城 (千葉県佐倉市) 市の史跡

佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532年から1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしまもとたね)が鹿島台に築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の1610年に佐倉に封ぜられた徳川家康の母方の従弟・土井利勝によって翌1611年から1616年までの間に築造された平山城である。
佐倉は江戸東方の要衝として重視され、一門・譜代大名が配置された。江戸時代前期から中期にかけては藩主家は頻繁に交替したが、1746年に堀田氏が再封されて定着し、廃藩置県まで続いた。佐倉藩は諸藩中最も多くの老中を輩出しており、佐倉城は「老中の城」とも称され、なかでも、日本を開国に導いた幕末期の藩主・堀田正睦(ほったまさよし)が有名である。
北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地に西向きに突き出した標高30m前後の台地先端に位置し、こうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配して城下町とした。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去され、その後帝国陸軍の駐屯地となった。現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。

 (佐倉市ホームページより転載) https://www.city.sakura.lg.jp/soshiki/koenryokuchika/3/13/4609.html
(Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipedia及び城址内の案内板の説明を参照しています。

取材:文子

 

佐倉城鳥瞰図。
この写真は出典さえ明記してあれば二次使用可ということで余湖くんのお城のページより拝借しました。
現在、椎木曲輪跡には国立歴史博物館が建っており、本丸、二の丸、三の丸は佐倉城址公園として整備されています。

佐倉城址公園マップ。(クリックして表示されたマップを拡大できます) 
〜佐倉市ホームページより〜

馬出し空堀。(復元)
明治初期に軍隊駐留のため埋められましたが、戦後の発掘調査で長辺121m、短辺40mのコの字型で深さ5.6mの規模であることがわかりました。長辺、短辺はそのままで深さは3mで復元されています。

椎木門跡。
明治初期の椎木門。〜案内板より〜

二の門跡。
二の丸の入口です。
明治初期の二の門。〜案内板より〜

二の丸御殿(御番所、対面所)跡。
城主は本丸御殿ではなく二の丸御殿に住んでおり、佐倉城の中枢でした。

一の門跡。
本丸の入口で、奥が本丸跡です。
明治初期の一の門。〜案内板より〜

本丸を囲む土塁。
佐倉城は石垣のない土づくりの城で、本丸の土塁の上には土塀がありました。

天守台跡。
天守の代用とした御三階櫓が建っていました。
2段の土塁上に片側を架ける造りで、本丸側からは4階建て、反対側からは3階建てに見えました。
1813年の火災で焼失後は再建されることはありませんでした。

天守模型。
佐倉城址公園管理センター内に展示してあります。

台所門跡。
搦手の門になります。

台所門から出ると帯曲輪、そして出丸へと続きます。
しかし、この急な坂を降りてまた戻ってくることを考えると元気がなくなり、行くのを諦めました。
城址公園内にいると平坦なので感じなかったのですが、主郭の周りは崖でやはり城だと感じました。

三の門跡と三の丸跡。
明治初期の三の門。〜案内板より〜

三の丸の空堀。

空堀。
このように随所に空堀があり、城の守りとしています。

姥ヶ池。
江戸時代には「かきつばた」の名所でもあった所だそうですが、今は「スイレン」です。

 

Bランク(続日本の100名城)

121. 本佐倉城 (千葉県酒々井町) 国の史跡

 

 

122. 大多喜城 (千葉県大多喜町) 県の史跡・復興天守

 

 

 

Cランク