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10 群馬県

 

日本100名城

16. 箕輪城

17. 金山城

続日本100名城

115. 名胡桃城

116. 沼田城

117. 岩櫃城

その他の城

高崎城

Aランク(日本の100名城)

16. 箕輪城 (群馬県高崎市) 国の史跡

箕輪城(みのわじょう)は、上野国(こうずけのくに)にあった戦国時代の平山城である。
1512年頃この地を支配する長野氏によって築かれた。1566年武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして遂に落城し長野氏は滅亡した。
その後は、武田氏、織田氏、北条氏の所有となり、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐による落城後は徳川家康の関東入封で、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが1598年高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipediaや城址内の案内板及び箕輪城跡パンフレットを参照しています。

取材:文子

 


曲輪配置図。
長野氏時代の城とはかなり異なっていて、最後の井伊直政時代に近い形で残っています。

二の丸。

大堀切と土橋。
大堀切は箕輪城を南北に分断する堀で、堀の南側が落とされても城の主要部である北側を守ることができる役割を果たしていました。この堀を唯一渡ることができるのがこの土橋で、城最終時の形状に復元しています。
土橋を渡ったところは郭馬出。

大堀切と郭馬出西虎口。

大堀切土橋の石垣。
土橋の基底部に土留めの石垣を発掘調査で確認し、石垣は埋め戻して新たな石垣を復元しています。

郭馬出。
南側に出撃する拠点となる曲輪。

郭馬出西虎口門。
発掘調査の結果、8つの礎石が見つかり二階建ての櫓門と推測され復元されました。

三の丸。

三の丸の石垣。
城内で最も高い4.1mの石垣を確認し、関ケ原の戦い以前の関東では有数の規模であり、井伊直政が北関東の要の城にふさわしい形で改修したと思われます。
また、下の層(背後)で確認された石垣は古い時期のもので、同様の石垣が北条氏邦が城主を兼任していた鉢形城でも見つかっているそうです。

本丸の堀。
幅30〜40m、深さ10mの空堀で、当時の堀は現在の2倍の深さだったそうです。
見える木橋は本丸西虎口(右手が本丸)に架かる橋で、発掘調査で確認された礎石配置や箕輪城の移城先である高崎城の本丸にかかる橋の絵図を参考にして架けたものです。

木橋から見た堀。

左手の本丸西虎口は礎石が4つあり、その配置から2階建ての高麗門と推測され、復元計画があるそうです。

御前曲輪。

本丸。

17. 金山城 (群馬県太田市) 国の史跡

金山城は群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの金山に築かれた山城である。
1469年に新田一族の岩松家純によって築城され、下剋上によって城主となった由良氏の時代に全盛を迎えた。
上杉謙信や武田勝頼などの有力戦国大名からは10数回に及ぶ攻撃を受けるが、一度も落城することなくその堅固さを誇った。しかし、小田原北条氏の謀略に落ちて支配下となっていた1590年、豊臣秀吉の北条氏征伐により廃城となった。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%9F%8E
 (太田市金山城跡リーフレットより転載) 
写真のコメントは城址内の案内板及び太田市HPの金山城跡のパンフレットや金山城跡リーフレットの説明を参照しています。

取材:文子

 


金山城鳥瞰図。

金山城跡のパンフレットより。

金山城跡主要部。

金山城跡リーフレットより。

西矢倉台下堀切。

物見台下堀切。(C)
岩盤を人工的に削って造った堀切です。

※番号は以下、上のマップの白抜き数字の位置を表します。

物見台下虎口。(D)
通路の正面に石積みがあり、その先が見通せず威圧感を感じさせます。

竪堀。(E)
竪堀の脇には石垣があり、堀底には通路があったそうです。

馬場下通路。(F)
上にある馬場から見たもので、通路の左手の先は行き止まりになっていて敵を惑わせます。
敵の侵入を、こうやって上から監視するのですね。

馬場曲輪。(H)
大手虎口を守る兵が待機したと思われる曲輪です。

大堀切。(I)
金山城の中で一番大きな堀切で、当時は長さ46m、幅15m、深さ15mという大規模なものだったそうです。

月の池。(J)
長い籠城に耐えられるよう生活水を確保するための「貯水池」であると考えられます。

大手虎口。(K)
実城へ向かうための通路を厳重に守っていた一大防御拠点であったと考えられます。
敵に対しては「威嚇」を、味方に対しては「威厳」を示すという、「見せるための空間」であったともいえるそうです。
確かに、ここへ入った瞬間、圧倒されました。

南曲輪。(M)
南上段曲輪では、石組み井戸址、石敷き建物址(火薬庫か)、カマド址などが見つかっており、生活の場でもあったことが明らかとなりました。

向こうに見える建物がある場所が三ノ丸跡で、現在民有地のため立ち入れません。

日ノ池。(N)
こちらも「貯水池」ですが、築城以前に造られた、水に関わる祭祀を行うための土馬が出土していていることから「聖地」であったようです。そのため、池は戦勝祈願や雨乞いなどの儀式に使われたのではと考えられています。

御台所曲輪の大ケヤキ。
樹齢800年ということで、金山城が築城される前からここにあります。

実城(本丸)。
本丸跡には明治になってから、この地出身の新田義貞を祭神とする新田神社が建立されました。
新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼすことに功績があったが、南朝側につき足利尊氏と対立し戦死した人です。

本丸から見た景色。
今にも降りそうな天気だったので霞んでいますが、遠くは下野国(栃木県)足利方面で、この城は上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)の国境にあるのがわかります。

 

Bランク(続日本の100名城)

115. 名胡桃城 (群馬県みなかみ町) 県の史跡

 

 

116. 沼田城 (群馬県沼田市) 市の史跡

 

 

117. 岩櫃城 (群馬県東吾妻町) 国の史跡

 

 

 

Cランク

高崎城 (群馬県高崎市) 市の史跡

高崎城は上野国(こうずけのくに)群馬郡にあった平城である。
箕輪城主となっていた井伊直政が、1597年家康の命により、小田原征伐で廃城となった和田城跡に近世城郭を築いた。この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされたためである。翌1598年直政は箕輪城から築城中の高崎城に移り、箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いた。
1600年の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となり、その後の城主は譜代大名が目まぐるしく入れ替わった。
1873年の廃城令により存城となり陸軍が置かれ、以後建造物は移築もしくは破却され、本丸や二の丸の堀は埋め立てられ、現在では三の丸の堀と土塁がわずかに昔の面影をとどめているのみである。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%9F%8E

取材:文子

 


三の丸の堀。

三の丸の土塁。
今は桜の木が植えられ、この一帯は桜の名所になっています。

乾櫓。
本丸には天守代用の御三階櫓があり、それを取り囲むように4つの隅櫓がありました。その1つが乾櫓で、廃城後農家に払い下げられ移築されて納屋として利用されていましたが、群馬県の重要文化財に指定されたのを期に三の丸の模擬石垣上に移築復元されました。

東門。
この門も、本来は本丸にあり通用門として使われていました。こちらも農家に払い下げられていたのを、乾櫓近くに移築復元されました。